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ほら、よくあるじゃない。乙女ゲームの世界にトリップってお話。私もあんなことにならないかなー…なんて夢を見ていたのですよ、うん。でもそれはあくまで、「絶対に起こらない」という前提でのお話なのよ?だから実際に起こったら絶望しましたよ、ええ。
私のトリップ状況を説明すると朝起きたら制服が変わってて、街の様子が変わってて、見覚えのない生徒手帳片手にやっとのことで学校に着いたら校舎が無駄に近未来的になっていたのです。けれど街を行き交う人々は割と知っている人のままで……うん、はっきり言おう。家族、友人、知人等知っている人は全て群衆の集まり……いわゆるモブキャラという立ち位置に存在していましたよ。素敵!全然寂しくない!
ちなみに私もモブの一人。スペック?――うん、全部中の中だと自称しておくよ。正直、トリップ前と全く変わらないからね。容姿も、頭脳も。
まぁ、知っている人だらけと言っても流石にこんな事が起こったら1日目は目が点になるのも当然だよね?
全部がおかしくて、何だか変な夢を見ていると思ったよ。でも夢にしては何時までたっても覚めないし、落ち着いてくるとやけに見覚えのある制服だなと思ったの。その制服に気付いたのとほぼ同時だったかな。たまたま無駄にキラキラと光り輝いているように見える、生徒会の人と廊下ですれ違って……私は気づいてしまったのよ。ここ、乙女ゲームの【虹色ライフ】の世界観と同じだって。思わず鳥肌が立っちゃった。
虹色ライフ。それは文字通り七色のカラーを担当した少年+隠しキャラ一名で送るスクールラブストーリー。部活や委員会、さまざまな触れ合いを通して愛情を育んでいくゲーム。
うん、気づいてた時には思わず私は病院に駆け込んでたよ。だって、有り得ないって思ったから。でも病院では幸か不幸か完全に健康優良児とのお墨付きをもらってしまったんだけどね。
まぁ、仕方がないことだとは思う。この世界はこの世界で普通に回っている(らしい)のに、私の頭の中だけが違っているのだから。そしてまさか「ここゲームの中の世界ですよ!」なんて言える訳もなかった私が、告げたい症状を伝えられなかったのもまた仕方がないことなのだ。
でも、まぁ、絶望したのなんてほんの少しの間だけなんだけどね。だって、世界が違うなんていっても取り巻く環境が変化しただけ。それ以外に不都合な事なんてなかったんだから。パニックはしたものの、落ち着いてこればどうってことなかった。
そんな次に私が考える事は単純だった。だって家族も友人もそのまま、元に戻る必要なんてないじゃない?――ならば次は欲望を満たすことを優先しなければいけないじゃない。
……そう、某声優さんの生声が聞けるってことを堪能しないでどうするの!!ってことよ!!!
何を隠そう、私はその声優さんがこのゲームに出演しているからこそこの虹色ライフを購入したといっても過言ではないのだ。そもそも初めて乙女ゲームに手を出すきっかけになったのも彼の声だ。ゲームを購入しても彼が声を担当している以外のキャラクターは攻略したことがない。別キャラの好感度を上げないと上手くイベントが進まない時は渋々妥協していたけれど、それもこれも全ては彼のためだけなのだ。全てはフラグ回収のためと思えども、罪悪感が募るくらいに彼の声に一筋だ。
あ、でも誤解しないでね?これだけ本気で声が好きで崇めている、奉っているっていっても過言じゃない状況だけど、彼のことを一人占めしたいとか彼のお嫁さんになりたいとか言っている訳じゃないの。ただ、信仰しているだけよ。……そこ、どん引いた目で見ないでちょうだい。
まぁ、そんな私は早々にこの世界への違和感を捨て去り、欲望に生きることにしたの。
そう、彼の声……会長様のボイスを盗み聞きするミッション、開始ですよ!
あ、うん。お気づきだと思いますが会長さんを攻略する気はございません。私モブだし。劇の木の役くらいに関係ない存在でしょう?背伸びはしない、これ私の人生論の鉄則なのよ。だから声を聞くには盗み聞きしかないの。正面から話しかけるスキルはない。だってイケメンだもの。イケメンこわい。何あのきらきらオーラって思っちゃう。二次元でもかっこいいけど、三次元になるともう貴方神ですか状態よ。ホントに居るのね、こんな人って思ったわ。
そんな私は野望を秘めて、今日も今日とて彼を求めて図書室に向かった。会長さんはいつもお昼休みは図書室にいるの。どれだけ急いでご飯食べてるの?って疑問に思うくらい早くいる時もある。私?……パンは飲み物だと思ってる、あの声が聞けるならね。
図書館で聞ける彼の声は限られている。「お願いします」や「すみません」という貸出時の図書委員さんとのやりとりだけ。あああ、私なんで図書委員じゃないのかな、委員ならもっと近くで聞けたのに。いや、近ければあの色気にやられてたからこの距離が正解か。でももっと近くで聞いてみたい、そう思うのはやっぱり乙女心よね?けどいいの。この声だけでご飯三杯食べれるくらいには満足なのだから。
もしも私が主人公なら、猫好きの彼が裏庭で猫とニャンニャン言いながら(※ニャンニャンは私の脳内だけで実際はニャーくらいだった気もするが、それでもかなり可愛いイケメンボイスだった)遊んでいる時に登場し、彼に赤面されつつも「何見てんだ」って言われるイベント起こすかもしれないけどさ!あの照れ顔スチル最高だけどさ!声目当てでも悶える位の美麗スチルだけどさ!大したスペックを持たない私がそれを起こした所で「通行人A、本気で睨まれました」というイベントに変化してもおかしくないからね!それにこの時期、ゲームの中だともうそのイベントは終わっている。だから私はそんなイベント起こせない。でもいいの。声が聞けるだけで満足だから。やっぱり良い声してるなぁ……なんて、そう毎日思っていただけなのに。
唐突なイベントは突然やってきたのです。
その日はワックスがけか何かで図書室が開いていなかった。だから会長様の声が聞けず、私は渋々回れ右で図書室から教室に戻ろうとした。でもただ教室に戻るのも癪だから、体育館横にある自販機でジュースを買って戻ろうと思った。雨がそれなりに降っている日で、その日ばかりはあまり誰も教室から出ていなかった。もちろん、屋根があるとはいえ横は吹き抜けの体育館横通路なんて誰も居ない。制服が濡れちゃうからね。
でも私は少しくらい濡れてもすぐ乾くと思って全く気にしてなかった。いまはジュースを買う方が大事。そう思いながら自販機前に立ったんだけど……驚いたことに、そこで声を聞いてしまった。人の声じゃない、ニャーニャーという猫の声を。
あれ?と私は思った。だって、雨の中だし、猫の姿は見当たらない。けれどガサゴソという音も聞こえてくる。
はっきりと言おう。私は猫派でなく犬派である。だが基本的には動物好きだから犬でも猫でも好意的に接しているつもりである。だから何だかよくわからないが、鳴く猫とその音に興味を引かれたのだ。
音の気配をよくたどると、それは少し離れた体育用具入れの方から聞こえてきた。まさかこの中に猫が?と思ったが、どうやら違った。その用具入れのすぐ横の、上にカゴを置かれた段ボールがガタガタと揺れていたのだ。そして段ボールが用具入れにあたって少し音がなっている。なるほど、どうやら段ボールの中に猫がいるらしい。段ボールにもぐりこんでいるうちに誰かが荷物を置いてしまったのだろうか?なんにせよ可哀そうだとおもうのですぐさま助けることにした。
だが、何も考えず善意だけでこれを行った私は、段ボールを開けた瞬間顔面に猫の頭突きを受けることになってしまった。唐突な攻撃。よろけて真後ろに尻餅をついた。外は雨。しかも運悪く水たまりに大分。……OH,濡れちゃいましたよスカートが……!!それでも猫をキャッチした私を褒めてほしい。ちなみに猫は黒猫だった。その黒猫にこの後衝撃が走ることはもうないだろうから、私はすぐに猫から手を離した。だが猫はこともあろうに尻餅をついた私の膝と腹の間くらいを陣取ってお座り下さいました。おい猫さん、そこ邪魔だから……!!そもそも出たいと思ったから助けたのに……!と、恨みがましく腹の上に乗る猫を見た。正当なる怒りである。だがその瞬間に、私はフリーズした。見事な黒猫。赤色の首輪。……これは、会長様の猫ではないか!!
そう思っているうちに、「クロ!!」と、何のひねるもない猫の名前を呼ぶ会長様の声を私は聞きました。ええ、びっくりですよ。すみません、おねがいします以外で聞いた言葉第一号ですよ。猫は雨に濡れるのも気にせず、そして私が若干重いと感じているのも気にせず、「うなー」っと猫なのか猫じゃないのか解らないような声で会長様に返事しました。
会長様は猫を求めて私の傍まで走って来……
「……ええっと……大丈夫か?」
「ええ、……多分」
猫に乗られたままぬれ鼠になっいる私を、どう扱ったらいいのかよくわからない顔で私に尋ねてきました。しかもクロときたら会長が抱き上げようとしたら威嚇するのですもの。会長様若干しょんぼりしていますよ……っていうか退いてもらわないと私もこれ以上はちょっと濡れたくない!!
そう思っていたら、会長様は私の方にかがみこみ、強引に猫を抱き上げました。一瞬会長様との距離がものすごく近くなったことに私が驚かないわけが有りません。心臓止まるかと思いましたよ。イケメン、その顔で殺人引き起こす。そんなタイトルが頭によぎるくらいに驚きました。
「なあ、お前」
「ハイ!!」
「……とりあえず、そこ、濡れる」
はい、そうでした。猫が退いた普通に立ちあがろうとした私は、けれど固まってしまいました。それは猫を片腕で抱きなおした会長様がその手を私に差し伸べているからですよ!!
「え、あの」
「あー……なんか良く分からねぇけど、クロがなんかしたんだろ。タオルかしてやるから生徒会室こい」
え、そんな事臨んだんじゃないんですよ。単に私は会長様の手に戸惑ってるんですよ。
そんな私の心の声なんて会長様に届かなくて、代わりに私の手首をつよく引っ張りあげてくれました。腰が抜けるかと思った私は……いえ、最初から腰が抜けていた私は会長様の所に倒れこむ寸前でしたが、なんとか『まずいモブごときが会長様の胸に飛び込むなど!!』と本能が思った故にか、無事自分の足で立つことに成功しました。ほっ。
私が立ったのを見た会長様は「行くぞ」と、そのまま私の腕を引っ張ります。
「って、え?生徒会室?」
うん、どうしてこうなったのか解らない。
生徒会室でタオルを拝借し、着替えを持っていないと堂々といった私に自らのジャージを貸し与えて下さった会長様に「此処で着替えて良いんですか?今?」と素で尋ねた私は「恥じらいを持て!」と更にもう一枚タオルを頭から掛けられました。タオル、これ以上いらない。その後会長が「終わったら呼べよー」と言いながら出て言ったので私はゆるりとブレザーを脱いでジャージを羽織り、スカートを脱いで短パンを着用した。……でも流石に会長様のサイズはぶかぶかだよ。ずれるよ。私がぱんつなんてものさらしたら公害以外の何物でもないよ。
そう思いながら、けれどジャージもサイズが相当大きいのでポロリの心配ないかと安心した。
「着替え終わりましたよー」
そう言いながら扉をあけると、そこには猫を楽しそうに撫でていた会長様がいた。極上の笑みだった。まあ、私に気付いた会長様はすぐに普通の顔に戻ったんだけどさ。ばっちり見ちゃいましたよ、ええ。でも引っ込めたってことは見られたいものではなかったのかな。そう思ったから、私は申告してみるものにした。
「……あの、すみません」
「何がだ」
「なんか幸せそうな顔盗み見てすみません。お金払う程美しいものを見た気分でした」
でもごめんなさい、私いまジュース買うくらいしかお金持ってないのです。そう、思わず本心を彼に伝えると、会長は私を見上げた後ブッと噴き出した。
「お前、変人」
ただのモブが“へんじん”にレベルアップした!
そんなコメントが頭の中をよぎると同時に、私には葛藤が生れた。変人とか、変人とか女子高生が喜ぶ言葉じゃないわよ!!でも、会長様の声からそんな言葉が……!!そう思うと思わずトキメキが止められないっていうのも仕方がないことでしょう。うん。脳内再生完璧だよ。そんな私は置いておいて、会長は次の言葉を私に続けた。
「お前図書室に居るヤツだよな」
「あ、はい」
「いつも随分楽しそうに本読んでるよな。何読んでるんだ?」
「え……」
私ひょっとして文学少女だと勘違いされてます?っていうか会長様ってばただの図書室の住人Aを記憶してるって凄い!じゃなくて!!
確かにこの学校は私などは付いて行くのが精いっぱいのレベルであり、殆どの図書室の住人は真面目な勉強家か文学好きしかいないと思いますけど、私、文学本はあまり好きではありませんよ。むしろ睡眠薬だと思っている節もあるくらいです。だって私の図書館に通う理由なんて会長様の声を聞くためだけだもの。でも本を全く見ないで図書館に入り浸るのも変でしょう?だから呼んでいるのなんて一般向けの本ではなくて……
「世界悪女辞典とか、世界の偉人爆笑伝説とか……あとは明日にでも使える脱力雑学百選とかですけど……」
そう、私が飽きずに読めるのはこの辺の部類だけだ。この学校、色々な本が置いてあって本当に良かったよ。でも正直に言ったら会長様は耐えきれないとばかりに大笑いしだした。
「なっ、何もそこまで笑うことないじゃないですか!!」
「だから図書室であそこまで笑い抑えるのに必死だったのか…くくっ、」
「ええ!?」
「お前有名人だぞ。図書室の笑い童子ってな」
「!?」
初耳。初耳だぞ。
しかも笑っているのは…まぁ、30%くらいは本のお陰だとしても、残り70%は会長様の声が聞こえた時の嬉しさとか、妄想とかだぞ!!そうは思っても会長様は笑うのをやめてくれない。そして笑い声はやっぱり美麗。惚れる。……じゃなくて!!
「は、花も恥じらう女子高生になんて事を……!!」
「お前、花より団子って感じだろ」
「え?ええ。当然食べ物のほうが……ってそんな話じゃなくて!!」
もう耐えられないと言う風に笑う会長様に、私はただただ抗議をしたかっただけなんです。でも先輩相手に抗議は無理でした。なんでって?……だって先輩の方が一枚も二枚も上手なうえ、あの声ですよ。声。反論を続けるなんて無理です無理。しかもそうこうしているうちに昼休みが終わっちゃうし。
ジャージは後日返却するということになり、私は自分の制服を抱え教室に戻った。そしてその道すがら会長様とお話が出来るなんて思っていなかったので、遅れてではあるけれど酷く心臓がバクバクいってました。うわああ、辛い。辛い、幸せすぎて辛いよコレ!!やっぱり凄い良い声だった!!!ちょっとイケメン過ぎて別の意味でも辛かったけど、あんな間近で声が聞けて本当に幸せだった。
やっぱり図書委員になっておけばよかったかなぁ、なんて思ってしまったけど、浮かれていた私はこの後私は現実を見ることになる。
うん、そりゃそうだよね。ただのモブ子Aがいきなり他学年のカラーのジャージ、しかも会長様のジャージを着て帰ってきたら友人共から質問攻めの嵐に遭いますよね。余談ですが、この学校のジャージには右肩に名字の刺繍がはいってるんです。
友人たちには「猫にぶつかって雨にぬれたから借りた」と正直に話したけれど納得はしてもらえなかった。何かあるのかとしつこく聞かれた。でもないものはないのだ。その時あったのは、私が会長の声が大好きだという事実だけなのだから。