第十四章:偽りの仮面
第十四章:偽りの仮面
*
荒んだ世界がある。
川は枯れかけ、森は生気を失ったように萎れて、動物の姿はどこにもない。
それは人間も同様で、人の物はあっても、ヒトが住んでいる気配は一つも感じられない。その上、建物は半壊や全壊が殆ど。家財道具が置かれたまま、ヒトだけがそこから逃げ出したような有様だった。
山に囲まれた盆地。枯れかけた河川が近くにあり、町と呼べるくらいのものがあった名残が時々垣間見られる。
そこは世界の先導者と呼ばれる神州の、唯一の陰といえる場所だった。
――伊予二名の騒乱。
約五年前に起きた四国の大精霊の暴走を発端とする大災害だ。
地震。津波。火災。豪雨。落雷。山火事。人々の恐れる、考えられる限りの災害がそこで起こった。ヒトも、動物も、精霊も妖精も、全てが逃げ惑い、その多くが死んだ。
中でも大精霊の住んでいたと云われる石鎚山を中心とした一帯は、復興不可能とさえ言われるほどに損傷が激しい。当時元帥に就任したばかりの竜王が騒動の沈静化のために大精霊を殺してしまい、四国の霊脈がその大元である龍脈から瀕死レベルに至ったのだ。
霊脈とは自然を根底から支える動脈。龍脈は霊脈を支える心臓部。それらが機能を停止し、調整役兼修理役である大精霊、いわば土地神が消えれば、もはや再起の可能性はゼロ。
新たな土地神がここに住まおうと思わない限り、復興の兆しはない。再起できるのかすら、研究の進んでいない黎明の世界では不明だ。
現在四国の魔力濃度は、霊脈の調整が利かず高濃度で、生物は圧迫され、焼け残った 森に生気はない。湧き水は減り、人々も悪寒を感じずにはいられない。が、
「――きれい」
荒んだ世界に、透き通った少女の声が響いた。
少女の落とした一言の言霊は、地に落ち、一時的に霊脈の機能を果たす。それは魔力濃度が通常の値に戻る事を意味し、ヒトが安全に活動できる環境になった事になる。つまり、
「っけ、何で俺様がこんな事をしなけりゃならんのだ」
「しゃあないやん剣ちゃん。ワイらは部長はんのおもりみたいなもんなんやさかい」
「ぼくぼくつかれた、さなさな疲れたよー」
ヒトでも一定期間だけなら、作戦が遂行可能、という訳だ。
荒んだ世界に立つのは三人。草薙、菅原、纏向の三人だ。
「そろそろ目的地や。気張ってこう」
「っ、……情けねえ」
彼らは、櫛真より一つの任務を受けていた。それはこの盆地のどこかにある、とある電子機器を見つけ出す事。無理難題と思う菅原は嘆息した。
「しっかし、ワイら何を探したらええんかちゃんと聞かされとらんけど大丈夫なんか?」
「ケータイ、ケータイ」
彼らは探す電子機器が、古めかしい携帯端末である事しか聞かされていなかった。
「鬼村のセンセーは呼べば来る言うとったけど、何で機械が来るんや? こんな魔力濃度の場所で機械が生きとる訳ないて」
密度の高い魔力はその過度なエネルギーを消費、分散するために光子に変換される。光子は光を放ったり電磁波になったりする。その電磁波に、古い電子機器は対応できず壊れるのだ。
「――けーたーい、けーたーい!!」
「っ、うるせえガキだ」
舌打ちを吐く鬼だが、纏向は気にする事なく叫び続けた。その抑揚の無い声で、
「けーたーいー!! けーたーいー!!!」
「ああん……!?」
「け、剣ちゃん? 何でこっち向くん? こわいで?」
半歩引いて両手を振る菅原。しかし横では、
「ケータイさーん、さーん。出って来ておーいでえ! 出ないと画面をひんもぐぞお!!」
「け、剣ちゃん!? 何で腕掴むんダメや剣ちゃんアンタの張り手なんぞ要らんわ! いらんけんマジいらんからァア!!」
任務外の掛け合いを続けていると、ふと不意に、
『……はぁあ――いぃ』
何か、聞こえた。
「菅原てめえ舐め腐りやがって!?」
「ちゃうちゃう! ちゃうで!? ワイちゃうからホンマ胸倉掴まんといて!!」
「っ、ならなんだってんだ!?」
怒鳴り声を他所に、纏向は遠くの方を指差して、
「向こうから聞こえた、あっちい」
一人で駆けていった。
瞬間、菅原の顔が一気に蒼ざめる。彼は必死にもがいて叫んだ。
「あかん! 佐那お前行ったらワイ死ぬゥ!!」
草薙の拘束から無理やり逃れて、菅原は纏向を全速力で追った。
「ケーターイさーん!」
「走るなぁあ!!」
疾走する二人に嘆息。荒んだ世界でも唯一行動可能な生物である草薙は一言、
「っけ、――情けねえ」
と重鈍な動きで二人の後を追った。
*
*
侃々諤々。
どこに行くか議論している内に、波坂たちは二人組に声を掛けられた。
それは、とても愛らしい少女たち。小麦色の肌に薄ピンクの髪。あどけない顔を持った、
「プラです。やっと見付けました」
「パティもです。波坂・伊沙紀様、発見です」
インド神話体系局、医療科班長。医療の神アシュヴィンを襲名するプラとパティだった。
いきなりの登場に驚く波坂たちだったが、二人は単刀直入に要件を言った。
「プラは謝罪します。アウヴィダ様の頼みを忘れていたのです」
「パティも謝るのです。お一人様を治療するのを忘れていたのです」
なので、と二人は同時に言葉を繋いだ。
「プラとパティは、このヒトを波坂・伊沙紀様に返すのです」
眼前に出されたものは、銀髪の人形だった。
『やっほー。オマセの子、元気かな?』
「は、はぁ。ワタクシはこの通りですわ」
思わず波坂は人形を受け取るが、
「あ、あの、お二人とも、何故ワタクシにこの方を―――」
預けますの? と問おうと顔を上げた時には、褐色の少女二人はいつの間にか走ってどこかに行っていた。おそらく治療とやらに行ったのだろうが、
……台風一過ですわね。
内心で独りごちた波坂は、もう一度人形に向き直って、
「何がありましたの?」
『私には見せられない事をしに、カイセの所に行ったんだよお。二人が医療役だって聞いたから見張りでもしてみようかな、って気を利かせたらこれだから。もういいや』
「大丈夫ですの?」
『問題ないよ。あの子たちの能力は分かったから、変な事には……、まあならないよ。たぶんだけど』
その表現が一番不安ですわ。
波坂は吐息をして、この方が言うのなら本当に大事にだけはならないんでしょうけど、と思った。大事になりかけるかも知れませんけど、とも思った。金髪の人魚に顔を向けて、
「アナーヒア・バン・ハンサー。貴女のところも相当ですわね」
「面目次第もありません。悪気があっての事ではありませんので、どうかご容赦ください」
アナーヒアは深々と頭を下げた。が、ふとアナンタは、
「下衆な種族などを受け入れるからこのような事になるのじゃ。全く、あのしわくちゃの考える事は分からぬの。――まぁ、人間全て、余には理解できぬところであるが」
「アナンタ・カーリア。貴方……」
波坂が少年に口を聞こうとした途端、彼は取って返した。
「故に、人間の良き乳房は皆肉欲に塗れ、余にかしずけば良いのじゃ!」
やはりこの少年は変態だ。波坂は再度そう確信した。
*
*
白い部屋。
白い壁。白い天上。白い家具。白いカーテン。
唯一色を持つのは風に揺らぐカーテンの向こう、外の世界だけだった。
外界は晴れ渡り、人々の喧騒も遠く聞こえる。
部屋の中、白いベッドに、独りの男が眠っていた。
白髪混じりの、しかし若さのある顔。
海瀬だ。
彼は昨晩の夜から、ずっと眠ったままだった。倒れた直後こそ苦痛に顔を歪めていたが、今は比較的安らかに寝ている。
と、不意に病室の戸が開いた。入ってきたのは、褐色の少女二人だった。
「……プラです。来ちゃいました」
「……パティもです。お忍びです」
二人は一緒に不敵な笑みを浮かべると、不意に羽織っていた服を脱ぎ捨てた。
中から現れたのは、
「本職開始です」
「良い夢見せちゃうです」
際どい、隠す意図など微塵もない紐ビキニだった。
本性を見せるように、その小さな肉体には悪魔の小角と尻尾がいつの間にか生えている。
「プラとパティはアヤカシ種のサキュバス族です。とどのつまりは淫魔ちゃん。元気な夢を見せて、萎えた皆様方に活力を」
「在り余った活力は、ちょびっとプラとパティが食べちゃいます」
淫魔らしい、淫らな笑みを湛えて二人はベッドに近付く。
まずプラが、ベッドに横たわる海瀬に馬乗りになった。パティはそれを横から頬を紅潮させて見ている。二人ともすでに活力一杯にしか思えない様相だった。
「お顔に似合わず逞しい身体です。プラ、こんなヒトが大好きです。とっても溜まってそうなのです」
「次はパティが行くのです。美味しい所は山分けです」
分かってるです、とプラは腰を動かしながら甘い吐息混じりに返事した。
そして前座も程々に、プラは恍惚とした表情で身体を前のめりに倒した。布団越しに肢体を擦り付けつつ、プラは、
「……良い夢見てね」
海瀬の唇をそっと奪った。
瞬間。
プラの姿が霧散して消えた。もう一人の少女は含み笑いを浮かべて、
「ふふ、パティは外から美味しい物いただいちゃうです」
とプラが少し剥がした布団を丸ごと引っぺがしてベッドに上がった。
*
*
プラは落ちていく感覚を得た。
ゆっくりと、綿のようにゆっくりと落ちていく。
『ふふ、来たのです。プラ、また男のヒトを知っちゃいます』
少しすると落下の感覚は止まり、プラは宙に浮いた感触を得た。
感覚を頼りに姿勢を制御して、プラは辺りを見回す。何も見えない、暗がりだけが広がっている。いつも最初はこんなものだ。
『眠ってたら暗いですけど、精神に淫魔が入り込んだのです。すぐにでも精力が抑えられなくなって愉しい夢の始まりです』
淫魔族は妖精の部類に入る。妖精は小さい。故に意識も小さく、他者の精神に割り込んでも拒絶反応が少ない。技術があれば、こうやって他者で自由に活動できるという訳だ。
そして、淫魔は外への影響力を強く持つ。精神に入り込めば、内から外にその力が発動する事になり、通常の干渉とは比較にならないほど内側が淫魔に汚染されるのだ。
『淫は精力。種類はどうあれ意思の力です。だから淫魔は多少傷付いてもすぐ元気になれる。プラたち淫魔が中に入ってもそれは同じで、ヒトでも何でも途端に元気一杯子だくさん!』
取りあえず、立派な医療行為である事に変わりはない。
ただ、入り込んでいる間は淫らな夢を見て、肉体が堪らない状態になって、社会的価値がヤバくなるだけだ。
『まぁそのためにパティがいるですけど。でも、ここで見る夢は外の食べ物よりずっと格別なのです! 最高です!』
ヒトの中に淫魔が入るという事は、ヒトの精神がサキュバスに近付き、サキュバスの感覚がヒトに近付く事なのだ。つまりそれは、
『淫魔の持久力と耐久力はパナくてつまんないですけど、治療中はヒトと同じ目線から淫魔の与える快楽で、治療の済む瞬間まで味わえるのです!!』
これを知ってしまえばもう誰かを食べちゃう気にもならない。
『さあて、プラ、ここでもじもじエッロイ夢見ちゃうのです!』
最初はヒトの抑圧感情でつまらない過去を見て感受する破目になるが、ディナーの前のオードブルやスープ程度の感覚で行けばいい。むしろ焦らされている感じがしてイイ!
と、ようやく最初の記憶が来た。暗がりから現れた抑圧の映像は、
『……え?』
それは、視界全てを覆う炎だった。
一面に広がる火柱。それは逆流する滝のように圧倒的で、絶対的で、しかし儚げだった。
『何ですコレ。プラ、怖いです』
入り込んだヒトが感じた感情が直接プラに伝わってくる。
動悸が激しくなり、死を覚悟する恐怖が全身を、その小さな少女を襲った。
思わず少女は身を竦めるが、記憶は絶えず進んでいく。
炎の瀑布が消えていくと、やがてその奥からヒトが現れた。
見知らぬ少女の後姿だった。美しい黒髪を乱して膝を着き、肩で息をして、必死に何かを遂げようと頑張る姿がそこにはあった。肩越しに、彼女はこちらを見て、
『……笑ったです』
ぎこちない笑みだった。
だが、
『何故、安心するのです?』
入り込んだこの男は、彼女の笑みにとてつもない安堵を覚えていた。
最初の記憶はそこで一端の終幕を得た。しかし、
『このヒト、この女ばかり見てるです』
本来ならば、男性の理性は妻や娘への保護欲で劣情を抑えようとして、最終的に色欲に負け理性に使った妻子に性行為を振るう。故に、女ばかり映るのはおかしくない。が、これは、
『このヒトは同じ感情しか、安堵しか持ってません。こんなの初めてです』
驚いたり怒ったり、笑ったり暴れたり。
記憶にある女性の一挙手一投足に、このヒトは、ただただ安堵していたのだ。
彼女を見る事が。
彼女と喋る事が。
彼女と共にある事が。
彼を、ひたすら安堵させていた。
放心状態で記憶を眺めていると、プラはある事に気が付き、絶句した。もしかして、と。
『もしかして、このヒト。彼女に何も求めてないのです……!?』
そんな事あり得ない。男は女に欲情し、劣情をぶちまけるだけだ。
大切に想う女に何も求めない男なんて、仏か何かかでもない限りいない。
『――一体、一体何なのです! このヒトは何故堕ちないのです!? 淫魔が、この世で最も劣情を持つ種族を精神に受け入れてどうして平気でいられるのです!!』
理解不能の事態に、淫魔は発狂した。
最早淫夢を愉しもうなどという感情はどこかへ消えていた。否、心を蝕むこの安堵感が、プラを淫魔から蹴落としていたのだ。叫びの後、プラは突然の感情の揺らぎに驚愕する。
全身を包み込んでいた安堵が不意に消えたのだ。代わりにプラを襲ったのは、
『……あ、ああ』
苦痛にも似た虚無感だった。
寂しい。苦しい。恋しい。
怖い。
目の前に移る記憶は、先程見ていた彼女の姿。何ら変わりはない。
いつものように話をし、いつものように笑みをかわし、いつものように、
『一緒に、いる』
それが、苦しい。
地獄に突き落とされた方がまだマシだと思えるほど胸が苦しい。
堪らなく、堪らなく苦しい。目の前に彼女がいない事が、寂しくて苦しくて恋しくて、
『――何も、無い』
だが何もない事が、一番悲しい、とプラは思った。
彼は寂しくなんてなかった。彼女との約束があるから。
彼は苦しくなんてなかった。彼女との契りがあるから。
彼は恋しくなんてなかった。彼女との記憶があるから。
彼女と築き上げた、今があるから。
だから悲嘆などない。自分の中にはそんなものはない。
人の世の苦などこの生涯にはないのだ。ただ、
『後悔だけがずっとある……』
それは、彼女を死なせてしまった事だった。
本来死ぬべきだったのは僕の方だったに、と。
僕が勝手に抗って、勝手に戦って、勝手に死んで。ただそれだけの事だったのに、僕は、
――君に守られてばかりだった。
君と一緒に居続けたかっただけなのに。
君を笑顔にさせたかっただけなのに。
君の笑顔を見ていたかっただけなのに。
それだけだったのに、君は、
――ずっと庇ってくれた。
最後まで、僕は君に何もしてやれなかった。
ああ。
すまない。僕は、君と共にあるべきではなかった。共にいなければ、君は、もっと生きて、もっと幸せ になって、夢を掴むチャンスがあっただろうに。
『あぁ……』
絶え間なく流れ込む責め苦に、プラは限界を感じていた。
この精神から脱するには、外にいるパティが穴を開けてくれなければならない。開けるタイミングは外での処理が済んだ時、同時に行われる。つまり、プラが逃げ出すためにはこの男が劣情を催さない限り永遠に来ない事になる。
無論、時間切れだとパティが判断して勝手に穴を開けてくれるかも知れないが、そんなものを期待できるほど、プラに残された気力は十分ではなかった。
『ぃや、――もぅいや……』
意識が遠のきそうになる。
ここで気絶したら、母体である精神側に吸収されて二度と出られなくなる。その上、異物を吸収した精神側も暴走して、このヒトが死ぬ可能性だってある。それだけは、治癒する者として
『……ら、だめ』
歯を食い縛り、残った気力を振り絞る。
寸でのところで、プラは耐えた。と、その時だった。
『成程。エリスとは違うヒトが入ってきた時は驚いたが、君がそうだったのかい。理由は分からないが、あまり長居するものでもない。出てくれると有難いのだが』
突然男の声が聞こえた。
『だ、だれ?』
『相当混乱しているようだ。ここで意識のあるのは、普通侵入して来た君か、主である人間だけだろう』
『……とおの、かいせ』
ああ、と海瀬は肯定した。
『眠っている最中に誰かが入ってくるのが分かったから起きてきた。色々中を見られたようだけど、お目当てのモノは見付かったのか? それとも外の子と一緒に悪戯しに来たのかい』
彼の声が届き始めた頃から、記憶の責め苦がぱったりと途絶えていた。
『さっきの記憶、もしかしてプラにわざと見せてましたです?』
『何の事やら。勝手に入ってきて探ってきたのは君の方だ。少なくとも、君に責められる理由はない筈だよ。――さあ、道はこちらが勝手に作るから、一度出てしまおう』
暗がりを破って、海瀬は急かすように分かり易く外の光を再現した。しかしプラは、
『その前に、プラは一つ聞きたい事があるのです』
それは、
『――彼女は、一体誰なのです?』
無言が返ってきた。そのまま、プラは光へと押し流された。
*
*
パティは驚愕した。
道を開けてもいないのに、突然プラが顕現したからだ。
海瀬の腹部を俯瞰し、海瀬の劣情が極まるのを今か今かと待っているところへ現れたものだから構えも取れず、しかも飛び出してくるような形だったので、
「う、うぉお!」
「な、何なのですぅ!?」
プラとパティは互いが抱き合うような形でベッドから転げ落ちた。
「二人がサキュバスだという事は知っていたが、まさかこんな籠絡方法もあるとは知らなかった。驚きだな」
ベッドの上でいつの間にか起きていた海瀬。
彼は上半身だけ起き上って、自分たちを俯瞰していた。
「プラ、大変でした。少し死にかけました」
「パティも今死にかけました。頭痛いです」
パティは突然の出来事に慌てていたが、プラの息が荒れている事やその焦り具合から事態の異常性に少しずつ気が付いた。小声で、
「……何があったです?」
「プラは何も分かりませんです。このヒトの中、ぐちゃぐちゃで、色欲なんて一欠けらもなくて、その上、」
「その上慟哭のような苦しみ以外、何もなかった、か?」
海瀬の言葉に、プラは素直に頷いた。
パティは驚きに目を見開いた。二人の少女は、彼の危険性を恐れて壁際まで引き下がった。
しかし、アウヴィダの指示もある。ある程度遂行しない事には、帰るに帰れない。
「ぷ、プラ、どうしたらいいのです?」
「ぱ、パティもです」
しばらくすると、唐突に病室へ来客が訪れた。それは白い外套を纏った老女で、
「お二人とも治療の方は進んでおりますか?」
アウヴィダだ。海瀬は彼女の顔を捉えた瞬間、表情を強張らせ反射的に距離を取った。急な挙動で心臓が軋み血反吐を吐く。が、しかしそれでも海瀬は相手を睨んだ。苦しげな声で、
「……スパランツァーニ!」
「おや、その名を知っているという事は、旧代の魔術師。火導院の出ですか?」
「素性などは知っている筈だ。ふざけた事は止めてくれ」
海瀬の台詞に、アウヴィダは首を横に振った。老女はその薄笑いを浮かべたまま、
「間違ってはいけません」
「冗談のつもりか?」
いいえ、と老女はきっぱりと否定した。
「貴方様の知るスパランツァーニと私は別人で御座います。彼女はすでに故人でありますし、曾祖母の姉に当たる方とはいえ家すら破門にされた人。顔は似ているそうですが、赤の他人で御座います」
「――そうか」
「おや、信じられるのですか? 私の言葉を」
ああ、と海瀬は頷いた。胸を押さえつつも
「確証がなかった。本人がそう言うなら信じよう。それに性格が違い過ぎるからね。根底は似た者かも知れないが」
「あのような錯乱者と同列で扱われるのは少々遺憾です」
「スパランツァーニも貴女と同様、本心を出さないヒトだったよ」
アウヴィダの笑みが、ふと絶えた。が、すぐ元に戻って、
「私が、本性を出していない、と?」
「ええ。貴女もスパランツァーニも結局は、行き先が正しくとも過程を間違う」
「成程。肝に銘じておきましょう」
「それで、用件は?」
「私のプラとパティに貴方様の治療を頼んだのですがあまり上手く進んでおられないような気が致しましたので、私が直々に。まぁ治療と言うよりも、私の場合は改善、といったほうがよろしいものでしょう。昨晩もしきりに気になったものですから」
「何がだ」
問いかけに、しかしアウヴィダは臆面もなく、
「貴方様本来の属性は水、ですが内側には霊や火も混じっている。よくそのような状態で居続けようとお思いになられましたねと、そう言って差し上げましょう」
「居続けたいと思ったからでは、いけないのだろうか?」
いいえ、と老女は否定した。しかし、
「しかしそれではもう一年ももちますまい。私が流れを整えましょう」
「断ると言いたい」
「心配は必要ありません。その背中の紋韻もナカにいる方も、傷一つ付けずに致しましょう。無論、紋に手を加える事も」
海瀬は少し訝りながらも、老女の提案を呑み込んだ。
「結構。では、横になって下さいませ。少し痛みますが、長年の膿の取るのですから我慢して下さいませ」
指示通り動くと、またアウヴィダは驚いたふうに口を開いた。
「全く、貴方様は本当に素直なお方です。私が謀略を企てているとはお思いになられないのですか。厄介な力を持つ貴方様をここで亡き者にするなどとは」
「やり口が魔術師らしくない。それに、情報は全てエリスに筒抜けだ。いざとなれば一瞬でエリスはここに来られる。自衛は得意ではないが、殺気の一つや二つは分かる」
ふふふ、とアウヴィダはシワの寄った顔で失笑した。
*
*
「いえーい! エリスさんいちばーん!」
いつの間にか元の人間サイズに戻っていたエリスの高らかな声。
遊戯施設のカジノコーナーには、交流会で組分けされた組の殆どが集まっていた。
最初からいた宿禰、朝臣、アッシュの組。
議論の結果、乱入する事にした波坂、エリス、アナーヒア、アナンタの組。
食事を終えて賑わいを羨んだ空。
ホールは食堂の厨房で、どら焼きやつまみを増産してはこちらに供給している。
一つのテーブルを囲んで行われているのは、ババ抜きだった。インド勢は知らなかったようだが、一からルールを説明して開始した。
五回連続でエリスが一位通過していた。その事に周りの者たちが文句を言う。
『エリス嬢、まさかイカサマをしている訳ではあるまいな!』
「もっと、もっとはしゃぐのじゃ白の娘! 良いぞ良いパイ揺れぞ!」
「ババ抜きとは実に奥が深いのですね。ある意味ポーカーよりも心理戦を迫られそうです」
「アナーヒア、そこまで考え込まなくてもいいのよ? 空みたいに普通にはしゃいでればいいわ。賭け事でもないんだから」
「そういうヘルさん、さっきからビリばっかじゃん。下手なの?」
「――やったぁ、わたし二番だぁあ」
国や連合の代表とは思えない低レベルさだった。
賑やかなその光景を横目に、波坂は吐息と共に呟いた。
「何だか当初の想像よりも偏差値の低い交流になりましたわね」
落胆したい気持ち半分、交友がたしかに深まった事への喜び半分。複雑な気持ちを持ちつつも、波坂は隣のエリスの肩を突いた。交流とは別の心配事を呟く。
「……あの、本当の遠野・和時のお父上は大丈夫ですの? 相手は淫魔ですのよ」
「大丈夫だよ。いざとなったら私が助けるから。――よーし次は何をしようかなあ!」
ワイワイとした空気の中で、エリスは笑顔で皆を纏めていた。
それはどこか、幼子たちを取り仕切る姉のような、頼もしい存在に見えた。
……まぁ、ホントに見えるだけですけど。
*
*
執務室で、ドルガーは早朝から書類整理に追われていた。
連合議会の議案や質疑、体系局の人事案、その他要望や提案様々な案件の確認事項をドルガー一人でこなしていたのだ。本来ならば部下や他の代表クラスの面々がそれぞれ受け持つのだが、交流にその殆どが出ているため、彼一人でそれを捌く破目になっていた。
しかし、その事に愚痴も言わず、黙々と職務を全うするドルガー。
すると、ふと不意に部屋の扉がノックもなしに開け放たれた。聞こえるのは女性の声。
「来たわよドルガー」
部屋に入ってきたのは栗色の髪を伸ばした妙齢の女。
見た目は美しいが威勢がいい。ススで汚れた頬や服が一層それを印象付けていた。彼女が入室した瞬間から、ドルガーの眉間にはシワが寄っていた。溜め息まじりに、
「……マーリー。貴女は何度言えば分かるんですか。部屋はノックしてから入る。身だしなみはともかく汚れは何とかしてから訪ねて下さいと!」
「何よ、アンタがすぐ来いとか言ったくせに!!」
「余計に火種を持ち込まないようにするのが今の貴女に求められる事です! 大体何ですか貴女は! ミサイル一発が一体幾らするか分かっているんですか!? この忙しい時期に余計な仕事を増やさないで下さい」
ドルガーの剣幕にマーリーは言い訳も出ず、口を固く結んで無視していた。
最終的にドルガーは怒鳴り疲れ、いつものように始末書を提出するよう言って執務机に戻っていった。いつになく説教が短かったのが気になって、マーリーはふと尋ねた。
「……ほんとに疲れてるの?」
「少なくとも貴女よりかは仕事をしているつもりです」
「う――、分かったわよ」
何がです? と問うドルガーにマーリーは、
「次からは、もうちょっと考えてから動く。いい? それで」
「まだまだ言いたい事はありますが、まあ一歩前進でしょうね」
「そ、そう……」
褒められた事にマーリーは驚いて、ぎくしゃくしながらも執務室から退出した。
扉の前で、彼女は、
「ほ、褒められた、――久しぶり」
小さくガッツポーズを取って、マーリーは怒られていた事など忘れたように鼻歌まじりで廊下を歩いていく。二ヶ月ぶりの局の空気を愉しんでいた。




