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怖ろしい事実

「ご迷惑をおかけいたしました」


 翌日の夕方には戻ってきたわたくしをご覧になって、レティツィア様は目を丸くして驚かれました。王子殿下とのお茶の時間にお邪魔をするのはいささか無粋かとも思いましたが、帰ってきた報告くらいはしておかなければならないでしょう。


「迷惑なんて……そんなことはありませんけど、その、ご実家は大丈夫なんですか?」


 心配げな声音でそう言ってくださるレティツィア様に申し訳ないと思いながらも、わたくしは深く頷きました。


「母は驚異的な早さで回復していました。したがいまして、もう心配はございません」


 遠い目をしながらそう言うわたくしに、レティツィア様は気遣わしげな笑みを浮かべられました。


「それならいいんですけど」


「王子殿下も、馬をお貸しくださってありがとうございました。おかげで随分と移動時間が短縮できました。お礼申し上げます」


 わたくしがぺこりと頭を下げると、王子殿下は鷹揚に微笑みました。


「それはなにより。君も疲れたろう。今日はもういいからゆっくり休みなさい」


 王子殿下のお言葉をありがたく受け取って、わたくしは再度お辞儀をして部屋を後にしました。そのまま次は執事長のヘルベルトさんのところに報告へ向かいます。

 ヘルベルトさんの部屋のドアをノックすると、「どうぞ」と声がかかりました。


「失礼します」


 ドアを開けて、他の使用人の部屋よりも広い室内に踏み込みました。


「ああ、もう帰って来たんですか。随分早かったんですねえ」


 机の上で書類に目を通しながら、ちらりと顔をあげたヘルベルトさんが柔和な目つきでそう言いました。


「母上の具合が悪いと伺っていましたが、もう少しゆっくりしてきても良かったのでは?」


 ぱさりと手にしていた書類を机の上に置いて眼鏡をはずすと、背もたれにゆったりともたれかかって鼻の下にたくわえた立派なひげに手をやる姿はまるで優しいお祖父様のようです。穏やかに話すヘルベルトさんの顔を見ていると、なんだかようやく日常に戻ってきたように感じて、急に肩の力が抜けました。


「はあ……、何と言いますか。結論だけ申し上げますと、母はまだまだ死にそうにないです」


 説明するのも面倒でそれだけを口にしたわたくしに、ヘルベルトさんはなぜだか愉快そうに笑いました。


「まあ、お元気ならそれが何よりですよ」


 にこにこと穏やかに微笑む彼のような悟りの境地に到達するためには、まだまだ先が長そうです。わたくしはごまかすように曖昧に笑っておきました。


「ところで、帰ってきて早々に申し訳ないのですが、これをマルコ様に届けていただけませんか。私は少し手が離せないもので」


 ヘルベルトさんがそう言って書類の束を差し出しました。条件反射で受け取ったものの、釈然としないわたくしはヘルベルトさんに問いかけました。


「前からお聞きしようと思っていたのですが」


「はい」


「どうしてマルコ様への届け物は全部わたくしに託されるのでしょう? 特に今日は今着いたばかりで、このように着替えもしていません。王子殿下からも今日はゆっくり休んでいて良いとお言葉を頂いております。つまり、わたくしは今日はお休みという認識でいるのですが」


 不満げな表情を隠しもせずにそう言うと、ヘルベルトさんは意外なことを聞いたとでも言うように、器用に片眉をあげて見せました。


「もちろん、お休みのところ申し訳ないとは思っていますよ。ですが、他のメイド達は皆マルコ様のことを怖がっていて近づきたがらないし、従僕達は他の仕事を抱えていまして。……それに」


 そこで言葉を切ったヘルベルトさんの目が意味ありげに輝いた気がします。なんだか、嫌な予感。


「あなたはマルコ様とは仲良くしているようですから」


 なんでしょうか、その誤解。

 妙に楽しそうなヘルベルトさんの顔を恨めしげに見つめます。


「誤解です。わたくしは別にマルコ様と親しくしているつもりは毛頭ありません。マルコ様関連の用事が何故かわたくしにすべて回って来るものですから、そう見えているだけではありませんか」


「そうなんですか?」


「そうなんです」


 憮然とした表情のわたくしを優しいまなざしで見つめながら、ヘルベルトさんは小首を傾げて見せました。ぬう、さては納得していませんね。


「まあ、仲が良いかどうかはともかく。あなたがマルコ様のことを怖がったりしない、というのは間違いないでしょう。ということは、メイド達の中ではあなたが適任ということです」


 結局結論は変わらないのですか、そうですか。


「……わかりました」


 もとより今の状況が変わるとは思っていなかったわたくしは、渋々ながらも頷きました。改善されないとわかっていても、文句のひとつも言いたい気分だったのです。

 渋々書類の束を両手に抱えると、ぺこりと頭を下げてヘルベルトさんの部屋を出ました。マルコ様の部屋へ向けて廊下を歩きながら、気の重さにわたくしは思わずため息をつきました。


 ――あれ以来。

 特にわたくし達の関係に変化などありません。

 何を言われたわけでもありませんし、何かされたということもありません。あれは何だったんだと思わなくもありませんが、まあ、ことさらに騒ぎ立てるほどの事でもないでしょう。

 わたくしだってもういい年ですし、別にあれが初めてだという訳でもありません。それなりの経験がわたくしにだってございます。ただし、わたくしのそれは思い出したくもない黒い歴史。


 あれは、わたくしがメイドとして働き始めて三年目。それなりに仕事もできるようになり、仕事の他にも目を向ける余裕ができた頃のことでした。

 相手はかつてここで働いていた庭師の男。四歳年上の彼は、うら若い小娘には随分と大人に見えて、わたくしは想いを返してもらえることに舞い上がっていたのです。

 彼は優しくて穏やかな笑顔の女心の良くわかるひとでした。触れる手はいつも優しく、紳士的な節度ある距離を保ち、はにかむような表情でそっと一輪の薔薇を差し出すような。

 大きな体を小さく折り曲げて、優しい表情で花の手入れをする彼を見つめるのが、わたくしの密かな楽しみだったのです。


 ところが、ある日。夢のような日々は唐突に終わりを告げました。

 いつものように空いた時間で彼に会おうと裏庭を歩いているわたくしの目に入ったのは、人目につかない生垣の隅で抱き合うふたりの影。

 わたくしの足音に気付いてこちらを振りかえったのは、探していた彼でした。

 言葉を失うわたくしに、彼は言いました。

『君のことを傷つけてすまなかったと思っている。けれど、自分の心に嘘はつけない』

 彼はそう言って、隣に寄り添っていた人物の手をとって走り去りました。以来、彼らの行方は杳として知れません。


 ……浮気くらい、とお思いになりますか?

 そうですわね、ただの浮気だったのなら、わたくしとてここまでこじらせることはなかったと自覚しています。

 けれど残念なことに、それはただの浮気などではなかったのです。

 本命はわたくしの方ではありませんでした。いいえ、むしろ本当は、浮気ですらなかったのです。

 彼と手に手をとってふたりで愛の逃避行を繰り広げた相手――それは、同じお邸で働いていたまだ年若い小姓。つまり、少年です。


 そう、彼は女性を愛せないひとだったのです。彼は自分を一途に恋い慕うわたくしを、本当は好きでもないのに愛しているふりをして、自身の道ならぬ恋の隠れ蓑に利用していたと、そういうことでございます。

 念のため申し上げておきますが、わたくし、同性しか愛せない方々のことをとやかく言うつもりはございません。同性であろうと異性であろうと、恋は恋、愛は愛です。間違っていることがあるとは思いません。


 ただ。

 それを隠そうとして、純粋な恋心を利用することが許されてたまるものかと、そう思うのでございます。

 今となっては、深い仲になる前に事態が明るみに出たことだけが、不幸中の幸いでした(深い仲というものになりようがなかっただけかもしれませんが)。


 あれ以来、わたくしは男など容易に信じるものかと心に刻んで生きてまいりました。

 母の話を断り続けていたのは、レオンが言っていたような年頃の娘らしい思惑などではなく、ただの嫌悪感からでございます。もちろん、世の男性がすべからくその様なろくでなしだとは思いません。ですが、そういった不安に付きまとわれるようなお付き合いを面倒くさいと思ってしまうほどには傷ついていたのでしょう。


 本当は、断れるはずもないことは分かっているのです。結婚など、自分の意志で決められるのはほんの一握り。親のいいなりの結婚をするしかないことは十分なほどわかっています。

 今までなんだかんだと言いながらも母が無理に結婚を押し通そうとしなかったことは、当たり前のことではないのです。最後にはわたくしの意志を尊重してくれることに関しては、わたくしだってありがたいとは思っています。

 ……ここまできたら、このままでもいいのではないかと思うのですが。

 母が諦めるのが先か、わたくしが折れるのが先か。

 この膠着状態がずっと続くものと、わたくしはそう思っていたのです。


 そこへ来て、マルコ様の暴挙と呼ぶにふさわしいあの行い。

 目つきの悪さとその無表情さから、少し近寄りがたい雰囲気を醸し出されるため、同僚のメイド達は怖がってしまって近づきたがりません。何かとマルコ様関連の用事を頼まれることが多かったわたくしは、彼が人付き合いに不器用なだけで、怖い方ではないと知っていました。

 ですが、それはあくまで仕事上のお付き合いの話。

 王子殿下にしたって、今でこそレティツィア様一筋を貫いていらっしゃいますが、以前はあの美貌にものを言わせてフラフラとあちらこちらのご令嬢を泣かせていたものです。

 男なんて信用なりません。

 それはマルコ様だって例外ではないと思うのです。


 現に、あれ以来、何の働きかけもありません。例えば少しでも好意を持っているというのであれば、何かしらの行動があると思うのですが、皆無です。

 ということは、です。

 あの場限りの欲求を満たすためだけの行為ということに他なりません。

 ほら!

 もう立派なろくでなしではありませんか。

 ですから、わたくしは犬にでも噛まれたのだと思って忘れることにしたのです。あれはカウントに値しない、ただの事故であると。


 ……ああ、でもそう言えば、ひとつだけ変わったことがありました。

 気がつくと、見られているのです。視線を感じて振り返ると、そこには鉄壁の無表情が立っている――ということが多くなりました。話しかけられるでもなく、微笑みかけられるでもなく、ただ見つめられているのです。

 正直、ここまで来るとストーカーに近いものを感じます。

 ……このお話ってサスペンスかホラーだったのでしょうか?

 全力で遠慮したいところなのですが。


 げんなりとした気分を抱えつつ、たどりついてしまった目的地の部屋の前で、わたくしは深呼吸をして気持ちを落ち着けました。ぐっと唇を噛みしめて、ドアをノックします。


「……どうぞ」


 扉の向こうから聞こえてきた低い声が、ざわりと胸を騒がせます。波立った胸の内を努めて気にしないようにしながら、わたくしは扉を開けて室内に入りました。


「失礼いたします」


 執務机に座ったマルコ様の机上に落ちていた視線が上がってわたくしの姿を捉えると、驚いたのか、ほんの少しだけ目を見張ったように見えました。


「ヘルベルトさんから書類をお届けするよう承ってまいりました」


 机を挟んで向かい合い、手に持った書類を差し出しわたくしを、マルコ様はじっと見つめています。無言でじっくりと見つめられたわたくしは、穴があいてしまいそうな心持ちになりました。

 ですが、今日のわたくしはお休みですし、正直疲れ切っています。ここで不必要に疲労感を増すことは早々に切り上げたいのです。


「…………あの?」


 おそるおそる口を開いたわたくしから、マルコ様は慌てたそぶりも見せずに、立ち上がって書類を受け取りました。


「ああ……、すまない」


「いえ。それでは、わたくしはこれで」


 無事に職務を果たしたわたくしは、ほっとしてぺこりと頭を下げるとくるりと踵を返しました。

 気が抜けたせいなのか、はたまた強行軍の疲れなのか。足元がおぼつかなくなったわたくしが毛足の長い絨毯にうっかり足を引っ掛けてしまったのは、本当に不幸な事故だったと言わざるを得ません。


「わっ……」


 どうして今なのでしょうか、神様。ひとりのときであれば何事もなかったかのように振る舞うことが可能ですし、もしくは気の置けないメイド仲間達の前であるならば、せめても笑ってごまかすことができたでしょうに。

 何故に一番見られたくないこのひとの前で。


 ぐらりと傾ぐ視界になす術もなく、わたくしは無様な転倒を覚悟してぎゅっと目を閉じました。

 しかし、いくら待っても地面に倒れたと思わしき衝撃はやってきませんでした。代わりにわたくしが知覚したのは、背後から腰に回った力強い腕と、背中に感じる体温。


「――大丈夫か」


 耳元に落ちてきた低い声の近さに思わず身をすくめると、腰に回った腕にぐっと力が入りました。


「あ……、は、はい」


 恥ずかしさで後ろを振り返ることができないまま、慌ててそう答えを返すと、ほっとしたようなため息が耳をくすぐりました。


「……ならいい」


 いつになく優しく響いたその声に、心臓が飛び跳ねました。そうなると、後ろから抱きかかえられているような体勢に、ものすごくいたたまれない気持ちになりました。

 というか、わたくし、さっき戻ってきたばかりで着替えもしていません。馬を飛ばして帰って来たのですから埃っぽいだろうし、汗だってかきました。こんな密着状態に耐えられる状態ではないのです。


「あ、あの、ありがとうございました。その、もう大丈夫ですから……」


 やんわりと離してほしいと伝えようとしましたが、腰に回った腕が解ける気配はありません。それどころか、身じろぎをしたわたくしを離すまいとするかのように、腕に力がこもったのがわかって、ますます頬に熱が集まります。

 どうしましょう、このままではわたくしの心臓がもちません。

 うまく回らない頭でどうしようかと必死に考えていると、はくりと音がして耳を濡れた感触が襲いました。


「ひゃ……っ!」


 いいいい、いま、何をしましたか!


「どうして、耳を……っ」


 パニックに陥って涙目で振り返ると、そこにはいつも通りの無表情。薄い唇が開いて、そこからこぼれ出たのは耳を疑うひとことでした。


「……美味そうだったから」


 カニバリズムですかっ!?

 何ということでしょう! 事態は既にホラーの一択でした!

 赤くなっていた顔から一気に血の気が引きます。


「わ、わたくし、食人嗜好をお持ちの方とは仲良くできませんわ!」


 震える声でそう言うと、何故か力の緩んだ腕の中からなんとか逃げ出し、戸口でぺこりとおざなりに頭を下げて走り去りました。マルコ様がその時どのような顔をしていたのか、当然知ることもなく。

念のため。


カニバリズム…人間が人間の肉を食べる行動、あるいは宗教儀礼としてのそのような習慣(Wikipediaより)

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