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未だバクバクと喧しく音を立てる心臓と共に、私は図書室へとやって来ました。そしてこの原因である音羽を大変恨めしく思っております。会長に変に思われたらどうしてくれるの!顔が熱いから、頬が赤い自信あるんだけど!!普段こんな事でからかわれることなんてないから、必要のない動揺しているのが自分でもわかる。音羽の事は大好きだけど、こういうことばかりは極力勘弁して欲しい。本当に。
結局到着までに心臓をおさめられなかった私は図書室前で深く深呼吸し、息を整えようと試みた。平常心、平常心。……うん、平常心ってどうやるんでしたっけ。そんな事を考えるレベルにまで堕ちながらも、握りしめた右こぶしを左胸に2,3度当て、私は何とか落ち着こうとした。そして気付いた。握りしめた右こぶしの中身を。
「あああああ成績表…!!」
まるで親の敵のように握りしめてしまったこの紙を最早しわの無い状態に戻すのは不可能とも思える。これだけ見れば成績が不服で握りつぶしたかのように見えなくもない。……そう見えても不思議ではない点数・順位なのが悲しい所だ。とにかくその時の私は握っていた事を完全に失念してしまう程に動揺していた、うん、そういうことにしておこう。
しかしいくら無意識だったとはいえ、このままシワだらけの状態の個別成績表を会長に渡すことは躊躇われた。だから私は悪あがきだと理解しながらも壁に紙を当て、手で何度か成績表を擦って伸ばすことを試みた。もちろん大した効果は得られないが、全くやらないよりはマシだと思える多少の程度の変化はあった。うん、やっぱり会長に見せるなら、余りに酷い状態のものを渡したくはない。……もう遅いことかもしれないけれど。
成績表を伸ばしているうちに少し呼吸が落ち着いた私は、今度は握り潰さないように注意しながら成績表を手の中に収めた。そして何も持っていない左手で図書室のドアに手を掛ける。よし、大丈夫。今の私はいつもの状態……に、近いはず。そう思っていたが、それは不意に開いたドアによって失われてしまった。
まるで自動ドアのように開いたドア。そして私に向かい合う位置に立っていたのは一人の女子生徒。その両方に私は息をするのも忘れるくらい驚いた。対峙した女子学生も驚いた様子で、彼女は大きなこげ茶の目をぱちぱちと瞬かせた。けれど私はそれ以上に驚いていたと断言できる。
長い栗毛に色白の肌に形のよい唇。とても綺麗な女子生徒だった。
「すみません」
「あ……いえ、こちらこそ」
まるで鈴が鳴るかのような澄んだ声色で小さく謝罪をした女子生徒を、私が良く知っていた。そして一瞬言葉に詰まった。だって、まさかここで出会うとは思っていませんでしたもの。――ヒロインさんに、出会うなんて。
突然の事に固まる私とは対照的に、ヒロインさんは小さな微笑みを浮かべると何事もなかったかのように私の横を通り過ぎた。私は遠ざかっていく静かな足音を聞きながら、少しずつ固まった筋肉をほぐすかのようにぎこちなく振り返った。
「……びっくりした」
予定していなかった遭遇に私は度肝を抜かれながら小さく呟いた。
(……ヒロインさんだ、間違いない)
同じ美人というカテゴリでも音羽が勝気な雰囲気を携えた美人であるのに対し、ヒロインさんは正当派の良妻賢母というイメージを抱かせる美人であった。元々知っていたけれど実際に目にした彼女は想像の域をゆうに超えていた。虹色デイズの中のヒロインは無償の愛を捧げようとするタイプであったのだが、今の人物がヒロインだというのならそれもあっさり納得できる。私の少ない語彙の中から当てはまる言葉を導くなら、聖女様っていうのが一番近いのかもしれない。
そんな事を感じながら私は遠ざかるヒロインさんの背を見つめていた。そして『これがヒロインの格の違いなのか』と思うと、何故か少しだけ息が詰まる気がした。この世界で――ゲームの中ではないヒロインさんと私は一言交わしただけの関係だ。けれど特別な人であることは不思議と理解してしまった。これがゲームの知識持ちの能力なのか、ただ単に彼女の魅力に興味を魅かれたからかは分からない。しかし何れにしても理解出来たことは一つある。
「……やっぱり、モブとは全然違うんだ」
そう、この一言である。
あれが人を引きつける魅力だというのなら、天性のものだろう。私は会長や多くの攻略キャラがゲーム内で魅かれた原因の一つが唐突に理解できた気がした。そして私が茫然としてしまったのも仕方がない事だと理解して欲しい。
……あと、余りの事に周囲の気配に気づけなくなっていた事も、当然だよね?
「……おい、何呆けてんだ」
「どっ……わっしゃー?!!!」
すみません、思いっきり変な声を上げてしまいました。
驚くと思いっきり腰って抜けるよね!!膝を思いっきり打ちつけて「イッ、?!」って叫んじゃいました。静かになっていたはずの心臓が再び煩く喚きだす。けれどそれは先程までの気恥ずかしさなんかじゃなくて、お化け屋敷で驚いた時の種類のものだよ!!
けれど此処に現れたのがお化けじゃないことは解っている。振り返らなくても誰だかわかる。
何故って?私が会長の声を聞き間違える訳、ないじゃないですか。
私はへたり込んだ姿勢のままゆっくりと後ろを振り返った。するとそこには想像通り会長が呆れた顔をして立っていた。今日の会長は眼鏡非装着だった。
「……会長」
「何だ」
「がっかりですよ」
いや、ゲーム内の会長って眼鏡シーンって1回しかなかったんだけどね。でも勉強中は殆ど眼鏡だったし、そういう期待もあるじゃない。眼鏡の方が直視しやすいしね!いや、眼鏡が良いのもレアだからっていう理由があるからだから、見慣れるほどに掛けられても困るのかもしれないけど。けれど私のこんな心の内が会長に伝わる訳もない。
「一言目にそれか。何がだ」
まさか眼鏡をしてない事に文句を言われているなんて思わないだろう会長は、コツンと痛くない程度の拳を私に降ろした。ふふふ、このくらいじゃ私は反省しませんよ。と、思うけど……うん、痛くないけど若干恥ずかしいです。美形の近距離はやっぱりつらい!!
「図書館前で騒ぐな。そんなに人はいないが、響くからな」
会長は尤もな事を仰いました。そして私の頭に置いていた手をはずし、それをそのまま差し出してくれましたよ。ええ。優しいですがその手を借りて立ち上がるのは難題だよ。手まで綺麗じゃないか、会長。いつもペンとか本とか持っていたからその全貌を見たことはなかったけれど、うん。実に綺麗な手でございました。ちょっと骨ばってて男性らしい手ですよ。でもシミ一つ見当たらない手なんだ。……これを握れと?握りますけど、逃げれないから握りますけど!!
本当は一人でも絶てるし恥ずかしいのでその手はとりたくなかったが、せっかくの好意を無下にはできない。私はその手を恐る恐る掴んだ。掴んだ瞬間に引っ張り上げられ、未だおぼつかない足を何とか意地で立たせる。そして次の瞬間には私は自分の手を勢いよく引き抜いた。……会長はとても力強かったです。
「か、会長が脅かすから悪いんですよ、びっくりしたんですよ、本当に」
って、違う!悪態をつきたい訳じゃなくて!!お礼を言うべきか、いや、言わないべきか。平常心なら言える言葉も、変に意識している今は判断に困ってしまった。私は心臓を大きく鳴らしながらひとまず会長を非難してみた。うん、でも正当な抗議だと思うよ。これは。
だが、会長は「お前がぼんやりしてる方が悪いんだろ」としれっと言ってのけた。
「大体来るの遅いっての。行くぞ」
「え、どこに?」
別に待ち合わせをした覚えはない。だが、私の事を『笑い童子』として知っていた会長ならいつも昼休みに私が図書室にいるのも把握していたのかもしれない。私が会長がいつも図書室に居ることをしっていたように。
だが、成績表の開示だけなら図書室でも何ら問題は無いはずだ。そう思った私を会長はちらりと見るとあっさりと行き先を告げた。
「生徒会室」
その言葉はまるで私にとっては『成績についての申し開きなら生徒会室で聞いてやる』と聞こえたのは何故でしょうか。……うん、ごめんなさい、わかってます。後ろめたい成績だからです。そうだよね、図書室だと怒るに怒れないよね。苦手な数学がアレだったのは会長も知っての通りだけど、他の教科まで……教科によっては数学より酷くなっていたのは怒られても良いことだと思う。後悔しているし反省している。そうだね、謝り倒すのも図書室じゃない方が良いから私にとっても都合は良いか……そう私が考えていた時だ。
「何百面相してんだよ」
生徒会室に歩みを進めながらも、会長は私に尋ねてきた。私はその言葉にもびくりと肩を震わせた。貴方に呆れられるとか怒られるとか、そんな事を恐れていますが何か!なんて言えやしない。けれど、会長には何故か伝わっていたらしい。
「……そんなにビクつかなくても怒らねえし。ただ見せろってだけだっての」
「え……いや、申し訳なさがあってお見せしたくないと言うか……というか、え?怒らないんですか?」
小首をかしげる私に、会長は盛大に溜め息をついた。
「お前、怒られたいのか?大体前にも言ったはずだろ。俺は別に教えただけだし、お前の為でもない。つか、最悪赤点だろうが落第するのはお前だから俺が怒る必要ないだろ。何の被害もねぇし。怒ると疲れる」
「……仰る通りです」
確かにそう言われればそうとしか言えない状況ではある。私の一人相撲ですか!そう思うと何とも恥ずかしい限りである。でも勉強を始まる前はちょっと脅したじゃないですか……と思ったが、赤点を取った場合に限られていたし、あれも有る意味発破をかけるというようなものだったのかもしれない。だって今の会長の顔は、本当に『面倒なことで怒るのはしんどい』という顔をしているのだ。……それなのに面倒見は良いというか根気があるというか……余程教えることをしてみたかったのだろうか?不思議な人だなと私は思った。
「でも、じゃあどうして移動を?」
話が有るわけではないのなら図書室成績表見せて終わりというのでも良かったのではないか。そう私は思ったが、会長は「別に図書室の用済んだし」とあっさり言った。
「単にお前がいつも図書室来てたし、けど今日はまだ居なかったから来るなら持ってこいって思っただけだ」
「なら直接生徒会室に来いっていってくれてもよかったのに」
あ、でも生徒会室に来いなんて内容を『魔王』様からのメールに書かれていたら、音羽を誤魔化すのが面倒だったのか。そう私は思ったが、どうせ会長に裏事情は知られていない。だから何故直接生徒会室に呼ばれなかったのかと尋ねてみた。すると会長はなんら驚いた様子もなく淡々と言ってのけた。
「単に俺が図書室にいたからだっての。お前はまだ来てなかったけど、もう生徒会室に戻るからもう一本メールでも入れるかって思ってたトコだったし」
「……図書室に用事、あったんです?」
それって、ひょっとしてヒロインさんとの待ち合わせだろうか。私がすぐさま思いついたのはそんなことだった。けれど会長の答えと言えば私の想像とは全く違うものだった。
「単にコレ借りに来ただけだけど」
そう言いながら彼が私に見せたのは先日私が口にした本……脱力雑学百選だった。力の抜ける顔が描かれた表紙はあまりに会長の顔には似合わなかった。なんだろう……モネの穏やかな睡蓮の絵の中に『へのへのもへじ』を書きこんだような奇抜さが存在する。
「……って、何借りてるんですか」
「何って、お前が笑いを堪えれない程の本を借りただけだろ」
「会長忙しいんでしょ」
体育祭の準備で忙殺されていると思っていたのに、何やってんですか会長。あほな本読んでる場合じゃないでしょう。そう私は思ったが、会長はかなり飄々としていた。
「忙しいっちゃ忙しいけど、休憩は必要だろ?」
「……言い替えればまだまだ余裕ってことですか?」
「いや、まぁ煮詰まるから適度な休憩挟んでるだけだ。あんまり根を詰めると、白森とか茜井とかが煩いしな」
そう言いながら会長は私に対して初めて他の人の名前を出した。それに会長もどうやら気づいたらしい。
「ああ、お前知らないか。白森は生徒会の会計で、茜井は副会長だ」
そう説明を加えてくれるが、私はその名前を聞くまでもなく理解していた。――知ってるよ、それは。煩く言われているのは知らなかったけど、知ってるよ。私は口に出さずに、それを心の中で思った。白森会計……フルネームなら白森瑞奈。それは先程出会ったヒロインさんだ。そして茜井副会長とは白森会計と同学年の赤毛のスマイル君だ。こちらは茜井譲だったかな。
ちなみに虹色デイズは乙女ゲームらしくメイン攻略対象者の男の子には漏れなく虹色の担当カラーが名字に入っています。赤橙黄緑青藍紫……セキ・トウ・オウ・リョク・セイ・ラン・シ。この虹の色がね。でも、うん。お気づきだと思うんですが、茜井副会長のみ「赤」ではなく茜となっているのです。そのせいでファンの中で『虹の君にカウントしていいのか否か』との論争が起きたらしいのですが(これは音羽に聞いたことなので、会長にしか興味が無かった私は直接目にしてはいない)、まぁとにかく他の6人にはそれぞれ橙黄緑青藍紫の色が入ってるんですよ。
ちなみにヒロインさんのデフォルト名の『白森』は何にでも白色は染められるからという意味を込めてあるらしいよ。確かプレイヤーさんの思想でヒロインさんを染めてください、って感じだったかな。確かにヒロインさんは純粋で何にでも染まりそうな気がする。願わくば、変に染まらないで清らかで居てほしい。
……等と会長に話せる訳もないので、私は当たり障りのないように返事をした。
「お姿だけなら、知っていますよ。白森会計も、茜井副会長も。入学式で拝見しましたから」
「意外だな」
「何がです?」
「集会で話す事が有る茜井はともかく、白森が前に出る事は殆どないだろ。よく覚えてるな」
「……人の顔覚えるの得意ナンデス」
若干片言のようになりながら答えた私だが、うん、まぁ苦手って訳じゃないけど特別得意な訳ではない。嘘をつかないという信条に若干反する気もするが、嘘ではないと自分に無理やり言い聞かせた。背中に変な汗が伝っている気がする。うん、これは嘘じゃない。苦手じゃないし、方便ってやつだよね!!そう思いながら私は続けた。
「それに、先程白森会計にはお会いしました」
「へえ?」
「ここでお見かけしたことが無くてびっくりしましたけども……とても綺麗な先輩ですね?会長、惚れちゃう……っていうか既に惚れてるんじゃないんですか?」
私は話題を切り替えれるならという思いと、あとは確認したかった事を織り交ぜて冗談めかしに言ってみた。すると会長は一瞬驚いたような顔を居た。豆鉄砲を食らったみたいな顔ですよ。お、この反応は!!そう思った私だが、会長は次の瞬間ぷっと噴き出した。
「流石笑い童子。面白い事言うな」
「え、何で笑うんですか!っていうかどこが面白いかわかんないんですけど!!」
「遠慮なく冗談言って寄こすところだ。堂々とし過ぎていて逆に新鮮すぎる」
そう言う会長から私が本心を読み取ることは私にはできなかった。これは本心からいっているのか、隠しているのか。どちらともとれる反応だ。
ううう、失敗か。もう少し見抜けるようになってから聞くべき質問だったか。もしこの質問で惚れてると確信ができるようであれば積極的に影からお手伝いをしたいと思っていたのだが……いやはや、早計すぎたのか。
そう思いながら見た会長は口に手の甲を当て声を押し殺し笑っていた。隣に居る会長を斜め下から見上げるアングルは、なかなか直視し続けることが出来るものではなく、私は慌てて視線を正面に戻した。
そして私は生徒会室のすぐ前まで来ていたことにようやく気付いた。
ヒロインさん(一言だけ)登場。