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舞い込んだ縁談

『ハハキトク スグモドレ』


 弟の字でそう書かれた手紙が、わたくしの手の中でぐしゃりと音をたてました。


「あら、おかえり。随分早かったのね。疲れたでしょ、さあ、荷物運んでおいてあげるわ。あなたは手を洗っていらっしゃい、今夕飯の支度するから。レオン、アンナ! ダニエラが帰ってきたわよ」


 わたくしの目の前でてきぱきと夕飯の用意をしながら、奥にいるらしき弟夫婦に大声を張り上げたのは、他でもない母です。元気に動き回っていて、まったくもって健康に支障があるようには見えません。

 ……いえ、薄々気づいてはいたのです。何せ母が危篤状態に陥ったと報せがあったのはこれで三度目。五年前に亡くなった祖母も、今思えば四回ほど死にかけたことがありました。したがって、わたくしはおそらくそれが狂言であるだろうことに勘づいてはいたのです。


 ですが、だからと言って帰らないという選択肢があるでしょうか。もし本当に危篤だったのだとしたら、後悔してもしきれません。結果、わたくしは毎度毎度馬を飛ばして故郷へと戻り、肌艶の良い元気そうな母に迎えられるという馬鹿げたことを繰り返してきました。

 ええ、そうですとも。わたくしは、高い確率でそれが狂言であると覚悟をして帰って来たのです。

 それにしたって。

 これはひどい。


「……せめてお芝居くらいしたらどうかしら、お母様」


 震える声でそう言うと、母はちらりとわたくしを見てあっけらかんと言い放ちました。


「どうせばれてると思って」


 そういう問題でしょうか……。

 わたくしはがっくりと肩を落としました。


 我が家のあるこの地方までは、王都からは馬を走らせても丸一日かかります。日帰りなんてもってのほか。あんな手紙を受け取ってから、わたくしは王子殿下や妃殿下に許可を取り付け、他のメイドに仕事の引き継ぎをして、荷造りもそこそこに王子殿下がご厚意で貸してくださった馬に乗って、大慌てで王都を飛び出してきたのです。

 事情をお話しすると、幼い頃に母君を亡くされたレティツィア様は我がことのようにその繊細なお心を痛められ、『私のことはいいですから、親孝行して差し上げてください』などというお優しいお言葉をかけてくださいました。


 それなのに、です。

 ああ、なんて申し訳ないことでしょう。わたくしの母は大嘘つきです。レティツィア様の尊き御心の片隅にすら存在することが申し訳ない程の薄汚れた人間でございます。


「レティツィア様に顔向けができない……」


 疲れた体をソファに投げ出して項垂れていると、とたとたと小さな足音が聞こえました。


「おばさまー」

「おばさまー」

「おばたまー」


 高い声で呼びながらこちらへ嬉しそうに駆けてくる子どもたちが目に入ると、幾分か気分は上向きました。上から五歳の男の子、三歳と二歳の女の子は弟夫婦の子どもたちです。


「ああ、ティノ、アニカ、リーネ。あなたたちはいつ見てもかわいいわね。ごめんなさいね、お祖母様が普通に帰って来いと手紙をくださったなら、あなたたちにお土産が用意できたのだけれど」


 足元へ飛びついてくる甥っ子と姪っ子達の頭を撫でまわしながら、母への嫌味を織り交ぜることも忘れません。


「普通に手紙出したって、姉さんはなんだかんだ理由をつけて帰って来ないじゃないか」


 麦わら帽子をかぶって、首にかけた手拭いで顔の汗を拭きながらにこやかに入ってきたのは三歳年下の弟のレオンです。真っ黒に日焼けした顔はあまり似ていませんが、母譲りの赤毛がまぎれもない血縁だと主張しています。


「あら、レオン。……また野良仕事?」


「ああ、裏の畑をちょっとね。いやあ、今年は豊作でさあ、豆がいい出来なんだけど、姉さん持っていく?」


 爵位をもたない地方領主であるわたくしの実家は、はっきり言って貧乏でございます。父が亡くなって領地を継いだ弟ですらこうして日々畑仕事にいそしむほど。昔は王都でそこそこ腕の立つ騎士として名を馳せていたはずの彼は、今となっては剣よりも鍬の方が似合ってしまうあたりがそこはかとなく残念です。

 人柄の良さだけが取り柄の領主として、領民の皆さんに慕われ……いえ、ほっとけないとばかりに皆さんが世話を焼いてくれなかったら、とっくに我が家は食べ物にも困る有様になっているに違いありません。そんな頼りない領主でいいのでしょうか、皆さん。


「豆の話をしている場合ではないのよ、レオン。あなたどういうつもりであんな手紙を……、いえ、いいわ。どうせお母様に脅されてあんな風に書いたんでしょうから、この際今回のことはもういいわ。今後、本当に家族に何かあった時は別の言い回しで手紙を書いてくれるってこの場で約束して頂戴」


 そうしたらとりあえず『危篤』という単語だけは無視できる。胸の前で手を組み合わせて拝みながら言うわたくしに、弟はへらりと笑いました。


「うーん、別にいいけど、その時にちゃんと覚えてるかなあ。ははは」


 はははじゃない!

 なんとものんきな弟にまたもや脱力します。


「忙しかろうと思って王子殿下の婚礼の儀が終わるのを待っただけでも、感謝してほしいくらいだわ」


「嘘をつかずに手紙をくれたなら感謝したかもね」


 悪びれもせずに言う母に向かって、わたくしは眉間にしわを寄せてふんと鼻を鳴らしました。わたくしと母の間に見えない火花が散ったような気がします。


「まあまあ、お義姉様、お疲れでしょうからその辺になさって夕飯にしましょ。今日はデザートにお義姉様のお好きな苺ジャムのパイを焼いておりますよ」


 一歳になったばかりの赤ん坊を抱きながら、義妹のアンナが穏やかな声で仲裁に入りました。

 好物を持ちだされ、わたくしの怒りが少し、ほんの少しだけ収まります。ま、まあ、そこまで言ってくれるのなら、とりあえず頂こうではありませんか。あ、よだれが。

 促されるまま手をすすいでからテーブルに着き、並べられた夕飯に手を合わせます。食べ慣れた懐かしい味に、今さらのように朝から何も口にしていなかったことを思い出し、無言で食べ進めるわたくしを見つめる家族の視線が生ぬるいです。べ、別におふくろの味なんかで騙されたりしないんですからねっ!


 菓子作りの上手な義妹の絶品デザートを食べる頃には、お腹も満ちて随分気持ちも落ち着いていました。一日馬を飛ばした疲れもあり、満腹になった途端、眠気が襲ってきます。片づけを免除されたわたくしは、ソファに座って子どもたちを膝にのせたり両脇に抱えたりしながらうとうとと舟を漕いでおりました。子どもの体温って暖かくて眠くなります。

 寝入っりぱなの一番気持ちのいいところで、閉じた目の前で唐突にパチンと手をたたかれ、びくりと体が震えました。


「うあっ?」


「そこにお直り」


 目の前には眉間に深い縦皺を刻んだ母の顔。おっと、いかん、よだれが。

 じゅるりとよだれを手の甲で拭っている間に、アンナが子どもたちを連れて寝かしつけに行ってしまいました。ああ、わたくしの癒しが……。

 子どもたちの後ろ姿を無念そうに見つめるわたくしに、母は厳しい表情を向けます。


「ダニエラ。あなた一体いくつになりました」


 わたくしは露骨にいやな顔をしました。


「……にじゅうななです」


 地の底を揺るがすような深いため息が母の口から吐き出されました。

 わかっていますとも。母の言いたいことは。

 行き後れの恥さらしとでも言いたいんでしょうよ。そんなのはわたくしだって百も承知でしてよ、お母様。


「……まあいいわ。とにかく、何も言わずにお聞きなさい」


「はあ」


「あなたに結婚の話が来ています」


「お断りします」


 思わず口を挟むと、ぎろりとものすごい目で睨まれました。これでも昔は数々の浮名を流したとか何とかいう自慢の美貌が台無しですよ、お母様。

 わかりましたわかりました、聞けばいいんですよね。


「黙りますごめんなさい」


 条件反射で謝ってしまうのは、生まれた時からの教育という名の刷り込みです。仕方ありません。


「わかればいいのよ。とにかく、行き後れで選ぶ余地すらない崖っぷちにいるあなたに、嫁に来てほしいとおっしゃってくださる大変お心の広い方がいらっしゃいます」


 言葉のとげとげしさが半端ないです。だが残念、わたくしの心もまた母譲りの鋼でできているのですよ。効かぬわ!

 心の中で鼻息も荒く胸を張ったわたくしをよそ目に、母は姿勢を正して続けました。


「ヴェルザー子爵様は数年前に奥様を亡くされてから、ひとり身を貫いていらっしゃいましたが、この度後妻をお迎えになる決意を固められたとか。それで、ぜひあなたにどうかとお話が来ています。あなたなら王子殿下のもとで仕事をしていた分、行儀作法や身元にも遜色ありませんからね」


「子爵様ですって?」


 思わぬ大物の名前に、わたくしは驚きました。

 爵位のある人物が、後妻とはいえ何の身分もない、むしろ貧乏な地方領主の平凡な容姿の行き後れを嫁に欲しがるでしょうか?

 ああ、嫌な予感しかしません。


「……子爵様の年齢をおうかがいしても?」


「七十二歳です」


 ほら来た! やっぱりね!


「お……っ、お母様! それはいくらなんでも! どう考えたって後妻というよりは介護要員ではないですか!」


「子爵様は高齢でいらっしゃいますが、後継ぎのご長男はすでに身を固められてお子さんもいらっしゃるようです。ですので、子爵様に何かあったとしても、あなたの面倒はご長男が……」


「なお嫌ですよ!」


 七十二歳の子爵様のご令息ならば、どう若く見積もっても四十代でしょう。確実にわたくしより年上です。自分の子供すらまだ産んでもいないのに、嫁いだ途端二十代でおばあちゃん、夫が死した後は年上の義理の息子に世話になるなんて容易に受け入れられる話ではありません。


「わたくしには無理です!」


 必死に訴えるわたくしに、母はにっこりと微笑みました。


「そう言うと思っていたわ。七十二歳のお方と結婚しても、さすがに子どもは産めないでしょうし、それではあまりにあなたが可哀そうだものね」


 あれ、聞いてくださるの?

 いつになく優しい母に、わたくしは感動すら覚えました。なんだかんだ言ってもやはり母。女同士ですもの、言葉を尽くせばわかってもらえるものなのですね。

 ほっとしたのも束の間、母の口はよどみなく動きます。


「もうおひとかたいらっしゃるのよ」


 あれ……、母の笑みが怖い。

 わたくしは慎重に質問をします。


「その方も爵位をお持ちの方ですか?」


「いいえ、爵位はお持ちではありませんが、ここから少し離れた地方に大きな領地をお持ちの領主様です」


「そのお方の年齢は?」


「三十五歳です」


「……お子様がいらっしゃいますか?」


「いいえ」


 ふむ。

 大分年上ではありますが、非常識なほどではありません。年齢的に言えば離婚歴があるか、前妻と死別か、なにかしらそういった事情はあるのでしょうが、子どもがいるわけではない、と。これは随分とましな条件に聞こえます。それもこれも最初の条件がとんでもなかったせいですが。


「ちなみにお名前をおうかがいしても?」


「ロゲール・ブフナー様です」


 わたくしは思わずぶはっと盛大に吹きだしました。

 ロゲール・ブフナーですって!?


「おおおおおお母様、本気ですの!? 本気でわたくしをあのような好色親父に売り飛ばすおつもり?」


 彼は好色家で大変有名な人物です。確か今までに五回ほど結婚と離縁を繰り返しているはずです。金にものを言わせて再婚相手は必ず十代の若い娘ばかり。それでも飽きれば性懲りもなく離縁しては再婚を繰り返しています。愛人だって何人いるかわからないほど。

 悪い噂はそれだけではありません。彼の趣味嗜好がその……少しばかり、いえ、大分特殊であるというあられもない噂が、彼の領地からは遠く離れた王都でまで噂になっているほどといえば、彼の人となりを深く理解していただけるでしょう。


「大体、あのひとの標的は十代の娘ではなかったの? わたくし幸いなことに二十代も後半ですわ。ご期待に添えないのではなくて!?」


「さすがにもう十代では嫁の来てがなくなったのですよ。それで行き後れに目を付けたって訳」


 母はおそろしい事実をしれっと言います。

 あなた本当にわたくしの母親ですか。


「大丈夫ですよ、さすがに彼のお方ももう女遊びを繰り返すような体力はありませんでしょう。勝手な都合で離縁はしないと念書を書いていただく心づもりもあります。まあ、縁の切れない愛人のひとりやふたりは目をつぶりなさい」


「離縁や愛人が心配で嫌がっているのではありません!」


「なら、七十二歳の子爵様の元へお嫁入りしますか?」


 ぐっと口を噤んだわたくしに母は目を眇めて諭すように言い聞かせます。


「子爵様の残り少ない余生の慰めを終えた後に、血のつながらない義理の息子のもとで肩身の狭い想いをしながらぼんやりと日々を過ごすよりは、お金持ちの領主様のもとで気兼ねなく贅沢ができる暮らしの方がましだと、母はそう思いますが」


 わたくしの頭の中で、おじいちゃん子爵様と好色領主が天秤にかかってゆらゆらと揺れます。なんて殺伐とした天秤でしょう。

 しかしながら、そんな風に理路整然と説明されると、好色領主の方が確かにましに思えてきました。


「母としても、孫の顔は見たいし、その方が安心するのですけれどねえ」


 母はそう言いながらこれ見よがしにため息をつきます。

 わたくしはぐっと口を噤みました。

 親不孝の自覚はあるのです。心配を前面に押し出されると、こちらとしては立場が悪い。何を言い返せるというのでしょう。

 旗色の悪くなってきたわたくしを見て、母は畳みかけるように続けます。


「この母が元気でいるうちにあなたには幸せになってほしいのよ。ロゲール様は少々問題もあるかもしれませんが、何といってもお金持ちです。貧乏が悪いとは言いませんが、お金はあるに越したことありません」


 視界の隅で事態を見守っていたレオンが居心地悪そうに身じろぎしました。母に悪気は欠片もないようですが……ほんの少し同情します。


「多少の離婚歴が何ですか。それで今後の人生を保障してくださるなら安いものだと思いませんか」


「お母様……」


 行き後れの身としては、こうして縁談が来るだけでもありがたいことなのかもしれません。母に孫の顔を見せてあげたい気持ちはもちろんありますし、心配をかけたままではいけないとも思います。


「確かに……そろそろ腹をくくるべきなのかもしれません。選り好み出来る立場ではないのは百も承知。であれば確かに貧乏よりは金持ちの方がいいに決まっています」


 母の顔がぱっと輝きました。わかりやすい安堵の表情を見ながら、わたくしは続けました。


「だが断る」


「なんですって!!」


 一瞬にして母の顔が憤怒の表情に塗り替えられます。

 あ、ヤバい。

 そう思いましたが、今は人生の一大事。わたくしだってやすやすと引き下がるわけにはいかないのです。ぐっとこぶしを握り締めて、決意を固めます。


「おじいちゃん子爵様も好色領主もお断りです! わたくしはレティツィア様のお側でお仕事ができればそれで十分幸せなのです。なので、お母様の望みはもう既に叶っておりましてよ!」


「母は、母はあなたを行かず後家にするために王都に出したのではありませんよ! 嫁入りに箔がつくと思って、ないコネをほじくりだして王家の縁続きのお邸にメイドの伝手をとりつけたんです!」


「それに関しては心から感謝しておりますわ、お母様。わたくしそこで生きがいを見つけましたもの!」


「あなたは仕事と心中するつもりなの!?」


「心中なんて言い方はお止しになってください。わたくしは仕事を全うするのです」


 バチバチと火花散るわたくし達の睨みあいに、口も出さずに見守っていた弟がのんきな声をかけました。


「姉さんはさ、もしかして好きなひとでもいるの?」


 はっ?

 この緊迫した事態に、弟ののんきすぎる発言に耳を疑いました。ですが、母は何故かそれに食いつきます。


「まあ……! そうなの? そういうことなの? それはどういったお方? もう将来の約束でもしているの?」


 矢継ぎ早に飛んで来る質問と、母の期待に満ちたまなざしが胸に痛いです。


「そんなひといません! レオン、あなたも変なことを言わないで!」


「だって、ずっと嫌だって言い続けているじゃないか。行き後れだの何だの言われる前からずっとさ。不思議に思ってたんだよね。だから、もしかしたらずっと好きな人でもいて、そのひとに操立てでもしてるのかと思って」


 のほほんとした笑みが憎い。わたくしはギラリと弟の顔を睨みつけました。


「レオン……あなた、黙れと言うのがわからないの?」


「はは、母さんそっくりだよ、その怖い顔」


 ぐっ。

 弟の方が一枚上手とはこれいかに。わたくしと母は無邪気に笑う弟から同時にダメージを食らいました。


「とにかく、好きな方も将来を約束した方もいません! わたくしは今の仕事が好きなのです。住みこみだからいざ何かあっても誰か助けてくれるし、孤独死して数日間発見されないなんてこともありません。行かず後家には最高の職場じゃないですか」


 わたくしは自分の人生を守るために必死になっているはずなのに、心の傷ばかりが増えて行くのは何故なのでしょう。自分で自分の傷をえぐるような発言に、なんだかやけくそになってきました。


「わたくしは今の生活で満足しているのです。行かず後家上等ですわ! 孫の顔を見せられないのは……申し訳ないとは思いますが、レオンが四人分見せたんですもの、もうよろしいでしょう?」


「そういう問題ではありません!」


「わたくし一日馬を飛ばして疲れましたので、もう休みます。無理を言って仕事を抜けてきていますし、お母様は随分と回復なさったようですから、明日は早朝に発ちますわ。それではおやすみなさい、ごきげんよう!」


 わたくしは立ち上がってそれだけ言い捨てると、「待ちなさい!」と肩をいからせている母に背中を向けて居間を出ました。そのまま足音も荒く階段を上ると、まだ残っている自室に入りドアを閉めます。そのまま疲れた体をベッドの上にうつぶせに放り出しました。

 久しぶりの自室は、丁寧に掃除をしてくれていたようで特にほこりっぽいということもなく、快適で落ち着きました。母との言い争いでささくれ立った心も次第に落ち着いてくると、少しだけ母に申し訳なくなりました。

 けれど、わたくしはこの生き方を改めるつもりはありませんし、こういう生き方しかできない女であると自覚しています。ここまできたら、行かず後家も覚悟の上。わたくしには、納得できない結婚など向いていないのです。


 ごろりとあおむけになると、ベッドの頭側の窓から大きな月が見下ろしていました。金色の光を浴びながら、ぼんやりと心の隅に浮かぶ影について考えます。


『姉さんはさ、もしかして好きなひとでもいるの?』


 弟の血迷ったひとことを聞いた時から、心の片隅で存在を主張し始めた影。決して好きなひとじゃないそのひとは、けれど、最近わたくしの中で随分印象を変えてしまいました。気になるのは、きっとそのせいで。


「まったく、レオンが変なこと言うからだわ……」


 わたくしはため息をひとつつくと、明日に備えて寝る支度を整え、ベッドにもぐりこみました。目を閉じるとまぶたに浮かぶその無表情を追い出すこともできないまま、わたくしは深い眠りに落ちていきました。


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