幕間-2
目に映るものすべてが許せなかった。
理不尽な死を姉に強要する者たち。それを甘んじて受け入れようとしている姉。名誉なことだと喜ぶ両親。
馬鹿げている。死ぬことを押し付けたり、それを拒否することすらしなかったり、あまつさえそれを喜ぶなんて。
どうして誰も疑問に思わないのか。この「生贄」などというふざけた慣習を。
しかし、そのことを声高らかに訴えたところで、誰ひとりとして耳を貸そうとする者はいなかった。逆に不審そうに見られたり、「おかしなことを言うな」と怒りを買うだけであった。
どちらが「おかしなこと」なのか。少し考えれば分かりそうなものだ。だが誰も分からない。考えることをしないからだ。
ただ、昔から続いていることだからと、だくだくと続けているに過ぎないのだ。
どう考えても許されることではなかった。その生贄という無意味な儀式が。
だから邪魔をしてやろうと思った。
それで姉が助かるなら、この儀式の無意味さを皆が気づいてくれたら、そう思ったのだ。
だがどうだ。
しとしとと雨が降る中、泥まみれになりながら、ただ呆然と膝立ちをしている自分。
何も変わらないのだ。
自分ひとりだけが、どんなに足掻こうとも。
村人たちは姉を連れて行ってしまった。もう、儀式は終わっているかもしれない。
自分は――
何も出来ない。
「さあ、どうする?」
目の前にいる赤いマントの男がそう言った。
周囲には誰もいない。自分とこの赤いマントの男以外は。
赤いマントの男は中央から派遣されてきた紅の十三使徒だ。
数年前、マグスによって儀式を中断させられる事件があって以来、毎年生贄の儀式にはオーダーや紅の十三使徒が警備に付くことになっていた。それが自分には不幸なことだった。
結局、生贄である姉を先頭とした行列に乱入したけれども、この赤いマントの男ひとりに食い止められてしまったのだ。
赤いマントの男は、剣の先端を自分の鼻先に突きつけている。雨はその勢いを強め、地上に降り注ぎ、自分と男とを濡らしていった。男の赤いマントは、しっとりと水を含んでどす黒くなっていた。
「早く帰ってママに慰めてもらいな。お前のしたことは無駄だったんだ。もう、お前の姉さんは今頃――」
「うわああああ!」
無我夢中で男に飛び掛っていた。
無駄だと言った。この男は、自分のしたことを無駄だと言った。
姉を助けたいと思った。こんな馬鹿馬鹿しい慣習を無くしたいと思った。
――それが、無駄だというのか。
しかし、男は顔色一つ変えない。
響くのは、ざしゅっ、という不可解な音と、降りしきる雨を切り裂くような悲鳴。
その悲鳴が、自分の口から出たものであることに、しばらく気づくことが出来なかった。
気がつくと、自分は右腕をおさえてうずくまっていた。いや、右腕のあった場所をおさえて――
あるべきところに、あるべきものがなかった。何か赤いものが滴り落ちていた。焼け付くような痛みに頭が真っ白になり、ただただ馬鹿みたいに意味不明な言葉を叫んでいた。
赤いマントの男が持つ剣についた赤いものが、雨で洗われていく。その剣の下に、さっきまで自分の右腕に繋がっていたものが落ちていた。
物体だ。ただの物体。もう自分の意志で動かすことが出来ないそれは、ただの物体になった。それは確かに自分の一部であったはずなのに。
どんどん赤いものが自分の中から流出していく。今までに見たこともないくらい、大量の赤が。
人はその赤を多く失うと、死んでしまうという。
自分は――死ぬのだろうか。
「弱いな。弱い奴を斬っても、面白くとも何ともない」
男が言う。
「助けてやろうか?」
更に男が言う。
「命乞いをしてみろよ」
男は、笑った。
「『死にたくありません。助けて下さい、お願いします』そう言って、頭を下げれば助けてやってもいいぞ」
自分は雨でぐちゃぐちゃになった地面の上でうずくまりながら、男を見上げるだけだ。
右腕が痛い。気が狂いそうになるほど痛い。
死ぬ――死んでしまう。
もう姉は死んでしまっただろう。自分も後を追うのか?
このまま、こんなくだらない慣習のせいで。
ここで自分が死んだら、また数年後にひとりの少女が無意味に死んでいくのだろう。いや、ひとりではない。この国のあちこちで、何人もの少女が死んでいくのだ。
自分ひとりが生き残ったところで、それは変わらないだろう。だが、このままで引き下がることは出来ない。
姉を救えなかった。しかし、このまま諦めなければ、別の少女を救うことが出来るかもしれない。今の自分には出来なかったが、一年後の自分には出来るかもしれない。二年後の自分なら、五年後の自分なら……。
だから、自分は生を選んだ。
「死にたく……ありません。助けて、ください」
這いつくばり、泥の中に顔を突っ込むようにして頭を下げた。この行為は、今まで生きてきた中で、一番の屈辱であった。これからもこれより屈辱的なことはないだろう。
「『お願いします』は?」
男が自分の頭の上に足を乗せた。そのまま踏みつけてくる。口の中に泥が入った。
「……お願い……します……」
泥を食むようにして口を動かし、何とかその言葉をしぼり出した。
惨めだった。雨に打たれ、泥と赤にまみれ、這いつくばりながら命乞いをしている。今の自分は、この世界の誰よりも惨めであろうと思った。
口から嗚咽か漏れる。いつの間にか泣いていた。
男が自分の頭から足をどけた。顔を上げてみると、男はこちらに背を向けていた。そのまま歩み去って行く。もう、こちらに興味などないのだろう。ここに自分という存在があることすら忘れてしまったかのようだ。
ますます惨めになって、すすり泣く。
せっかく助かったのに、このまま体から流れ出る赤を放っておけば、どっちみち死んでしまう。泣いている暇などないのだ。
それでも、涙は止まらなかった。
ひとりでは何も出来ない自分。姉を助けることも、儀式を壊すことも、自分自身を守ることすら、まともに出来ない。
ひとりでは――。
ふと、気がつくと、すぐ傍に男が立っていた。
あの赤いマントの男ではない。どこか悲しげな顔をした、大柄な男だ。
男は、こちらへ手を差し伸べてくる。
この瞬間、イデはひとりではなくなった。