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第二十章:ゆうひのおもいひで

第二十章:ゆうひのおもひで

      *

 廃れた魔術師の家系に生まれた事はよかった。

 自分にだけ魔術師の才能があった事もよかった。

 一人で海外の魔術学校に行く事になった事もよかった。

 そこで大切な仲間たちと出会えた事もよかった。

 だが。

 自分を導いてくれたエリスが、大人たちに改造されるのは我慢ならなかった。

 それを救おうとしても、自分一人ではどうにもできなかった。

 だから、仲間を集めて闘い、追われるのを覚悟して逃げた。

 逃げた先は、それまで名前すら知らなかった田舎。自分はそこで日陰者の人生を過ごすのだろうと、そう思っていた。

 しかし。

 その隠れ家で、ある少年と出会った。

 少年は狂ったように身を挺して仲間を守ってくれる。

 知り合って数十秒の自分も、助けようとしてくれた。

 嬉しかった。

 世の中にも、こんな人がいるのが分かって嬉しかった。できる事なら、魔術師としてではなく、普通の女の子として出会いたかった。

 でも、自分が魔術師でなければあそこへ行く事はなかった。

 自分が魔導院に行き、仲間と出会い、謀反を起こさなければあそこへ行く事もなかった。

 自分がこの人生を過ごさなければ、彼に出逢う事は絶対になかった筈だ。

 だから。

 自分の人生はこれでよかった。

 だから。

 自分の人生の最後の望みとして、これを選ぶ。

 だから。

 我が儘を言わせて、海瀬。

 私は、

『――子どもが欲しいわ』

 短くても良い、普通に最期を生きていきたい。

 そうしたら、彼は応えてくれた。

 分かった、と。

 その答えだけで満足だった。自分の人生はそれだけでもういいと諦めがついた。

 でも、まだやり残した事が一つある。

 子どもは、ちゃんと見てあげないと、と。

      *

      *

 操縦桿を握り、西へ進む遠野はふと座席横の炭刀に気がいった。

 何故か、少し動いたような気がしたのだ。

 しかし機体の周囲へ展開する異能維持のため要らぬ事だと切り捨てる。

 前を見る。

 西へ飛んでいるため、夕陽がずっと前に見えている。

 紅に焼けた夕陽が美しい。

 どんな時代になっても、きっとこの光景だけは変わらないのだろう。

 これから戦場に行くと分かっていても、そんな感傷的な気分にならざるを得ないほど、その夕焼けは美 しかった。

 ――夕日沈む時、いと美しきかな。

 遠野は静かに先を行く。

 神州を発ってから、すでに三時間が経過している。

 インド国家の首都デリーを越えて、今はインド亜大陸を愚直に飛行。ムンバイまで、あと数十分の距離だ。

      *

      *

 インドはデリー。

 そこは高台に設置された気象観測所だった。

 気象と一言で言っても、その内容は多岐に渡る。

 まず物理的な天候などの観測、次にレーダー波による飛行物観測、そして魔術師によるイメージ投影の魔力気象観測の三つだ。

 この気象観測所はインド経済協力圏内で二百ヶ所以上あり、二十四時間三百六十五日のフル回転で観測を行っている。そこから気象と魔力の関係性、また魔獣や飛行異属の関係性も探っている。

 インドが国家級プロジェクトとして推進している研究事業だ。

 だが、その観測所で一つの懸案が挙がっていた。

 それは一人の観測者が見付けた、不明飛行物体と魔力フレアだ。

 飛行物体は大きな鳥ほどで、しかしその周囲には魔力フレアが付き纏っている。魔力フレアとは魔力の渦の事で、中位以上の精霊が飛行する際に周囲にばらまく魔力であったり、太陽からの霊的エネルギーに感化されて発生するものだ。

「これはどちらでしょうか。霊獣ならレーダー波が捉える可能性は低いですし、そもそも魔力フレアの規模がかなり小さいです」

「反応は幼体のガルーダに似ているな。他の観測所はどうだ」

 少し待って下さい、とレーダー画面を前にする所員は、書類を漁る。

「ええと、ミャンマーとブータンの何ヶ所かが似たような反応を観ているようです。おそらく同一のものだと思いますが、どうしますか、念を送ってみますか……?」

 所員の確認は慎重だ。

 当然だ。相手がただのエネルギーではなく、魔獣や霊獣、高位精霊だった場合、それがどんな意思の許であろうと怒りを買う可能性が高い。相手はこちらをゴミ屑以下と捉えている連中なのだから、ゴミ屑に話しかけられるとはもはや侮辱も同然。

 怒り狂って強襲されるのだけは避けたい。確認しただけで街一つを焼かれても困る。対処は慎重に慎重を期さねばならない。他の観測所が観ているだけでやり過ごしたのも同じ理由から来ている。触らぬ神に祟りなし、だ。が、

「この方向はムンバイに向いている。ムンバイは今立て込んでいる。ここではっきりさせた方がいいだろう」

「本当にやるんですか?」

「触る程度だ、逆撫でしないよう注意するが」

 そういうと所長役の男は額に手を当てて、魔力フレアの方角へ向いた。

「――あ」

 二秒ほどの念を伝えた。

「レーダー、魔力観測ともに変化ありません」

 時間をおいても変化なし、と所員は伝える。すると、

「――こちらヒト、この地に住まわせて頂く者に御座います。貴公は何者であられますか?」

 今度は直接の台詞を紡いで念を送った。

 しかし、それでも返答はなかった。

「無視されているんでしょうか……?」

「だろうな、たぶん。飛行機にも見えないし、飛行系の魔獣か何かにしておこう」

 所長もこれ以上触れるのは憚れるようで、諦めていた。

 所員もそれに同意で、所内に問題なしの通達を入れた。が、彼は内心でこう思っていた。

 ……でもこれ、魔獣が飛ぶような高度じゃないんだよなあ。戦闘機みたいな速さだし。

      *

      *

 アナーヒアは海流を作る手を休めなかった。

 アラビア海の岸部の程近い海中で、人魚は悠々とヒト種の少女を弄ぶ。

 本来は場所さえ移動できればいいと思っていたが、少女がいきなり息を止めるので海流に閉じ込めてみた。できれば、このまま溺れてくれると有難い。

 ……どうでしょうか、何か狙いがあるのかも知れません。

 念のために、海流には魔力を流し込んでいる。流れが魔力の膜となり、魔力を介した術はおそらくこちらには伝わらない。

 あの金縛りは無力化できている筈だ。

 彼女が息を止めてから、すでに一分が経過している。訓練を受けた者でも、この渦の中でこれ以上無呼吸を続けるのはかなり危険だ。

 気を失いかけた瞬間に突貫し、一撃の下に無力化しよう。その後は人命救助と同じ手順だ。

 幾度も、アナーヒアは海を掴み投げ、流れを造り出している。が、その過程で、彼女はある違和感を覚えた。それは、

 ……何でしょうか、この感触は? まるで辺りが区切られたような圧迫感が。

 自分と波坂、そして海流を丸ごと覆う何かが、そこにはあった。

 壁がある訳でも、何かが遮っている訳でもない。

 ただ、何かで区切られている感触があるのだ。海に生まれ、海に生きる人魚だからこそ分かる、ほんの少しの変化。

 しかし、彼女がそれに気付くのは、すでに遅過ぎた。

 正面、海流の渦の中で、水色の髪を一房結った少女がこちらを見据えていた。

『……っ!』

 全身が危険を悟る。逃げるか攻撃か。迷うだけの時間はなかった。何故ならば、

「縛しますわよ! ――神力〝黄泉津追縛よもつついばく〟!!」

 泡を吐いての叫び。

 その瞬間、アナーヒアは確信した。

 己の敗北を、だ。

      *

      *

 脳内の処理能力を総動員する。

 己の周囲を一辺二十メートルの直方体の面として縛し、区切る。

 壁の素材は振動数をゼロにした水分子たちだ。中に残った海水とその海流はそのままに、しかし次の工程を波坂は迷わず行う。右手を直上へと掲げて、

 ……天井直近数センチを残してもう一面! 隙間に水分解の自律術式、展開っ!!

 酸素欠乏で意識が遠のきそうになるのを忍耐力だけで堪えて、背面の壁に五十センチに満たない穴を開ける。

 波坂は一気に、天井に張った新たな壁を下方に引きずり下ろした。

 空間の急激な圧に海水はたちまち、開けられた穴へと向かう。区切られた空間は徐々に、海水ではなく空気を得ていった。

 そしてその中で、更に彼女は、自分とアナーヒアの皮膚ぎりぎりにも棺のような壁を造り、上面の壁を通す。

 加圧から約二分。

 激流となって排泄された海水は、とうとう波坂の膝丈より下にきた。

「――ごほっ!」

 かなりの量の海水を飲んだ。圧に堪えかね、右耳の鼓膜も破れている。

 だがまだ手を抜く訳にはいかない。仕上げとして穴を閉じ、残った海水は床の一部を押し広げ、棒状の穴として水のやり場を作る。最後は蓋をして、束縛を解けばいい。

 海抜マイナス十メートルに、巨大な空間ができた。

 行きを整えながら、波坂は前を見た。

 床に倒れて動かない人魚の姿がある。当然だ。人魚は陸では生きていけない。

 呼吸自体はできるだろうが、魚人は、転身をせずに陸へ上がると拒否反応で倒れてしまう。筋肉が痺れて動けないのだ。肝心の転身も、獣化と違ってそう易々と入れ替えられるものでもない。

 重い足を前に出して、波坂は人魚に近付いた。

 うつ伏せに倒れる彼女を仰向けにしてやり。顔を覗き込む。と、

「……あ、貴女様、よくこんな事を―――」

 声を作るのも苦しいのか、その続きは聞こえなかった。

 が、おそらく彼女はこう言いたかったのだろう。よくこんな事をこの場面でやろうと思いましたね、と。

 無理もない。この神力の特性は誰が見ても一目瞭然だ。常に周囲を正確に知覚、測距、制御して、かつ戦況に応じて形を変化させていく。脳内を焼き切るような作業だ。

 それを酸素のないここで、海流に阻まれながらやろうとしたのだ。途中からは空間にある空気すら自らの手で作っていた。

 ……和時さんのご両親に敗ける訳にはいきませんもの。

 眼下、アナーヒアは顔を蒼くしながらも笑みを浮かべ、そして気を失った。

「――ワタクシの、勝ち、ですわね……」

 水色の少女は口元を仄かに緩めた。

 そして、軽く息をついた後に、上を見仰いだ。海上まであと十メートル。ここから泳ぐのは正直いって無理だろう。なら、もう一度、

「階段でも作りましょうか」

 直方体の天井は、伸びるように海上へと突き出していった。

      *

      *

 神話体系局の二階フロア。

 波坂とアナーヒアが海に落ち、沖に流されてからすでに数分以上が経過している。

 魔力が動き回っているのは、彼らにも肌への感覚として知覚できていたが、具体的な戦況は全く分からなかった。

 戦闘中継班も、海中へ入るか否かで揉めている様子だ。

 しかし、両陣営の代表たちは比較的冷静な面持ちでスクリーンを見詰めていた。

 すると、ふと不意に中継リポーターが声を挙げた。

『――? あれは、何だ……?』

 疑問の先、カメラが捉えたのは海上だった。

 沖合百メートルほどの地点。ヒトが、何かを抱えて立っているように見える。

『カメラズームだズーム! 早く!』

 カメラマンが急いでレンズを絞り、画面を拡大させていく。と、

「伊沙紀ちゃんだ!」

 フロアに、空の声が響き渡った。

 海上に足を着けて立っていたのは、波坂の姿だった。背中には気絶しているアナーヒアの姿が見える。それを認めた人々は、それぞれの立場として喜びか、無念の声を漏らす。

『海上に立つのは神州代表の波坂選手だァア! アナーヒア選手はこちらの目視では気絶しているように見えます。――よって、第一戦の結果は、海中という圧倒的不利をものともせず、波坂選手の勝利ぃ――――っ!!』

 リポーターの絶叫がマイク越しにフロア中、そしてムンバイ中に伝わった。

「アウヴィダとやら、どうやらこちらが勝利したようだぞ?」

 蒼衣は老婆に向かって言葉を送る。アウヴィダは柔らかい笑みで、

「ええ、そのようで御座います」

 焦る様子もなく答えていた。

 しばらくすると、波坂は一人でフロアに現れた。

「伊沙紀ちゃんおめでとー!」

 一番に彼女へ駆け寄ったのは空だった。次にD組の面子が近寄ってくる。

「途中までしか見てないけど、良かったわよ」

「濡れ髪の波さんも素敵ッス!」

『ううむ、波坂君の健闘に我が肉体も感動の震えが止まらん!』

「ええ、皆さん有難う御座いますわ」

 笑顔で応じる波坂の表情は、やはりどこか疲労の陰りがあった。

「さ、あたしが治療するから、イサキは黙って座ってなさい」

 椅子を差し出された波坂は断る理由もなくそれに応じた。が、傍で空が、

「あれ、アナーヒアさんは?」

「転身が解けるまで局内の沐浴場に沈めておくそうですわ」

 へー、と波坂の回答に空は頷いた。だが、まだ聞きたい事があるのか、

「あ、じゃあどうやって勝っ―――」

「はいはいソラ、次の対戦あたしなんだから早く仕事させて」

 ごめん、と空は哀しそうな顔で退いた。

「蒼衣・空、貴女も出るんですから、準備しておかないと大変ですわよ?」

「う、うん。がんばる」

 こちらと話せないのがそんなに悲しかったのか、空はしょんぼりしている。

 周囲の視線が、自然と朝臣へと向いた。

「……あ、あたしのせいのかしら」

 まぁまぁ、と波坂は適当に宥めておいた。

 どうでもいいやり取りを続けつつも、朝臣の治療はほんの一分で終了した。

「取りあえず日常レベルの動作は差支えないわ。それと重点的に治癒を掛けたのは脳と右の鼓膜、喉、内臓。鼓膜は流石に完治までは無理だから、我慢してちょうだい」

「いえ、これだけして頂けただけでも幸いですわ。いつも感謝していますわ」

「これが仕事だからいいのよ」

 朝臣はそう告げると、すぐ踵を返した。

 そのままインドの代表たちの許へ歩みを寄せる。そして、

「――第二戦の相手は誰かしら?」

 さも治療に戻りたいからさっさとしろ、と言いたげな態度だった。

 その挑発に、しかし落ち着いて応じたのは、下方から届く声だった。

『そう急かさないでくれたまえ。所詮、前菜の次のスープに過ぎないのだからな』

 脂肪の肥えた豚のような犬だった。

 アッシュだ。

「あらそ、ならさっさと片付けないといけないわね」

 売り言葉に買い言葉、柔らかい毒舌を交わしつつ、二人はどこかへ行ってしまった。

 が、数分もしない内に局内で激しい戦闘が始まっていた。

 参謀長と治療班の戦闘なんだよな、と約全員が心の中で呟いた。

「あぁ!!」

 唐突に、フロアに叫声が響いた。

 声の主は空だ。矮躯の少女は今さら気付いたように、わなわなと震えて、

「伊沙紀ちゃんの終わったら、もういつでも始まるんだよね。そしたら、不意打ちとか奸計とかしてこられたらどうしよう……」

 変な方向に理解が進んでいた。

 毎度の事で呆れ顔の神州の面子たちだったが、インドの方は、

「ドルガーならやりかねないわね」

「私もあまりえり好みするべきではないと思いますが、やはり勝ちばかりに拘るのも。そうでありましょう、ドルガー?」

「自分はドルガー様がそのような、まさかそんな事をなされるお方だとは思ってもおりまりませんので。ええ、思いませんとも!」

 どうやら三戦目はドルガーのようだった。

「私がそんな事をしますか!?」

 あらぬ疑いとばかりに、ドルガーは弁解しようと屹立した。

 だが。いやしそうな顔よ、とマーリーに即答されてしまった。それでもドルガーは、

「インド神軍の最高指揮官が何故不意打ちを選ぶのですか! 奇策や卑怯な手は使っても、立場上正々堂々と対面して闘います!」

 姑息な手段はやはり用いるようだった。

      *

      *

 ドルガーの証言を耳にしてから、空は膝を抱えて怯えていた。

 局員たちからもブーイングの嵐がドルガーに降り注いでいた。このロリコン魔が、という意見が大半であるが。

 ……普段からノリが良いとは思っていましたが、まさかここまで他人の傷に塩を塗り込んでくるとは。自分で集めた人材ですが、どこでどう間違ったのか……!

 とにかく、対戦相手の誤解は解かなければ。

「――蒼衣・空様、私は戦闘以外で貴女に何かするつもりはありませんので、ご安心して下さい。三戦目は二戦目が終わってからでも十分でしょう」

 あまり近付き過ぎないよう距離を取りつつも、努めて笑顔で喋りかける。すると、小さな彼女は、

「ほんと?」

 恐る恐る聞いてきた。前々から思っていたが、子どもではないかこの少女は。

「ええ、本当ですとも」

 こちらが勝てせて頂くために最大限の卑怯はしますがね。

 青年の言葉を信じてくれたのか、少女は安心したように吐息した。これで一件落着だと、ドルガーも心の中で安堵する。が、しかし、

「……?」

 一瞬だけ、空の奥で佇んでいた女性と目が合った気がした。

 くすんだ灰白色の髪を豊かに伸ばし、淡い碧色の瞳を持った女性。全ての存在を見下したような薄い笑みを、彼女は浮かべている。ドルガーの記憶では、確か凄腕の魔術師、だった。

 気のせいだろうと、ドルガーは一歩引いて、インド側に戻った。が、その尻目に、彼はある異変に気が付いた。

 ……神州側の、記録役の少年がいません。

 誰もその事に気付いていないのか、それとも気付いていて無視しているのか。どちらにしろ、青年は指摘するのを避けた。

 小さい事を一々言っていては、こちらの姑息にも文句を言われてしまう。

      *

      *

 インドと神州の第二戦。

 朝臣対アッシュナグの戦闘は、神の頂上に立つ者同士の争いとは程遠かった。

 一方は、癒すという力に特化した森の精霊。もう一方は、念力が使えるだけの駄犬だ。

 戦闘力は皆無。

 それを証明するように、二人の間で生ずる攻撃は、

「さっきから何よアナタ。物しか投げてこないじゃない!」

『そういう君は避けて、神力をこちらに施すだけかね!』

 棚に置かれていた壺を、アッシュは思念を介した念動力で投げつけた。

 壁際にいた朝臣はそれを紙一重で交わす。鼓膜に壺が割れる甲高い音が響くが、彼女は気にせず、突き出した腕から神力の魔力を放出させた。

 魔力は愚直に、アッシュへと走った。

 緑色の残滓を生むそれは、アッシュを瞬く間に包み込み、しかし、

『一体君は、何を企んでいるのかね!?』

 アッシュは傷一つなく、そこに立っていた。

 肥えた犬は怒声を発する。戦闘を開始してからすでに十分。犬は息を切らす事なくそこにいた。豚のような犬が、だ。

 朝臣は攻撃手段など持ち合わせていない。彼女は、先程から己の治療効果を持った神力を行使し続けているのだ。それはつまり、

「いいでしょあたしの勝手なんだから。それに、元気になれていいじゃない」

 アッシュは常に全快状態だった。

 息を切らす事もなく、回復しない魔力だけが念動力で減っていく。対し、朝臣は攻撃を避けては敵を治癒しているのだから、全くもって理解が不能である。

 企みを含んだ少女の微笑に、犬はぐるると喉を鳴らして威嚇した。

『降伏したければすればよい。余計な真似をして立場を危うくする気か!?』

 犬の言葉はどこか切実で、焦燥的だった。まるで馬鹿な真似は止めろと、そう言いたげな口調だった。が、朝臣は敢えて、

「あたしは今足掻いてるのよ。どうするかはあたしが決める事。ほんと、戦闘経験皆無なんだから仕方ないわよ」

『ならば何故』

「怖いからよ。あたしは弱いヒト。力もなければ技もない。あるのはこの回復役としての利便性だけ。その中でこれを託されたんだから、できないとは言えないわ。――だから、やってみせると意気込んでいるのよ!」

 朝臣は右腕を突き出した。

 左手で右肘を固定し、右手はトリガーを引くように人差し指だけを伸ばしてある。指が指すのはアッシュ。指先に魔力が集約した。

 密度の高い魔力はそれだけで視認が容易となり、その発色によって属性が分かる。朝臣の魔力は全て緑色系統。草花に近い魔力特性という事だ。そして、それしかないという事は、

「さあ肥え太ったアッシュナグ。あたしの足掻きを存分に受けて、健康になる事ね」

 神力を凝縮した魔弾が放たれた。

 その大きさは直径二センチにも満たない弾丸。本来なら小規模の魔弾でも、攻撃としては有効打になり得る。が、彼女の神力魔弾の衝撃は、あたかも指で弾かれる程度の痛みだ。逆に、治癒作用によるこそばゆい感触の方が勝ってすらいる状況だ。

 魔弾は高速に宙を走り、犬目掛けて直進するものの、事態を警戒したアッシュはそれを回避した。

『そうそう罠にわざとかかる訳にはいかん!』

 床を蹴って回避したアッシュは、そのままその図体と身体能力ではあり得ない跳躍力を発揮して、局の廊下の四面を飛び跳ね回る。

 予測不能な軌道に、朝臣は目を見開けて硬直する。だが、このままでは駄目だと奮起し、神力の行使方法を変更した。長距離での一名回復ではなく、近接拡散である。

「やり方はいくらでもあるのよっ!!」

 手中に命一杯膨張させた神力の魔力を、朝臣は床の大理石に叩き付けた。

 魔力は爆弾が爆ぜるようにその体積を膨らませ、やがて廊下全てを呑み込んだ。

『っ―――!』

 また回復する。

 体力も、怪我も、魔力以外の何もかもが治癒されていく。

 アッシュは朝臣から距離を取ろうと、後ろへ跳躍した。しかし、

『く、足が滑ったか……!?』

 床の摩擦を測り違えたか、思ったより後退しなかった。

 顔を上げれば、朝臣が視界の中央にいた。彼女の間合いとしては十分。その姿勢は足を広げて右腕を前に振り切っている。手の先にあるのは緑の魔弾。

 これで六発目の治癒だった。

 分からない策謀に、アッシュは歯軋りする思いだった。

 回復ばかりで怪我などなく、普通なら思考はクリアな筈なのに考えはまとまらず、まるで疲労に塗れているようだ。あの神力は治癒ではないのか?

 治癒とは、主に掛けられた者の体内を活性化させ、細胞分裂を急速に早め、結果的に怪我などが回復する。無条件に傷だけが治る訳ではない。故に、詳細な回復内容を熟知する事が、自己の状態を確認するための鍵となる。

 インドにおける回復能力を持つ代表格は、内面の精力を増強させ治癒を図るプラとパティ。もう一人が、周囲のモノを無条件に活性化と魔力の寄進を行うアナーヒアの〝英霊礼讃〟だ。

 そして、この相手が行う治癒とは、一体どういう理論で行われるのか。アッシュの見た限りでは、その回復速度と多様性を除けば、普通の治癒魔術と根本は変わらないように思える。

 はてさて、一体何が狙いなのか。

 思考に神経を尖らせるアッシュ。だが、ふと不意に、腹の虫が鳴いた。

「おやつの時間にしては、少し遅いんじゃない」

『五月蠅い。この程度の空腹耐えられぬ訳がなかろう』

 戦の前の腹ごしらえは完璧だった筈だ。

 予想以上に動いたせいか。否、動いても回復させられているのだ。そんな訳が、

『―――――』

 唐突に犬は思考を止め、息を呑んだ。

      *

      *

 朝臣は、デブ犬が動きを止めたのを認めた。

 ……気付かれたかしら。

 別に難しい事はしていない。犬に神力と回復術を行使しているだけだ。

 彼女の神力は、正確に言えば治癒を掛けるものではない。治癒と分類できる現象を、魔力を介して増強させる事ができる能力だ。神力〝霊麗鈴れいれいりん〟、概念補助に類する神役だ。

 故に、朝臣に与えられた神名は、太古に国と神を作った大いなる男神をその破邪の力によって救った果実。この世のヒトが苦しむ時癒し助けよ、と神託を与えられた、

 ……オオカムズミ。破邪と仙果として有名な桃の神。桃太郎じゃないわ!

 戦闘には関係ないが、自分の神名を童話と一緒にされるのは羞恥心だからだ。

 ……まあそれでも、あたしの役目は変わらないわ。サハリンに残してきた家族のためにも、立派にお役目果たさないと。だから、

「さっさとあたしの神力を受けてダイエットでもしてなさい、デブ!!」

『貴様ァアア!!』

 最後の一言で確信したのか、アッシュは全速力で逃亡を謀った。

 狭く朝臣の攻撃を被り易いここから、一秒でも早く退避しようとしての逃亡だ、おそらく。

 そう。朝臣の策略は実に狡猾で、そしてアッシュを根底から救うものだった。

 ダイエット、だ。

 朝臣の神力は癒す、という事象を全肯定して増進させる。それはつまり、常に必要以上の新陳代謝が行わせるという事だ。代謝活動が数十倍に加速すれば、当然消費されるカロリーも数十倍に膨れ上がる。

 朝臣が行使していたのは治癒魔術によるものだけではない。効果範囲はほんの十数メートルだが、自分を中心とした周囲のヒトに神力の純然たる恩恵を渡した。つまり、アッシュは、自身の肉体を刷新し〝癒す〟という観点の元から、勝手に代謝活動が活発化していた。

 すでに、デブ犬は一日分以上のカロリーを気付かぬ間に消費している。デブゆえ中々効果が見て取れないが、本来ならゲッソリしていてもおかしくない。

 逃げる犬を追い掛けて、朝臣も足を走らせた。そこまで鈍足のつもりはなかったが、馬鹿げた脚力を持つアッシュには追いつけず。距離だけが一方的に離されていく。しかし、

「――この方向は調理場だったかしら。成程、投げつけられそうな物は沢山あるものね」

 行き先さえ分かればこっちのものだ。

 魔力炉は性能の問題であまり役に立たないが、デブ一人を衰弱させる程度の治癒魔術は行使できる。右手に爆弾、左手に弾丸を携えて、朝臣はアッシュが飛び込んだ厨房に突貫した。

 ひとまず出入り口の前で治癒魔術を込めた魔弾を爆ぜさせ、厨房全域に治癒を行使する。

 先程の消費量と合わせれば、そろそろ二日分のカロリー。血糖値が徐々にやばい領域に入り始める。彼女の見立てではあと二回で、アッシュは飲まず食わずで三日を過ごした事になる。

 ……勝てる!

 その確信が、戦闘ではあるまじき一瞬の油断が朝臣を危険に陥れた。

 胸部と脚部に、重い物が当たる感触が来た。

 彼女の五感が捉えたのは、四方で紙袋のようなものが破ける音と、周囲全てを覆う白い霧のような粉塵のドームだった。

 厨房にあった小麦粉たちだった。

「……っ!?」

 大気に満ちた粉塵。何が起こるかは想像する必要もない。恐怖に顔が引き吊った。

 死をも覚悟して、朝臣は頭を抱えて蹲った。

 次の瞬間、厨房の入り口で大爆発が起こった。

 粉塵爆発だ。

      *

      *

 治癒の特性を活かした上策だと、アッシュは評価した。

 ……だが詰めが甘い。勝たなければならない戦において、油断とは大敗を意味する。

 相手の魂胆が分かれば、あとは早い。速やかに敵の無力化を効率よく行う。ただそれだけの事だ。故に、

 ……ひとまずは離脱だ!

 エネルギー切れの巨体を引っ張って、アッシュは豚足を走らせた。

 勝利に油断した相手は確実に追ってくる。そして、速度ではこちらの方が勝っている。故に陥れるには絶好のチャンスという訳だ。幸い、相手は戦士ではない。戦いの鉄則を踏んでいない。攻撃力こそ持たないが、戦略と策謀は攻撃力以上の力を有する。

 目指すは厨房。念動力を用いて行える攻撃の限界を、ここで明かすのだ。

 脱兎の如く豚犬は廊下を駆け抜け、階段を駆け下り、広間を駆けに駆けた。厨房へと繋がる廊下に突貫の勢いで突入。脳内に厨房の見取り図を描きながら、アッシュは更に地面を蹴る力を込めた。

 厨房の入り口付近、もはや前など確認せず、犬はその脚力一杯に跳躍した。一瞬にして対面の壁へと渡り、数瞬の間に食糧庫をその視界に収める。尻目には、緑の長髪を二房に結った少女。手中には同じく緑色の治癒性を持った魔力が。

 身体こそ健在だが、もはや体内のカロリーは限界に近付いている。待ち構える猶予などは皆無。英断でアッシュは食糧庫の扉は念動力で抉じ開け、中の物を引きずり出した。

 四方十メートル以上の第一食糧庫。その右奥から、小麦粉の記載の入った袋が見えた。大小それぞれ六個だ。

 厨房全域に治癒の魔力が広がった。

 全身の神経を物体に集約させる。魔力を念づてに送り、まるで巨人が投げるが如き勢いで大きな袋二個は宙を飛んだ。アッシュは続けて、小袋を飛ばす。今度は狙いを着けて、だ。

 大きな袋は厨房入口の両壁に激突。袋は破け、小麦の粉塵が辺りに立ち込める。次の瞬間には小袋も到達し、朝臣に叩き込まれた。

 厨房の半分近くが粉塵に包まれる。

 犬には、四肢を地に立て続ける力はもはやない。が、最後の念を込めて、アッシュは周囲の金属物を入り口に投射した。

 鉱物同士が激しくぶつかり合えば、必然的にその擦過エネルギーから生まれるものがある。

 火花だ。

 そして、火花が更に生み出すのは、空気と燃焼物の入り混じった空間の、

 ……粉塵爆発。さて、死んでもらおうか、精霊ニンフの娘よ。

 調理台の物陰に身を潜めるアッシュ。

 数瞬の後、厨房入口で大規模な粉塵爆発が起こった。

 轟、という爆音と爆風が厨房を一気に吹き飛ばす。唸る熱風にアッシュは伏せてかわそうとするが想像以上の爆発に、背中に火傷を負った。

 爆散が終わり、酸素の薄くなった厨房。入り口付近は煙が立ち込め状況は判然としないものの、アッシュは確かな手応えを感じていた。

 確実に即死レベルの爆発だった。回避のしようもない衝撃。

 ……相手を殺してしまったのが少々難だったが、死人被害は元より規則に記してある。損害賠償と謝罪程度で済む。

 神州で対印感情が怒らない事を願うが、相手は一介の医療隊員だ。逆撫でにもなるまい。

 伏せの体勢から、燃料のない身体に鞭打って起こし、アッシュは足を前に進めた。

 一歩一歩着実に近づく。爆発地点へ、だ。

 歩くごとに爆発の脅威が知れる。床は煤焦げ、調理台たちはあえなく横転に横転を重ねている。次の第三戦のために、局員と市民を大移動させておいて正解だった。

 ……二戦目に出る事が分かった時点で準備は出来ていた。参謀長としては、中々の戦果として誇れるものだろう。

 空気の流れのない厨房では未だ煙が立ち込めている。入り口の五メートル手前で、犬は立ち止まり、非戦闘員でありながら善戦した敵に黙祷を送った。が、しかし、

「……ん~、気もちいい責めぇ。――でもぉ、犬だからなあ、それも雄犬だからなあ」

 煙の隙間、アッシュの眼前には、あり得ない者がいた。

『――!? 何故ここにいるのだッ!?』

「あぁ、――やっぱ責められるのは可愛いじゃないと、俺の息子は起たんですよ」

 腰を抜かして座り込む朝臣の前に、両膝を突いて腕を広げる者の姿があった。

 服はボロボロ、肌は火傷だらけで、顔は守るものがなかったのか特に火傷が多い。本来なら即死レベルの爆発であったが、彼の前に浮かぶ〝本〟が二人を守っていた。

 宿禰・真人。知略を持つ神は、その全身で精霊を守っていた。

 予想と百八十度違う光景に、アッシュは言葉を失い、しかし、

 ……見事だ。

 男の果敢な行動に感服した。

 数秒後。宿禰は力尽き、厨房に倒れた。朝臣は腰を抜かしたまま動けなかった。


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