5-1
処刑の日は、静かに訪れた。
その日はイデにとって己の命運を分ける重要な日であったが、それでも太陽はいつもの通りのぼり、光を撒き散らす。何も変わらないのだ。自然という大きな存在の前では、イデの命などちっぽけなもので、イデが死の間際まで追い込まれていようと、自然は何の興味も示してはくれない。
それでも、イデは静かだと思った。そして、清らかだと思った。お世辞にも清潔とは言えず、すえた匂いが充満している牢の中にあっても、空気が清浄であるように感じた。
ああ、生きている。
自らの心が、喜びに打ち震えているのが分かった。生きている。ただそれだけのことが何よりも喜ばしい。これからイデは断頭台に登らなくてはならないというのに。恐怖というものは、一片も沸き起こってはこなかった。
「時間だ」
短い言葉と共に、鉄格子の戸が開かれた。そして数人の役人とオーダーが牢の中へと入ってくる。そのうちのひとりが、イデの左手首を背に回し、胴体と一緒に縄で縛った。
「立て」
縄を引かれ、イデは立ち上がる。
これから向かうのは処刑の場ではない。戦いの場だ。イデは死ぬつもりなど毛頭ない。イデが考えるのは、この場をどうやって切り抜けるか、それだけである。敵はオーダー、衛兵、役人、紅の十三使徒、それから民衆だ。周りを取り囲む者すべてが敵となる。
じめじめとした牢を後にし、やはり石で出来た通路を行く。この先に、外へと向かう上りの階段があり、それを登りきると外に出る。その階段の一番下の段に足をかけ、イデを待っている者がいた。ミゼルである。
「来なかったわね」
ミゼルはいつもの笑みを浮かべた表情で、役人やオーダーたちの存在をまるっきり無視し、イデへと声をかけてきた。「何を」とも「誰が」とも言わない。だが言わなくとも、ミゼルが何を言いたいのかは分かる。セージのことだ。
「来るさ」
ミゼルの目をしっかりと見て、イデは言い切った。セージはドリィだ。主人であるイデが「助けに来い」と命じた以上、何があろうとも助けには来る。だがもしセージがドリィでなかったとしても、きっと助けに来るだろう。イデにはそんな確信があった。
「ずいぶんと余裕たっぷりね。安心したわ。あなたが怯えているんじゃないかって思っていたから」
「本当に俺が怯えているとでも?」
「……そうね、あなたは理想しか見ない人だもの。きっと自分が助かるイメージしか頭にないのでしょう?」
「当たり前だ。俺はこんなところで死んだりしない」
イデはきっぱりと言うが、この言葉を周りの者たちが黙って見過ごすわけがない。
「貴様っ!」
イデをいましめる縄を持ったオーダーが、イデを殴ろうと手を振り上げる。イデはその手の動きを、軽蔑のこもった眼差しで見つめた。囚人は無条件にいたぶって良いものだ、などというふざけた考えを行動で示そうとしている男に、払う敬意など持ち合わせてはいないからだ。
しかしオーダーの振り上げた拳は、イデに届くことはなかった。ミゼルがその手首をつかんで止めたのだ。
「やめなさい」
珍しく厳しい声。
「彼を傷つけることは許さないわ」
ミゼルににらまれたオーダーは、しぶしぶと拳を下ろす。それから顎を振って先へ行くよう示したミゼルに従って、彼女の脇を通り、階段を登っていく。
縄を引っ張られて、イデも階段を登っていった。
「楽しみにしてるわ」
背後からミゼルが言った。やはり「何を」とは言わない。けれどイデには分かる。イデがどのようにして処刑を逃れるのか、それをミゼルは見たいのであろう。
イデを処断したいのか、それとも助けたいのか。やはりミゼルの心根は分からない。
階段を登っていくと、役人の頭越しに外への出口が見えてきた。その出口からは、四角に切り取られたかのような空がのぞいている。
空は、うんざりするほどに晴れていた。
晴れた空は嫌いだ。何故嫌いであるのか、それを考えたことはないが、無遠慮に突き刺さる光がときどき無性に鬱陶しくなる。
シン・トゥールは全身を惜しみなくさらけだした太陽を仰ぎ、そのまぶしさに目を細めた。普段ならば絶対にしない行動であっただろうが、今のシンは軽い興奮状態にあった。
血が騒ぐ。ぞわり、ぞわり、と全身が脈打っている。
シンが今いるのは、中央都にある大広場。そこにしつらえられた舞台の上である。シンと同じ舞台の上には、どっしりとした断頭台が設置されていた。
この舞台から少し離れた場所に、もうひとつの舞台がある。そちらには断頭台の代わりに豪奢な椅子が置かれ、そこに腰をすえているのはこの国を統べる男である。
けれどシンはその男にも、見るからに高価そうな椅子にも興味を覚えず、そちらに視線を送ることはしなかった。そのふたつの舞台を取り囲むのは、どこぞから群がってきた有象無象ども。群集は、疎ましいほどのざわめきと熱気を生み出していた。
シンは断頭台の鈍く光る刃へと目を移した。あともう少しすればあの刃が落ち、罪人の首を切り落とすことになる。罪人の首が転げるさまを夢想してみる。そして流れるであろう血の匂いを想像してみる。それだけでシンはさらに逸り立つ。あまり誉められた趣味ではないことは自覚していた。だがシンはそのことで自分を諌めようと思ったことはない。
そして何よりもシンを駆り立てるのは、二週間ほど前に戦った大柄なドリィの存在。
今日、首を切られる罪人は、あのドリィの主人だ。ならばドリィである奴は、必ずこの場に現れる。現れたなら、奴をしとめるのは自分だとシンは考えていた。今度ばかりはミゼルにも邪魔はさせない。
ミゼルがオーダーに入ってから四年、紅の十三使徒に任命されてからは一年が経つ。その間、幾度となく、あの女には苦い思いを味わわされた。いつもいつも途中からしゃしゃり出てきては、シンの獲物を横取りしていく。
二週間前のあの時もそうだった。シンの獲物であったあの大柄なドリィの背中を刺し貫いた。珍しくそのミゼルの一撃は急所を外れ、大柄なドリィは九死に一生を得たようだったが、今日はそうはいかない。もうすぐあのドリィは倒される。そしてそれを成すのは、ミゼルではなく、自分だ。
早く来い。早く――
シンは心の中で、呪文のようにそれだけを唱え続けていた。
大丈夫、大丈夫、きっと上手くいく……。
繰り返し繰り返し、己に暗示をかけるがごとく、そればかりを唱えていた。
初めて訪れた中央都。目に触れるものすべてが珍しく、本当ならばあちこちを見て回りたいところだろうが、今のリリにはそんな余裕すらなかった。
フードつきマントを頭からすっぽりとかぶり、少しでも断頭台へと近づくために人の波をかき分けて行く。
インビジブルはもうすでに断頭台のすぐ近くまで行っているはずだった。アドが言っていた「光学迷彩」とかいうものを使って姿を消し、イデを助け出すために。アドはこうも言っていた。「インビジブルは出来のいいドリィだけれど、唯一の欠点はメモリーの中がほとんど空っぽだってことだ」と。つまり、インビジブルには知識が足りないということらしい。インビジブル単体だけでは、その優れた機能を上手く使えないのだそうだ。
だからこそリリはこうして人ごみにまぎれている。どうすればいいのか、それを上手く判断できないインビジブルに指示を与えるために、声が届く場所にいなければならないのだ。
イデを助け出す算段は、中央都までの道すがらさんざん話し合った。
インビジブルは光学迷彩を使って、あらかじめ断頭台の近くに潜んでおく。イデが断頭台の近くまで来たところで、セージがアドにつけてもらった特別装備「可変式アサルトライフル」で役人たちを狙撃していく。その隙にインビジブルがイデを助け出す……。
リリにはその作戦が良いものなのか分からなかったが、話すセージの表情や口ぶりからして、あまり良いものではなさそうだった。しかし今、リリたちに出来ることを考えて、これしかないとセージは判断したのだろう。
セージは今ここにいない。狙撃のために、もっと見晴らしのいい場所に行っている。
つまり、リリは誰にも頼ることが出来ないのだ。インビジブルに指示を与えるといっても、どんな指示を出せば良いのか、見当もつかない。セージは「イデを無事に救い出すことだけを考えればいい」と言っていた。けれど、リリにはそれが難しい。
これまで、リリは常に誰かに頼ってきた。リリのそばには両親がいたし、友達がいた。特に女の子のリーダー格で何でも器用にこなすナキルに、リリは依存しているところがあった。そのことを今まで自覚したことはなかったが、こうして生まれた村を離れてみて、改めて思い知らされたのだ。
ひとりじゃ何も出来ないということを。不器用で鈍臭い自分を。
でも今回ばかりは誰にも頼れない。自分でしっかりと考えなくてはならない。
リリは震える手で、必死に人をかき分ける。少しでも前へ、前へ。
イデの処刑を見るために集まってきた人の数は、リリの村で行われた公開処刑の比ではなかった。あのタクリ・キサイスの処刑のときも、「この村にこんなにも人がいたのか」と驚かされたが、今日は「中央にはどれだけの人がいるんだ」という驚きがリリの中を占めていた。
人々のざわめきの大きさも違う。ひそひそと囁きあっていたリリの村の人々とは違い、中央都の人々はざわざわと遠慮なく話し合っている。これから始まる祭りを楽しみにしている、そんなふうに見えた。
いざ、事が始まってしまえば、これらの人々がすべて敵になるのだ。不安になるなと言う方が無理だ。
怖い。とてつもなく怖い。それでもやるしかないのだ。
大丈夫、大丈夫、きっと上手くいく……。
そうやって自分を励ましていなければ、のしかかる重圧に耐えられそうもなかった。
六年前、初めて見たイデは、いつも何かに耐えているかのような顔をしていた。眉根に皺を寄せ、唇を噛みしめ、けれど視線だけは前を向いていた。生まれ育った村の中で孤立し、それでも生贄の無意味さを必死に訴える。罵倒されようと、無視されようと、その声を小さくすることはなかった。
セージがその村へとやって来たのは、収穫祭の準備で最も慌しい時期のこと。別に収穫祭を一目見ようと思ったわけではない。訪れた村がたまたま収穫祭の時期を迎えていたというだけのことだ。
その頃のセージは、主人をもたないドリィであった。もともとの主人はセージを作ったクラフトであったが、そのクラフト兼マグスは流行り病であっけなく逝ってしまった。それからというものの、セージはこの国のあちらこちらを旅して回っていたのだ。幸い、メモリーの中には日常生活を送るには充分すぎるほどの情報を有していたから、ひとりでも困ることはなかったし、またドリィだということを見破られたこともなかった。
『どうして誰も分からないんだ!』
悲痛なまでのイデの叫びは、嫌でもセージの耳に届いた。それほどイデは村のあちこちで自らの考えを披露していたのである。
以前の主人からクラフトとしての知識を叩き込まれていたセージには、イデの考えが間違っていないことが良く分かった。だが、それが村人たちに受け入れられないであろうことも分かっていた。昔ながらの風習に馴染みすぎてしまった者には、イデの考えは到底理解出来ないものでしかなかったであろう。
それでもイデは訴え続けた。真剣に話を聞く者が誰一人としていなくとも、怒りに駆られた大人に殴られようとも。
だからこそ、放ってはおけなくなった。
あの儀式の日、紅の十三使徒に右腕を切り落とされ、這いつくばりながらむせび泣くイデ。思えば、イデの涙を見たのは、この時が最初で最後であった。
彼は「力が欲しい」と言った。ひとりでは何も出来ない自分に慟哭していた。
セージは、激しく降る雨の中で泣き濡れる少年を死なせたくないと思った。ドリィである自分が、どうしてそんなことを思ったのか、それは分からない。だがセージの内の何かかが、この少年を死なせてはいけないと強く警告していた。
そして、セージはこの少年を新たな主人にすることに決めた。
メモリーの中にある膨大なデータの中から、この時のことばかりを検索してしまうのは何故だろう。
セージは今、大広場を一望できる三階建ての館、その屋根の上にいる。アドがむりやり取り付けた「可変式アサルトライフル」による狙撃のため、断頭台の場所、役人たちの位置、見晴らしの良さ、それらを考慮して選んだ場所であった。そこで左腕から飛び出した黒い筒を断頭台に向けて構えながら、セージはただ、イデと初めて出会った頃のことを思い返していた。
イデはまだ死んでいない、必ず助け出す、だから思い出に浸るのは早すぎる。そう思いながらも、セージのメモリーは六年前のあの時を抽出してしまうのだ。
もうすぐあの断頭台の近くにイデが姿を見せるだろう。そうしたらセージたちの無謀極まりない戦いが始まる。警備にあたるオーダー、十三使徒、衛兵、王を守る近衛隊、そして断頭台を取り囲む民衆。この状況は、イデとセージが今までに潜り抜けてきた、どの修羅場よりも厳しい。だが、セージの中に「イデを見捨てる」という選択肢は生まれなかった。
その時は、もうすぐそこまで迫っている。
気分が急くような気がする。「焦り」などというものが自分にあるのだろうか。はなはだ疑問ではあるが、それでも今のセージは焦っているのだろう。セージは苛立たしげにひとつ舌打ちをした。
愛しさと共に、なぜか苛立たしさを覚える。
相反するはずの二つの感情がないまぜになり、女の中で渦巻いていた。未だかつて体験したことのない感覚に、女は不安定になっていた。
あの青年を救いたいのか、殺したいのか。
自分でも判然としない。ただひとつ言えるのは、女はあの青年に、かつて愛した人の姿を見ているのだということだ。青年の真っ直ぐ前を見据える揺るぎない瞳は、女のもとから去っていったあの青い瞳を思い出させた。
理想ばかりを見ている、澄んだ瞳――
あの青年も、いずれどうしようもない現実に打ちのめされることになるのだろう。そしてすべてを諦めてしまうのだろう。あの青い瞳の男と同じように。
女は知っていた。理想はしょせん理想でしかないことを。だがあの青年はそのことを少しも分かっていない。
青い瞳の男もそうだった。ご大層な夢を胸に抱き、男はその青い目を抉ってマグスとなった。しかし彼はわずかの間に現実の厳しさに挫け、諦めてしまった。青臭い幻想ばかりを吐き出していた口からは、後向きな言葉しか出てこなくなっていた。
『すまない……。君を迎えに来ると、君と共に過ごすと、そう言ったのに……』
彼はそう言って、すすり泣いていた。
女は、青い瞳の男が語る理想を「馬鹿馬鹿しい」と思いながらも、心のどこかで期待していたのかもしれない。でなければ、男がすべてを諦めてしまったときに感じた絶望に説明がつかない。
そうだ、女もまた夢見ていたのだ。青い目の男がこの世界を変えることを。そして男と過ごす平穏な日々を。
だからこそ男が挫けてしまったとき、女は悲嘆にくれた。そしてもう二度と夢など見ないと誓ったのだ。
女は男のことを忘れ、現実を生きることにした。もう隠れ住むこともやめた。
それから時が過ぎ、女は男が死んだことを耳にする。男はマグスとして捕らえられ、首を切られたと――
誰にも分からなかっただろうけれど、女にだけは分かった。すべてを諦めてしまった男は、生きることさえ諦めてしまったのだと。
『俺はこんなところで死んだりしない』
そういう青年は、いったいどこまで真っ直ぐでいられることだろう。女はあの青年が諦めてしまうところを見たくなかった。あの青年が歪んでしまうことを恐れた。
それでも目が離せないのは何故か。
女はいつもそこで思考を止める。この先に待つ答えを知ることが、……とてつもなく怖かったのだ。