プロローグ 花の精霊
私はまた、夢を見ていた。
見上げればいつも目に映る、病室の天井。
小さな小さなその白い部屋が、幾度となく見る夢の中の『私』の世界だ。
――いつになったら、ここから出られるのかな。
ああ、『私』はもうとっくに色んなことを諦めていたはずなのに。
時折流れてくる感情に、私は胸が締め付けられて、とても哀しい気持ちになる。
それでも、最期まで『私』は笑顔だった。
どんなに辛い時でも、優しく声をかけて励ましてくれた『私』のお母さん。
言葉数は少ないけど、話をする時はじっと目を見つめてくれた『私』のお父さん。
部活のサッカーでレギュラーになれたから、今度試合を見に来てって、ぎゅっと手を握り締めてきた『私』のやんちゃな弟。
――今までありがとう。ずっとずっと大好きだよ。皆の幸せを願ってる。
『私』はそう呟いた。
それが目の前の愛する家族に届いたかどうか、今でも私にはわからない。
『私』の薄れゆく意識の中に、不意に鮮やかな色が焼きついた。
次にそれを見ることは『私』はもうないだろうに、忘れないでとばかりに追い縋ってくるのは、病室の窓辺に揺れるたくさんの見舞いの花々。
――綺麗だなぁ……。そうだ、もし次に生まれ変わったなら、大好きな花に囲まれて長く幸せに暮らしたいな……。
『私』はそうなった時のことを想像して、とても幸せな気持ちになった。
だから夢を見ていた私も、とても幸せな気持ちになった。
◇
「……ロエ。ねぇ、クロエったら。起きてよ」
少したどたどしい声が聞こえたと思ったら、マシュマロのような柔らかな弾力と指触りが自慢の頬に鈍い痛みが走って、私はゆっくりと目を開けた。
徐々に覚醒を促すその刺激はさほど強くはない。それでもじわりと浮き上がった涙で、視界が滲む。
「いひゃい、にゃにすんにょよ!」
「せっかく遊びに来たのに、クロエがぐーすか寝てるから。涎が垂れて精霊の威厳がまるでなしだぞ?」
「ふえっ!?」
気付けば、寝起きの顔を容赦なく覗きこんでくるあどけない顔の持ち主に、頬を思い切り引っ張られていた。
さながら、スプーンから零れる蜂蜜のように――とまではいかないけど、面白いくらいにみょーんと伸びているらしい。
目の前の悪戯っ子はそこに何度も視線を這わせ、堪え切れないように「ぷっ」と声を漏らすと、さらに破顔した。その様はまるで天使のように愛らしいのだから、タチが悪い。
「あはは、変な顔。これがもしにらめっこ勝負だったら、絶対にクロエの勝ちだ」
「にゃ、にゃによ! そにょ手をはにゃして!」
私が痺れを切らしたことを感じ取ったのか、たまたまなのか――絶対たまたまだと思うけど――、ようやく頬から手が離れた。すかさず口の周りをごしごしと擦って確かめる。
……別に涎なんかついてないじゃない。
ていうか、女の子の寝起きに、あるまじき暴挙じゃない?
じんじんと痛む頬に手をやって、久々に見る友人の無邪気な笑顔を軽く睨み上げた。
「フーゴの嘘つき!」
「そんなことないぞ。口がにやにやしてたし、そのうち涎は出てたはずだぞ。どうせまた、花の蜜でも食べてる夢を見てたんだろ?」
「違うもん。私を食いしん坊みたいに言わないで!」
私は憮然として抗議した。
いくら私の見た目が食いしん坊のフーゴと同じくらい幼くて、この世界で私以上に花を愛している者がいないからって、いつも花の蜜の夢ばっかり見てると思ったら大間違いだ。あれは三日に一度くらいだ!
だいたい、私の顔のことばっかり言うけど、私を見下ろす今のフーゴの顔のほうがにやにやしている。とんだご挨拶である。
だけど、これ以上は怒らない。
こういう悪戯は、私たちの種族が好むものだから。
私だって、こうして友人が遊びに来てくれた今、隙あらば悪戯したくてうずうずしているのだ。
私は見渡す限りの花園の中でもとりわけ大きな花の中から身を起こすと、まるでシフォン素材のように薄く透け感のある、柔らかな手触りのワンピースの裾を丁寧に払って立ち上がった。
「フーゴ、ナゴナ渓谷からはいつ出て来たの?」
「昨日の朝だ」
「うわぁ、相変わらず早いね。渓谷とここは王国の端と端なのに。さすがは風の精霊ね」
「まあね! オレにかかれば、このグレイス王国を制覇するなんて簡単だぞ」
フーゴはご機嫌で、この二日間の話をする。
フーゴは風の精霊の地・西のナゴナ渓谷を出て、王国最長を誇るミレーヌ川を飛び越え、中央の王都で夜を過ごした。夜のマーケットでちょっと遊んだらしい。
そして朝日が昇りきる前に広大なモネ平原を抜け、東の国境を覆うように鬱蒼と茂る〝緑の深淵〟なる森に入り、国境沿いに聳え立つ大きな砦を目指す。
その砦は、目的地に辿りつく為の目印だ。なぜなら、精霊のフーゴでも目指す場所の気配は感じづらい。
砦まで近づくとようやく見える、森の奥の特別な場所にそれはあるのだ。
花の精霊の地・楽園フラウディア。
私の住処。
――そう、私は、花の精霊・クロエだ。
「ふうん、いっつも色んなところに寄り道してるのに、珍しいこともあるのね」
「王都であることを聞いたんだ。それで心配になって早く来た」
「何を聞いたの?」
「この王国の人間たち、隣の国とずーっと戦争してるだろ。えっと、たしか……」
「百年戦争?」
「そうそう、それ。聞いた話だと『東の国境沿いの砦で近々大きな作戦がある』っていうんだ」
フーゴはふるふると身体を揺らした。それにあわせて、周囲に小波のような風が巻き起こる。
近くの花に断りを入れて花びらを一枚もらうと、それをフーゴに手渡した。
「怖いの?」
「怖くないぞ。だけど、さっき砦のほうを見てきたら、人間がたくさんいた」
簀巻きのように花びらを身体に巻きつけたフーゴに、思わずくすりと笑う。
やっぱり、怖がってるみたいだ。見た目通り感情も幼いフーゴの背中を優しく撫でた。
「大丈夫よ。精霊の地は聖域だもの。人間には壊せないわ」
「だけど、だけど、もしここが狙われたりしたら?」
「フーゴも知ってるはずでしょ。人間は私たちのことが見えない。人間同士の争いに、精霊である私たちが巻き込まれる道理はないわ」
「どうり?」
フーゴは瞳をきょとんとさせる。
いけない、小難しいことを口走ってしまった。
フーゴを安心させるためにお姉さんのように接しようと思ったら、ついつい精神的にオトナな『私』の思考を真似してしまったらしい。
オトナといっても、『私』はたった十七年くらい生きただけだけど。
それでも比べてみれば、今の私は見た目も子どものそれだし、精神的にも体力的にも幼い精霊だった。
自分で言うのもなんだけど、ミツバチと一緒に飛び回ったり、森の小さな動物たちとかくれんぼをするのが何より好きで、遊んで疲れきったらお昼寝してしまう。
その上、夜想草――夜にだけ咲く不思議な花のことだ――の蕾が開くところを見たくていつも頑張ってるのに、夜更かしが出来ずにこれまた寝てしまうのだ。
私は、うーんと考えてから、フーゴに答えた。
「えっとね……。つまり、ここは狙われないから安心していいの」
「そっかぁ」
フーゴはやっと、柔らかな微笑を浮かべた。つられて私も微笑む。
私たちは話が終わると、私のお気に入りの花の上で飛び跳ねて、フーゴの風に乗ってくるくる回るダンスをして、日が沈むまではしゃぎ続けた。
「じゃあ、オレ、そろそろ行くぞ」
「うん。また遊びに来てね。ちなみに、これからどこ行くの?」
「南に下って、湖のほう」
「じゃあ、水の精霊に会うのね!」
私は瞳を輝かせた。
南にある七つの湖は、水の精霊の地。
地底で繋がっているそれらの湖の主として、深い水底の神殿に精霊は住んでいるらしい。
フーゴ以外、私はどの精霊にも会ったことはないけど、話を聞く分にはとっても優しいお姉さまなんだそうだ。一度でいいから会ってみたいなぁ。
そうだ、と私は手を叩き、足元の花々からお目当ての花を選び出した。
花びらを傷つけないように、器用に茎を編んでいく。
「これ、渡してくれるかしら」
「花冠か。可愛いな」
フーゴに手渡したのは、シロツメクサに似た花でできた冠。我ながら力作だ。
あ、でも水の神殿って水底にあるんだよね。
もしかして辿り着くまでに濡れちゃうのかな。
恐る恐る尋ねると、フーゴは笑って首を横に振った。よかった。
◇
月の光を浴びて、私はうとうととしていた。
やっぱり今夜も、夜更かしは無理みたいだ。
何度も下りてくる瞼と格闘しながら、月を見上げる。
今宵の月は、なんだか燃えるように赤い。
大丈夫かな。私は少しだけ不安になった。
淡い月の光が差す、うんとうんと真夜中に、夜想草は花開く。
だけど、赤い光で咲くのかな。
仲良しの生き物たちは、みんな寝床にいる時間だ。
だから、夜想草が花開くときのことを知らない。
それに、夜想草は単に夜になれば咲くわけではなく、特別な条件があるようだった。
一度本人達に尋ねたけど、まるで謎かけを楽しむようにざわめくばかりで教えてくれずにいる。
「けどなぁ」
私は口を尖らせた。
他の誰かに聞こうにも、フラウディアに住む精霊は私一人なのだ。
この世界では、司る属性につき精霊は一人だけ。
精霊たちはそれぞれが聖域を持ち、そこから世界へ向けて精霊の加護を行き渡らせている。
私も、他の精霊たちと同じように、花で満ち溢れたこの場所を守りながら精霊の加護を与え、世界に花を咲かせ続けているのだ。
「また明日挑戦しよう。……うん、大丈夫。明日も私は元気だから」
小さく欠伸しながら夜想草の白い蕾に触れると、また明日の夜ね、と彼らがざわめいた。
もう一度頷く。うん、大丈夫。
私は前世で確かに『私』だった。
でも、今は病気で余命僅かでもなければ、人間でもない。
私は、明日の約束ができる。
――私は精霊に生まれ変わったから。
その事実に、もちろん最初はびっくりした。
そもそも目覚めたばかりの時は精霊だなんて思わなかったし、フーゴが突然やってきて色んなことを教えてくれるまで、私は自分が何者かすらわかっていなかったのだ。
あの日。
短い生を終え、静かに目を閉じた『私』。
次に目を開けた時、文字通り私は花に囲まれ――もとい、埋もれていた。
勢いよく起き上がってから、はっきりと異変に気付く。
私の身体と同じくらい大きな花々が、あたり一面に咲き誇っていた。
なんとなしに広げた手のひらは、血色がよく、柔らかく、小さい。
身じろぎすると、腰の辺りまでゆるく流れ落ちていた髪が蜂蜜色に輝いた。
触れたそれは絹のように滑らかで、綿菓子のように軽い。
私は目覚めてすぐにもかかわらず、自分の身に起きたこの不思議な現実をすんなりと受け入れていた。
だって、誰かがあのときの願いを叶えようとしてくれたんだって、思えたから。
微かに感じる、胸を刺す小さな痛みは、『私』が残してきた大切な人たちとの真の離別を示唆しているのだろう。
けれどそれは長く疼くこともなく、棘が抜けるようにしてゆっくりと消えていく。
優しい別れの挨拶のように。消えゆく痛みすらも愛しく、離し難いと思えるほどに。
胸の疼きがなくなってから立ち上がると、不意に背中がむず痒くなった。
同時に、足元がふわりと浮く。
慌てて身体を捩って見てみれば、背中に小さく光る透明な羽が生えていた。
それがパタパタと小刻みに動いている。……人間じゃない。
思わず、吐息とともに笑ってしまった。
誰かさんは、ちょっと私の想像の斜め上をいく働きをしてくれたらしい。――だけど。
「ありがとう、誰かさん。私、きっと幸せになるわ」
クロエとして生を受けたその日、私の産声はそれだった。
精霊の産声というものがどんなものなのかはわからなかったけれど、私は最早、自分が人間ではないことなどどうでもいいと思ったのだ。
次話からあらすじ通り始まります。