表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

仮作 eyes

作者: 久住祐治

文章に「あれ、見覚えあるかな」と思った方。

漆黒のシャルノスと言うゲームをやっているとそうなるかもしれません。

あの文章、私の目標なのです。

ちょっとあれと展開が似るかも……? 現代魔眼異能バトルモノになる予定ですが。

 冷たい雨だった。

 始めはぽつりぽつりと気まぐれに落ちてきていた雨粒は、一時を境に、まるで集団心理によって群れる人のように降り注いでくる。

 そこに個々の意思はなく、ただその空気によって押し流されるだけに過ぎない。

 その結果生み出されるものは、決して個々の意思によって獲得されたものではないというのに、彼らはまるでそれが本望と言うように流され続ける。

 ざあざあと降り続く雨を退屈気に眺めながら、俺はそんなことを考えていた。雨に、意思などないというのに。

 雨を眺めるのにも飽きて、ふと手元にあったメニューを見る。『アイスココア』という表記が目に入った。


「すいません。アイスココア一つ」


 近くを通りかかった店員を呼び止めて注文してみると、一瞬戸惑いながらも何とか笑顔を取り繕って一礼し、カウンターまで戻っていく。

 客に対してどういう態度か、と思わないでもないが、むしろおかしいのはこっちだろう。お世辞にもこの喫茶店の暖房は効いているとは言いがたく、全面ガラス張りの窓際の席に座っている俺の体には外の冷気がひしひしと伝わってくる。

 こんな中でアイスココアなぞ頼む俺は、なるほどどうかしているのかもしれなかった。

 少しして、先ほどの店員が愛想よく盆に乗せられたココアを運んでくる。

 温かい飲み物を頼んでいたなら、すぐにでもそれを受け取って冷え切った指先を暖めるところだが、如何せんコイツはアイス。しかもご丁寧にガラスのコップに入って運ばれてきたため、うかつに手に取ることもできそうになかった。

 どうしてこんなものを頼んでしまったのかもわからないまま、とりあえず伝票を受け取って店員が去るのを見届ける。

 それからふと窓の外を見る。

 そこには、さっきまでとはまるで違う、凄惨な風景が広がっていた。

 向かいのスーパー──夕飯時だった。きっと相当な人がいただろう──に四トントラックが真正面から突っ込んでいた。雨のせいもあって路面はことさら滑りやすいから、きっとそのせいか。

 周りが騒然となる中、俺は一人それを眺め続けていた。

 雨の中、子どもがいなくなったと慟哭する母親の声がこちらまで響く。

 その悲痛な声は、周囲の人たちの内の数人の目を伏せさせる。果たして、それは彼らの意思だったのか、彼女の意思だったのか。

 運転手はきっと即死だろう、運転席に鉄骨が突き刺さっている。

 おそらくあの店の骨組みの一部が、壊れた拍子に外れ、突き刺さったのだろう。だが彼、もしくは彼女は幸運かもしれない。

 死ねば長く続く苦痛から逃れられる。少なくとも、手足をもがれる痛みや、臓器を抉り出さなければならないような苦痛からは。

 俺は能面のような笑みを顔に貼り付けたまま、ごくりとアイスココアを喉に落とす。

 ぬるりとぬめるような感触とともに、舌から脳へと甘みが伝播し、同時に微かにざらりと舌の上に残ったココアの粉末が自己主張していた。

 安物だな、とあたりをつけて、それから一息にそれを飲み干した。

 こちらからは丁度伝票に書かれた数字が見えている。二八〇円、安物に支払うにはやや高めのそれを見てから、ポケットに手を突っ込んで小銭を取り出す。

 前に頼んでいた物と合わせて、丁度一〇円足りないことに気づき、僅かに眉を潜める。


「……参ったな」


 呟いて思案した。これではただ食いだ、間違いなくいちゃもんをつけられる。どうしようかと思って、ふと窓の外を見る。

 火災が起こったのか、遠くから消防車のサイレンの音が聞こえる。これは、使えそうだ。

 音は視界の左から聞こえてくる。そちらに意識を集中させ、流れを変えていく。

 ゆっくりと、だが確実に。路面に溜まった水が、ぬるりと動き出す。


 ──次の瞬間、そこにタイヤを乗せた消防車は、まっすぐに俺のすぐ脇のガラスをぶち破ってこの喫茶店へと突撃してきた。









 私は、全力で逃げていた。

 何からとは言わない、言えない。

 言い表すことの出来ない何かから、もつれそうになる足を必死で動かして逃げていた。

 どうしてこんなことになっているのか、説明しようにも出来ないだろう。

 夕飯の買い物をしようと家を出て、買い物を終えたところで、店の近くの路地で雨に降られながらうずくまる人影を発見し、止せばいいのにひょいひょい近づいていった結果、その人影から溢れ出た何かに終われる羽目になった。

 藤時(ふじとき)優菜(ゆうな)、一生の不覚である。

 そんなくだらないことを口にすることも出来ず、私は必死になって足を動かす。けれど、学校の制服じゃなくてよかったと、ふと思った。

 私の通っている高校の制服は、スカート丈が長い。普通に履けば間違いなく足首あたりまで覆い隠してしまうくらいの長さで、吊り下げればカーテンになるんじゃないかというぐらいのもの。

 そんなに長いから、走るときなんかはとても困る。だから、今はふらりと出かけるからと言って部屋着の短パンTシャツ姿がとてもありがたかった。

 けれど、それでも私の足であれらからは逃げ切れそうにない。

 ガシャガシャと足音がする、金属質な、硬く鋭い刃物を打ちつけるような音。

 その音を頭の後ろで聞きながら、とにかく走る。

 コンクリートの出っ張りに足を引っ掛けそうになりながら、それでも走る。

 足を止めれば、必ず私は死んでしまう。そんな奇妙な、予感じみた確信を抱いた胸が、どんどんと苦しくなっていく。

 普段の私の走りは早い方だった。クラスの中でも一〇位以内には入れるくらいの速さはあったし、体力もある。

 だけど、何か得体の知れないものに追われると言うこの異常な事態に体が反応し切れていないのか、視界は霞み、息はあっと言う間に切れ掛かっていた。


「はぁっ……はぁっ……!」


 荒く息を吐きながら、それでも私は逃げる。

 逃げなければいけない。

 幼い頃に聞いた、お化けの話。暗い夜道に一人でいると、お化けが出てきて子供を攫っていってしまう。

 私がまだ四つか五つの頃だ。連続誘拐事件が世を賑わせていたあの頃、私が母からよくそう脅されていた。

 だから私はその頃は暗闇が苦手になっていたけれど、こうして大人とは言えなくてもきちんと分別つく一七歳になった私は、それが事件に巻き込まれないようにする躾だったのだと理解している。

 けれど、なぜか今の状況は、それとよく似ていた。

 私の後ろを走る、そう、お化けのようなそれは、酷く機械めいた音を鳴らしてなおも私を追ってきている。

 必死で足を動かしとにかく走る。

 角を曲がり、細い路地をとにかく走っていく。

 小さな頃から住んでいるこの街だからこそ、私は言い知れない不快感と嫌悪感と、そして違和感を抱いていた。

 走っても走っても、終わりが見えない。そんなこと、ありえないはずなのに。


『■■■■■■─────ッッ!!』

「ひっ……!?」


 唐突に後ろから聞こえた声は、声ではなく咆哮に近いものだった。

 人から発せられるものでは決してない、ありえない咆哮。それは、どこか機械めいているように聞こえた。

 けれど、そんなことに意識を割く暇などなかった。

 がシャン、ガシャンガシャンガシャンガシャン。音が近づいてくる。

 どんどん迫る、鋭い剣先をアスファルトに叩きつける様な音。気づけば、私は息をすることも忘れて必死になって走っていた。

 でも、だめ。だめ、追いつかれてしまう。

 ガシャン、ガシャンと、近づいてくる。どんどん、どんどん。近づいてくる。

 逃げなければ。どこへ? 暗い闇の中、道が見えない、ここはどこだ。

 ──帰る場所が、見えなくなった。


『■■■■──!』


 また聞こえる、船の汽笛のような、それでいて刺々しい、聞くだけで苦しくなるような咆哮。

 けれど、止まれない。足が勝手に動く。

 逃げろと命じるのは、脳ではなく、いつのまにか足に代わっている。そのことに、私はなぜか疑問を抱かなかった。

 苦しい、辛い、なぜ自分がこんなことになっているのか、まるでわからない。

 周囲に明かりはなく、走っている地面ですらあやふやになっている。


「──な、優菜!」


 誰、誰かが私を呼んでいる。誰なの?

 霞がかった頭を必死に呼び起こして、声の主を探そうとする。

 すると、今までそこに停滞し、沈殿していたはずの暗闇が、ゆっくりと競りあがってきた。

 だめ、やめて。

 私はまだ──!









 そこで、はっ、と目が覚めた。

 小鳥のさえずる音が聞こえ、ついでとばかりに頭上から降り注ぐ太陽光。ガラスを通してやってくるそれに意識を半ば無理やり覚醒させられて、現実がどうなっているのかの判別もつかないままに、私の目の前にずい、と顔が近づけられる。

 ええと、そうだ。母親、私のお母さんの顔だった。


「やーっと起きたのね。……それにしても、随分うなされていたみたいだけど」

「うなされ……、私、寝てたの?」

「……調子悪いなら学校休む?」


 気遣わしげな母の声。それで、ようやくさっきまでのことが夢だったのだと自覚した。

 醒めてしまえばなんてことはない、ただの夢だった。

 ……そう納得させるためには、少しばかり私は心の余裕と時間と、材料が足らなかった。まるでさっきまで走っていたかのように汗が吹き出て、呼吸も荒い。

 けれど、母に心配をかけまいと、私は無理に笑顔をつくってみる。


「だ、大丈夫よ! 平気平気! ほら、体もなんともないから!」

「無理だけはしないようにね。朝ごはんできてるから、着替えて降りてらっしゃい」

「は、はぁーい!」


 バタン、と扉が閉まる。

 それを合図に、私はぼふっと枕に後頭部を押し付けた。

 うまく笑えただろうか、心配をかけてしまっているだろうな。そう思って、それから何とかベッドから這いずるようにして床に体を投げ出す。ひんやりとしたフローリングが、夢の感触を忘れさせてくれることを祈ったが、どうやらそんなことはなかったようだった。

 ふと、目線を横に向ける。ベッドの下にある、小さな空間。

 何かがいるような、そんな妄想を抱いてしまう。でも、そう、妄想だからこそ。


「っ……!」


 そこに生まれていた闇を見た途端、私は咄嗟に身を翻して尻餅をついたように後ずさる。

 自分でも驚くほどすばやく動いたせいなのか、ドン、と部屋の片面を占めている本棚に背中をぶつけてしまった。


「あ痛っ」


 ドンッ、と降って来た本の角が頭に当たる。手にとって見ると、昔に買って余り手をつけなかった小説だった。文庫本サイズで二〇〇ページ足らずの、言わばライトノベルと言うものだった。

 立ち上がってそれを棚に押し戻すと、寝汗でぐっしょりと濡れたパジャマを脱いでブラジャーを着けると、制服を身に纏う。スカートを履いたとき、ふとさっきまで見ていた夢の一部が鮮明に思い出される。


「……夢、だったのよ」


 自分でわかっているくせに、そう言い聞かせる。自分でそう思えていないから、ことさら強く。

 夢だったはずなのに、その恐怖も嫌悪感も、まだ胸の中に残っていた。

 ブレザーにスカートという制服を身に着け、学校指定の革の鞄を持って部屋から出ると、洗面所で顔を洗ってからリビングへ。

 トーストの焼けたいい匂いが、リビングの入り口まで漂ってきて、それでなんとか頭の中の恐怖を振り払う。


「おはよ、お母さん、お父さん」

「おはよう」

「ああ、おはよう」

「ほら、早く朝ご飯食べちゃいなさい」


 栗色のふわりとした髪のお母さん、私の大好きな優しい人。辛いときにはいつも励ましてくれて、いつも優しい。もちろん怒るときもあるけど、それだって私が悪いときだけだから、大して苦じゃない。

 背は私より少し高いくらい、化粧もしていないのにとても若く見えるのがすごく不思議だった。

 それから、真っ黒な髪のお父さん。いつも新聞を読んでいるけど、お酒やタバコはほとんどやらない健康志向。あまり喋らないけど、私もお母さんも、お父さんが優しいことは知っているから、特にその辺りは関係ない。


「いただきます」


 席について手を合わせる。

 トーストを齧りながら朝のニュースを眺めていると、トラックがスーパーに突っ込んで、それに駆けつけた消防車がハンドルミスで向かいの喫茶店に突っ込んでくるという事件が報じられていた。

 この事件が起きたのは、丁度昨日の昼間。雨が降っているときにこんなニュースを流されると、さすがに憂鬱な気分になるな、と愚痴を零していた頃のことだったはずだ。


「やな事件ねぇ」


 私の隣のお母さんの呟きに、コーヒーを飲みながら新聞を眺めていたお父さんが無言で頷いた。

 見ていて気持ちのいいニュースではなかったので、早々に食事を済ませると食器を水が張られた桶に漬ける。

 時間は七時一五分、私が登校する時間は七時だったから、今日は少し遅めだ。あの悪夢のせいで。


「っと、行って来ます」

「行ってらっしゃい。車には気をつけてね」

「はーい」


 わざと声を明るく張って、それから家を出る。

 私の家は閑静な住宅街、からちょっと離れた場所にある。交通の便はちょっと悪いけれど、その分自然が多い良い場所だ。

 ここから学校までは歩いて一五分程度、その道を、今日も変わらず私は歩いていく。

 変わることなんて、なくていい。あの悪夢を見た後の私はどこかそんな感傷的な雰囲気になっていたのかもしれない。

 夢だったのに、異様なまでの現実感を伴って押し寄せる恐怖。それは、夢と現の境界線が侵されてしまう原始的な恐怖だったのだろうか。

 そんなことを考えていても、恐怖は一向に薄れてくれない。

 救いなのは、あの独特の歩行音、剣先を突き立てるようなあの鋭い音が、日常には存在していないことか。

 夢なんてすぐに忘れてしまうものなのに、私はとりとめもなくずっとそのことを考えながら、学校までの一五分間を過ごしていた。









 私の通う高校は、結構な大きさだった。

 灰色の校舎が空に迫らんとそびえ立ち、初めて見たときには息苦しさすら覚えたそれも、二年目の半ばとなった今では安心感さえ齎してくれる、大樹のような存在に見えた。

 そんな灰色の校舎の校門を潜り、やや高い天井の昇降口で靴を履き替えると、つま先で床を叩いてから校内の階段を上っていく。

 とんとん、とんとん、と。

 リズムに乗るような、ビニル床をゴムの靴底が叩く音が響く。ゆっくりとリズムが早まっていくにつれて、私の鼓動もまた、ゆっくりと早まっていた。

 思い出してしまう、否が応でも。脳にべったりと塗りたくられた悪夢の色は、まるで落ちてくれなかった。


「ゆーなーっ!」

「きゃっ!?」


 どんよりと顔を曇らせていたところで、ドン、と衝撃が走る。

 何事かと後ろを振り向こうとして、その顔が目に入った。

 小柄な顔に、くりっとした大きな目。それがどうにも可愛らしくて、私は恐怖も忘れてその顔に見入ってしまう。

 

「どうしたの、優菜? 何かついてる?」

「え? あ、ああ、うん、なんでもないのよ」


 こてん、と首をかしげて聞いてくる愛すべき友人に、慌ててそんな言葉を返す。

 うまく笑えているだろうか、そんな不安を掻き消すように、私は彼女よりも先に挨拶することにした。


「おはよう、美百合」

「うん、おはよう優菜!」


 髪を両サイドで結び、長く垂らしたそれをふわふわと揺らしている彼女の名は、葉織(はおり)美百合(みゆり)

 私と同じ一七歳なのに、その背は私よりも頭一つ分低い。

 私のクラスではマスコット的な存在で、彼女がいるだけで場が和むと言われるほどだ。

 そんな彼女と共に教室に入ると、窓際の自席に腰を下ろす。朝の光が窓から差し込んできて、それだけで悪夢の面影が消えてくれるような気すらした。

 しただけで、消えてくれるわけではなかったのは、非常に落胆すべきことだったが。


「それにしても、どうしたの? 優菜。さっきから元気ないねー?」

「ああ、その、ちょっと嫌な夢を見て……ね。少ししたら元に戻るから、心配しないで」


 可愛らしい我が友は非常に私の身を案じてくれているが、残念なことにこれは精神的なもので、肉体は非常に健康そのものだった。だから、そう、そう言うしかなくて。

 幸いなことにか、それとも不幸なことになのか、今日は丁度二学期の終わりの方だった。

 試験は先週終わり、今日からはテストが返却される。すでに二学期の分の学習内容は履修済みなので、後は全て半日で帰宅できる。

 ただ、私にとってそれは幸か不幸か、どちらなのかわからなかった。

 友人たちにこの落ち込んだ姿を見せて心配させないで済むのは幸い、独りになってあの恐怖と戦わなければならないのが不幸。どちらにしても辛い思いをするのは間違いない。


「起立、礼、着席」


 どうしようと考えている間に、朝のホームルームが終わってしまった。

 どうやら始まる時は無意識に動いていたようだと気づくと、いい加減意識を切り替えなければまずいということを実感してしまった。

 

「優菜っ」

「なに、美百合?」


 話しかけてきたのは美百合だった。

 私の席の目の前が美百合の席で、いつも彼女は授業中に眠りこけては先生に叱られている。

 けれど、その様子もなんだか可愛らしくて、どうしても先生たちも真面目に怒ることができないでいるのだ。

 そのくせ、彼女は自分のその可愛らしさをまったく信じていないから、時々「先生たちは不真面目よね」なんて、自分のことを棚にあげて話したりもする。

 

「今日、放課後遊ばない?」

「え?」


 そのお誘いに思わずそんな声を返してしまう。

 酷く失礼だとは思ったが、思い返してもそんな反応以外はできそうにない精神状態だった。

 けれど、美百合は不快そうに眉を顰めることもなく、優しげにもう一度、あくまで明るく言葉を投げかけてくる。


「だから、今日は午後から放課でしょ? どこかへ遊びに行かない?」

「……ううん、ごめんなさい。せっかくのお誘いだけど、遠慮するわ。今は、ちょっと」

「そっか……」


 私の言葉に、彼女は小さく頷いてくれる。

 深くは聞かず、ただそうしてくれるだけでも、私にはとってもありがたかった。

 と言っても、詳しく聞かせろと言われても、怖い夢を見て怯えているだけです、なんて言葉は信じてもらえるか知らないけれど。

 

「本当にごめんなさい、美百合。また今度、お願いね」

「う、うん! また今度、約束だよ!」

「ええ、約束」


 ぱぁ、と明るくなる美百合の顔。

 そこに灯された笑顔を見ていると、こちらまで暖かくなるような気がしてくる。

 本当に優しくて、明るくて、元気な子。同い年だと言うのに、どこか幼さを残すその面影も、彼女に限ってはとても可愛らしいその顔を引き立てるアクセントになり得ていた。





 それから、時間は過ぎて放課後。


「大丈夫? ほんとに?」

「だから、大丈夫よ。別に体を壊してるわけじゃないから」

「何かあったら、すぐに連絡してね?」


 私の身を案じてくれる美百合を、大丈夫だからと言って先に行かせる。

 心配をかけているということはわかるが、これ以上近くで彼女に心配をかけたくなかった。

 家に帰れば、少しなりとも彼女の気も紛れるだろう。

 そう考えて、私はとにかく校門を出ようと昇降口で靴を履き替える。ふと下から上げた視界に、奇妙なものが映った。

 小さな人影。子供という意味ではなく、文字通り小さな。

 だって、そうだ、せいぜい一五センチ程度しかない人間なんて、いてたまるものか。

 けれど、実際にいる。見えている。校門の近くでふらふらと、まるで酔っ払っているような感じで漂っている。

 何を思ったのか、私の足はいつの間にかその小さなそれを追いかけていた。

 音で気づかれないようにこっそりと、物陰に隠れながら。

 その小さな生き物は、時折木や柵にぶつかりながらもまっすぐ、どこかへ向けて飛んでいるようだった。小さな羽根をひらひらと動かし、りん粉と思しき輝く粉を撒き散らして。

 やがてそれは、近くの自然公園へと入っていく。

 小さな頃はよくここで遊んだことを思い出すと、あの小さな生き物がどこかへ行ってしまうのを見て、慌てて駆け出した。

 自然公園の中でも鬱蒼と茂る林の中に入ってきた私は、あの小さな生き物を見失ってしまった。

 どこへ行ったのだろうと首を動かし、動かした途中で、首が止まる。

 そこに、それがいた。


「ぁ──」


 悲鳴を上げてしまうことはなかった。それ以前に、自分の目が信じられなかった。

 ありえない、そんなものが、あるなんて。そんな言葉が頭の中を飛び交う。

 あの小さな生き物がいた。見るも無残な、首と手をもがれた姿で打ち捨てられていた。

 ぐちゃ、ぐちゃっ、と音が響く。その元凶は、私の目の前にいる。現実感のない、揺らぐ視界の中で、圧倒的な存在感を持って、それはそこにいた。


『■■──?』


 その何かが、がしゃり、と呻いた。

 巨大な蠍のような、漆黒を塗り固めたそれは、作られていないはずの口を租借するように動かす。口があるであろう辺りには何もなく、代わりに左右の鋏にはべっとりと血がついていた。

 喰われたのだ、と悟るまでに、少しかかる。そして、思わず叫びかけた口を必死で手で押さえた。

 いや、なんで、食べられ──?


『■■■■──ッ!』


 ぎょろり、と目が見開かれる。まるで人間のようなその瞳は、咀嚼していた口らしきそこよりも少し上に、左右一つずつ配置されている。

 そして、その目が私を見つめるのと同時に、それは吼えた。

 漂ってくる鉄の臭い。血の臭い。それは、圧倒的なリアルを私に押し付けてくる。

 ガシャン、と、夢で聞いた音が響く。それで、意識が引き戻された。


「逃げ、なきゃ」


 そうだ、逃げろ。逃げろ逃げろ、逃げろ。

 逃げなければ殺される。それを予感させるだけの材料はそろっていて、否定するだけの材料は一つもない。

 だから、逃げなければ。例えそれがどれだけ無駄なことでも、逃げなければいけない。

 無意識のうちに考えて、気づくと私は身を翻して走っていた。

 夢とは違う、すぐに息が苦しくなる。それに、短パンじゃなくて、長いスカート。逃げなければいけないのに前に進めないもどかしさと、距離がどんどん縮まっていく恐怖が、私の中で伝播する。

 ローファーで枝を踏みつけ、必死に走る。交番まで行けばお巡りさんがいる、そうすればきっと。

 そんな私の希望も、いつしか消えていく。私の体は夢と同じようには動いてくれないのに、周囲は夢と変わらず、一向に林を抜ける気配がなかったから。

 

「はぁっ、はぁっ……!」


 それでも走る。私には、あの怪物と退治するだけの力がない。あったとしても、きっとできない。

 怖くて、恐ろしくて、腰が抜けてしまう。必死になって逃げてしまう。

 だから、こうするしかない。逃げるしかないのだ。

 がくがくと震えだすひざに鞭打って、機械にでもなったかのように走る。

 足が痛い、胸が苦しい、頭が霞んでくる。それでも、それでも。


「こ……ない、で……っ!」

『■■■■■■──ッ!』


 夢で見たものと同じ、船の汽笛のような鈍い音。その音で、胸が締め付けられる。

 ぎゅっ、と。気味悪ささえ感じるほどに急激な変化が、私を苛む。けれど、それだけではない。

 がしゃ、が、しゃ、ガシャンガシャンガシャン──!


「ひぃっ……!?」


 急に速度が上がった。

 朦朧としていた意識に不意打ったその音は尚も止まず、刻々と迫ってくる。

 走らなければ、あの小さな生き物と同じ末路を辿ることになる。私の直感がそう告げていた。

 直感なんて曖昧なものに頼るのは、今日が初めてかもしれない。だって、いつだって私が参考にしてきたのは、堅実な生き方のお手本だったから。

 そう思うと、初めてのその行為はいやに心強く感じられた。重かった足が、どこか軽い。

 けれど、けれど。それでもあのおぞましい何かは、どんどんと近づいてくる。


 後一〇メートル──、息が詰まる。腕の震えを、大きく振るうことでごまかしながら走る。


 後五メートル──、木々のざわめきが聞こえない。どうしてだろう、こんなにもささくれ立った空気なのに。


 後三メートル──。そこで、とうとう躓いた。派手な音を鳴らして前へ転ぶ。


 痛い、とても痛い。けれど、私の心は体を急かし、痛みを感じさせないほどに焦らせる。必死で起き上がり、土を払う暇もなくスカートを翻して走ろうとする。

 けれど、ずきりと痛む膝がそれを阻んだ。思わず蹲った私を、大きな影が飲み込む。

 巨大な蠍のようなそれが、私のすぐ後ろまで迫っていた。


『■■──!』


 形容しづらい、もしくはし難い、あるいは、そう、してはいけない声が響く。

 ああ、もう終わりか。そんなことを思う。

 なんてあっけない最後。あれほど頑張ったのに、頑張ったことは評価されないなんて。

 そんなもの、世界の摂理だと言うのに、私は何を思っているんだろう。

 ……世界の摂理、だなんて。笑ってしまう。なんて馬鹿馬鹿しい事を。

 ああ、ほら、あの大きな鋏が近づいてくる。あの小さな生き物と同じ結末に至るための導を近づけてくる。

 ──嫌、だ。ふざけないで、冗談じゃない……!


「存外粘ったな。だが、おかげで準備ができた」


 ──男の声。

 だれ、誰なの? どこから聞こえた?


「褒めてやる、嬢ちゃん」

「だ、れ……?」


 闇に溶け出しそうになる自分の意識を必死で繋ぎ止め、声を紡ぎだす。

 強いタバコの臭い。それと同時に、ざっ、と草を踏みつける音が響いた。

 近くにいる。けれど、それを見ることができない。意識が保てない──。


「俺が誰か? そうだな──」


 朦朧とする意識の中で、彼が言う。

 太く重いアルトで、重厚な音色で、言葉が流れる。


「──ただの、探偵だ」


 ついぞ、その言葉を私が聞くことは叶わず。

 その音を聞き届けたのは、森と化け物だけ。









 まどろむ意識の中に、微かに音が混じる。

 かちゃかちゃと動かすそれは、ティーカップが擦れ合う聞きなれた音。私がよく行っている喫茶店で鳴っている音だった。

 ずきりと、こめかみが痛む。その痛みがまどろんでいた意識を覚醒させて、私の瞼をゆっくりと持ち上げる。


「うっ……」


 ぼんやりと霞む視界に映り込んだのは、金属質な机と食器棚。それと、灰色の革のコートを身に纏った、背の高い男性だった。

 体つきががっしりしているから男だと判断したけれど、もしかすると違うかもしれない。

 私は、なんでここにいるんだろう。確か、学校から帰ろうとして、変な小さい生き物を追いかけて──。


「っ……!」


 そこで思い出す。ぎょろりと私をねめつける一対の目。手と頭がもがれた、小さな生き物。べっとりと血のついた鋏。

 そうだ、あそこで私が見たものは、夢と同じもの。漆黒を塗り固めたような、どこまでも黒く、不安を誘う大きなサソリだった。

 思い出した途端に、体の奥から染み出してくる震え。がちがちと、歯の根が噛み合わない。

 震える体を必死で抱きとめながら、私は何とかこの体を起こす。

 そこで、太い男の声がした。


「起きたか」

「ひっ!?」

「おっと、そう怯えるな。ここは安全で、お前を脅かす者はいない。まあ、俺は怪しいだろうが」


 それは、ペンキを塗りたくったような鮮やかな黒い髪をほうぼうに伸ばした、長身の男性の声だった。

 思い出したことの中にある、一番最後の太い声。それと同じものが、頭の上から聞こえてくる。

 害はないと、なんとなくわかるその声を聞いても、体の震えはなお治まらない。

 はぁ、と彼がため息をつく音が聞こえた。


「参ったな。女の扱いってのは苦手なんだが……。ちょっとまってろ」


 そう言うと、彼は震える私から離れると、机に置かれたアルコールランプのところまで歩いていく。それの上には網に乗せられたビーカーがあった。

 遠目から見てもあまり綺麗とは思えない。

 そのビーカーの中に、冷蔵庫から取り出した飲料水を注ぎ込むと、突然アルコールランプが火をつける。

 えっ、と思った。今、何をしたの。

 触れたわけでもないし、火を近づけたわけでもない。アルコールランプが勝手に発火するなんて、それこそお笑い草だ。

 一昔前に流行ったオカルト、人体発火現象や鬼火、狐火と言ったそれも、今ではすっかり忘れ去られている。それを彷彿とさせるその光景に、私は震えも忘れて見入っていた。

 彼は沸騰した湯の入ったビーカーを素手で鷲掴むと──素手だった。間違いなく素手、何かを嵌めている様子もない──あらかじめ食器から取り出していた無地のマグカップにそれを注ぎ込む。

 いつの間にか入れられていた簡易型のコーヒーパックが、お湯を瞬く間にコーヒーに変えていくのを、私はじっと見つめる。

 その私の視線が、彼の視線と噛み合った。


「あ……」

「ほら、コーヒーだ。落ち着くぞ。ミルクはいるか?」

「えっと……」

「ん?」

「が、ガムシロップも……」

「くくっ、わかった。ちょっと待ってろ」


 恥ずかしい、人に物を頼むのに、どうして私が頬を染めなければならないのだろう。

 でも、彼は私と視線を合わせたことを気にも留めずに、意地悪そうに笑ってから離れていく。それが妙に負けてしまったような気がして、いつしか体の震えなんて忘れていた。


「ほら」

「あ、ありがとう……」


 ガムシロップの入った、大量生産された小さなプラスチックを受け取ると、同じような容器に入ったミルクと一緒にコーヒーに入れ、軽く回してから口に含む。

 量産品特有の甘ったるさが口の中に残るけれど、それがいつもの日常を感じさせてくれて、ようやく私はほっとできた。


「さて、落ち着いたか?」

「え、ええ。あの、貴方は……?」

「俺は花村(はなむら)孝之(たかゆき)、しがない探偵だ。お前さん、名前は?」

「優奈。藤時優奈です」


 花村と名乗った彼は、私の名を聞いて軽く頷く。

探偵という職業を絵にしたような、いわば空想上の探偵のようではあったけれど、とにかく今は頭の中がぐしゃぐしゃで、何をすればいいのかもわからなかった。

 彼は私の向かい側に腰を下ろすと、どこから取り出したのかもわからない缶コーヒーに口をつけながら粗雑に話し出す。


「で、何から話すべきか……。……そうだな、お前さん、アレが見えたんだな?」

「アレ……?」

「あの黒いサソリだよ。だから逃げてたんだろう?」

「あ……、はい」


 その言葉で、もう一度頭の中にあの大きなサソリのような何かが浮かんでくる。

 あれをサソリと言ってしまうのは、明らかにおかしい。だって、あんな大きなサソリなんているはずがないんだから。

 それに、あんな。思い出すのもおぞましいことを。


「あれは、普通の人間には見えない」

「え……?」


 彼の、花村さんの言葉で意識が引き戻される。

 普通の人間には見えないというのは、一体どういうことか。

 夢か幻か、それならどんなに良かったかもわからないのに。彼はそれすら否定する。だって、彼は確かにあの生き物を見据えていたから。


「それが見えたってことは、お前も目を持っているってことだ。だが、あの様子からしてお前がそういった類の人間だとは思えない」

「ま、まって、話が見えない。何を言ってるの……?」

「ああ、すまん。そうだな……、お前は『魔眼』というものを知っているか?」


 唐突に、彼の言葉から現実味が消える。

 魔眼、ライトノベルなんかでよく出てくるあの言葉。現実では存在しない、架空のもの。そんなものが出てきても、なぜだか話に違和感を持てない。

 現実という言葉があやふやになっている。どうしようもなく不安になってしまう。

 だって、だってそうだ、あるはずがない。

 ないはずなのに、彼はそれを本当に当たり前のものとして話し続ける。


「『違う位相の存在を認識できる眼』のことをそう言う。まあ、他にも色々と力があるんだが、置いておくとしよう。とにかく、そう言った存在を見ることのできる眼が『魔眼』と呼ばれる」

「な、何かのゲームかアニメの話?」

「いやいや、違う。そうじゃない。本当のことだ、でなければお前の見たような化け物がいるはずがないだろう?」


 彼の話は、確かに筋が通っている。けれどそれ以前に、越えてはいけない常識の壁を越えてしまっている。

 なのに、私は彼の話を否定できない。否定したら、あの化け物はなんだ、まるでまともじゃない。だから、否定なんてできなかった。

 現実味なんて欠片もない話を、私は現実として聞くしかない。


「でも、私はそんなもの……」

「魔眼は覚醒時期に大きく開きがある。俺も魔眼を持っているが、俺の場合は昔別の仕事をしているときに覚醒した。お前は……、何か普段と違うことはなかったか?」

「……あの化け物に追いかけられる夢を見たの。昨日の夜」


 思い出すだけでも身の毛がよだつ悪夢、それを聞いて、彼は小さく頷いた。


「おそらく、それだな。ただ、お前の魔眼はまだ完全には覚醒していない。覚醒にはまだ二、三日掛かるはずだ」

「それよりも、あの化け物はなんなの? 知ってるんでしょう!?」


 あまりの落ち着きぶりに、私は思わずそう詰め寄っていた。

 化け物に追い回されて、アニメのような話をされて。もう頭の中がパンクしそうになって。

 気付かないうちに涙を浮かべて詰め寄った私を見て、彼は小さく私の頭を押さえた。


「お前が知る必要はない。あいつはもういない」

「私は、あれに襲われたのよ!? 知る権利くらい──!」


 いつの間にか声を荒げていた私は、勢いのままにそこから立ち上がろうとする。

 その瞬間、くらりと視界が揺れ、気づいたときには奇妙な浮遊感と共に私は彼にその体を支えられていた。

 それで気づく、立ち上がろうとして、しかし立ち上がれずに倒れこんでしまったのだと。


「大丈夫か?」

「っ──!」


 抱きとめられた私の目の前に、抱きとめた彼の顔が迫る。

 咄嗟に身を捩ると、私は壁を頼りに彼と向き合うように何とか立ち上がった。

 彼は所在無さげに手を振りながら、困ったように笑う。


「あー、いや、そういうつもりじゃないんだがな……」

「……教えて、あれは何」

「だから、知る必要はないと言ったはずだ。あれに怯えなくても、奴はもういないんだ」

「それでも、自分が襲われた理由くらい知りたい。どうしてあいつは私を襲ったの」


 汗が伝う。こんなにこの部屋は暑かっただろうか。

 それとも、それは彼と相対している私の生み出した錯覚か。

 かちり、かちりと、壁にかけられた丸時計の音が響く。緊張しきった空気に伝播する。

 けれどやがて、その緊張は一気に解かれた。ほかならぬ彼の声で。


「……ったく、これだから押しの強い女ってのは苦手だ、昔っからどうも」


 観念したような、諦めたような、あるいは呆れ?

 ともかく、そんなようなニュアンスで呟いた彼は、どさっとソファーに腰を下ろす。私が眠っていた場所だった。


「あいつは悪魔の類さ。と言っても、お話に出てくるような形を持った奴じゃない、人の思念から形を抽出して、そいつの最も恐れる形に変わる不定形」

「最も恐れる……。じゃあ、あいつがサソリだったのは」

「嬢ちゃんが悪夢に捕らわれ続けていたからだろうな。奴らは魔眼を欲する。夢で覚醒状態に移行した魔眼をかぎつけて、そいつを頂こうって魂胆だったんだろう」


 魔眼を欲する、それはつまり、目を抉り出されて殺されると言うことか。

 尋ねることなんてできなかった。肯定されれば、私は最悪目を抉り出され、四肢をもがれて殺されていたことになる。

 言葉にするだけでおぞましい。想像なんてしたくもなかった。

 顔色が悪くなったのを見て取ったのか、彼はにやりと笑う。人が悪い、探偵と言う職業には似つかわしい笑みだったけれど、私の前でそれを見せてほしくはなかった。


「だが、それももういない。そもそも連中が出てくるなんてそうないことだ。奴らは未覚醒の魔眼使いには、よほど強力じゃなければ触れられないんだからな」

「……じゃあ、また起こらないとも限らないじゃない」

「そうだな。だが起こるとも言えない。だろう?」


 にやりと笑う。

 ほら、また。その笑み、笑い。それが私は、とても嫌いになれそうで。

 溜め息代わりにかちゃり、とカップを手に取ると、コーヒーを飲む。そういえば、うん。忘れていた。

 起きたときに聞こえた、あのカップのこすれる音は一体どうしたんだろう。あれきりぜんぜん聞こえない。


「ねえ、貴方は紅茶は飲むの?」

「いや、飲まないな。なんでだ?」

「ティーカップのこすれる音がしたの。起きたときに」

「空耳じゃないのか?」

「確かに聞こえたのよ」


 そう、聞こえた。確かに聞こえたはずなのに、彼は知らないと言う。

 でも、それならそうなんだろう。確かに目線を動かしてもそこにティーカップらしきものは入ってこない。

 だから、でも。でも、なんだかそうじゃない気もした。聞こえたのに、ないなんて。

 そんなのおかしいと、言い張る自分がいた。


「……まあいいわ」

「じゃ、帰ってくれ。コーヒー代はなしにしといてやる」


 しっしっ、と手で私を追い払うように仕草する彼を、私はまっすぐに見つめる。

 なにごとかと言いたげな、怪訝な表情を浮かべた彼が口を開くより早く。ペースを握られてしまう前に、私は口を開いた。


「もっと教えて」

「は?」

「魔眼のこと。どうして貴方はあそこにいたの」

「……お前、死ぬ気か? 今なら、まだ知らなかったで済ませられる。日常に帰れなくなるぞ」

「心配いらないわ。私、おかしくなりたくないから」


 彼の言葉を、一言で切って捨てる。

 とにかく、今彼と離れるのは得策ではない気がした。理由は知らない、けれど、何かが呼び止める。まだだ、まだ残っているぞ、と。

 聞かなければいけないことが、まだある気がした。

 例えば──、


「──ねえ、どうやって貴方はあの化け物を」


 そう、例えば、化け物の倒し方。

 もし彼が道具であれを退けたなら、あるいは私にもできるかも知れない。そんな、淡い期待。

 

「燃やしたのさ。この眼でな」


 その期待を、貴方は、彼は、いとも容易く断ち切る。

 燃やす、その眼で? 何を燃やすの。誰を、何を。ううん、そうじゃない。

 一体、どうやって?


「どうやってって顔してるな。どれ、一つ見せてやろう。俺の魔眼の力を」


 ちゃちなそれに出てくるような、浮いた台詞。

 現実から剥離したその言葉を、彼は当たり前のように告げて、それから私と彼の中空をぎゅっと睨む。

 睨む、と言うほどではないかもしれない。例えるなら、そう、見つめる、と言う方が近い。でも、どちらも違う。

 そんな曖昧な視線の合わせ方をした、次の瞬間。そこの空気は一瞬で炎へと姿を変えた。


「ぇ……?」

「ははっ、驚いたか?」


 いたずらの成功した、悪ガキの様な笑い。今の炎は、彼の仕業だったのか。

 そう思うと共に安堵する。

 なんだ、普通に笑えるじゃない。その方が、ずっと素敵。自称探偵さん。

 心のうちで思って、それからそれを掻き消した。何を思っているんだろう、自分は。そういう性質じゃないだろうに。

 心の中でぱらぱらと表情を変えながら、彼を見つめる。

 

「これが俺の『炎熱の魔眼』の力さ。見ているところの温度を上昇させる。しかもその速度は自由に調節可能、ちょっとしたライターだな。ちなみにこの名前は知り合いがつけたんだが、わりと気に入ってるんだ」

「便利なのね」

「今はな。昔はコントロールがうまくいかなくて、散々燃やしたさ。ほら、どうだ。満足したか?」


 うん、満足した。

 そう答えるわけがない。だって、答えたら次の言葉は間違いなく「じゃあ帰れ」になるはずだから。

 だから、私は首を横に振る。呆れたような彼の溜め息。

 だけれど、もう聞くべきことが思いつかなかった。だって、他に思いつけないのだから仕方がない。

 彼は黙りこくった私を見ると、小さく息を吐き出す。タバコの臭いが、どんどん濃くなる気がした。


「ほら、満足したろう。帰った帰った」

「で、でもっ」

「また何かあればここに来い。名刺もやる。まだ何かいるか?」

「……わかったわ、何かあったら助けてくれるのね?」

「ああ。依頼料次第だがな」


 鞄を押し付けられ、扉の前で現金な人なのね、と告げると、彼は探偵だからな、と答えた。

 擦り剥いた膝はまだ痛むけれど、それでも。


「……それじゃあ、さようなら」

「ああ、じゃあな」


 ──それ以上に「この後また彼と会う」予感が、消えてなくなる事はなかった。









 夕食を食べ終えて、机へ向かう。部屋の明かりをつけずに、ただスタンドライトだけを頼りに。

 部屋の中は暗く、けれど煌々と光るスタンドライトの蛍光灯によって、机の周辺だけがぼんやりと明るく。

 そんな曖昧な中で、私はふと気づく。今日は課題がない。

 普段から夕食の後は課題と格闘する時間だった。だから、いつものようにこうして机に座ったのだけれど、いい加減私も疲れているのだと実感する。

 あの似非探偵モドキの住処から立ち去ったときには、空の色は薄く赤が混じり始めていたのだ。

 予想外に彼の住処が自宅と近いことに驚きつつ、私は早足で自宅に帰ってきた。大体、早歩きで一〇分かそこらだろうから、普通に歩くともう少しばかり時間を必要とするかもしれない。

 ともかく、私はこうしてぼーっと机を眺めていた。

 夕食は食べてしまったし、お風呂はこの時間に入ると湯冷めしてしまうから、まだ早い。

 だから、ふと思い立ってスカートのポケットから彼の名詞を取り出したのも、たぶん偶然。

 そう、なんでよりによって一番深いポケットに、奥の方まで入れると肘辺りまで埋めないと物が取り出せないほどに深いポケットに入れてしまったのか、不思議で仕方ないと首をひねったりもしたけれど。それが偶然の証拠。

 学校側はいい加減制服のデザインを見直すべきだわ、と柄にもなく虚空に怒ってみたりして、それからバッ、と扉の方を向く。

 良かった。母には見られていない。美百合見たいな真似をしていると知られたら、きっと一週間はそれでからかわれるから。

 優しくて愛らしい我が母上の困ったところは、他人のちょっと恥ずかしいところを見つけると、それを割りと長くつついてくることだ。幸いにして、私が目をつけられたことはまだ一度もないけれど。

 

「えっと……、花村探偵局。……そのまんまね、センスない」


 本人が聞いたら、きっとムスッ、とするようなことを言ってみる。だって、そうだとおもう、もうちょっと洒落た名前にすればいいのに。

 もちろん、何か理由があるんだったら話は違ってくるけど、もしなんとなくでつけているなら、絶対違う名前の方がいい。だって、安直過ぎるから。

 本当ならこういう時間を学校の勉強に当てればいいのだと思うけど、今はそういう気分にはなれなかった。

 だって、ほら、たくさんいろいろ、ありすぎた。化け物に、魔眼。もうお腹一杯です、なんて言いたくなってしまうくらいで。

 でも、本当のこと。私が白昼夢でも見ていない限り、全部。


「……はぁ。一体、何がどうなってるのかしら」


 そんな呟きは、ぼんやりとした、白と黒の曖昧な境目に溶ける。

 彼の話では、私も魔眼に覚醒するらしい。……死刑執行を間近に迫った死刑囚って、こんな感じなのかしら、と。そんなことを思う。

 自分の目が、得体の知れないものに変わる。死刑宣告も同じだ。

 止められないのだろうか。彼に聞けば、また教えてくれるだろうか。

 彼は、花村孝之は、自分の目を忌避していないようだった。なにより、彼の目は普通の人のそれとなんら変わらない。なら、別にそんなに怯える必要もないのではないだろうか。

 ……ううん、いいえ、と。首を振る。なんだか、悪い方悪い方に考えてしまう。

 胡蝶の夢、この世は泡沫。そんな言葉が頭に浮かぶ。浮かんだだけで、どうなるものでもないのだけど。


「ぁ……」


 かつっ、と。携帯が手に当たる。現代の科学の結晶、電子の世界に近づける端末。『違う位相』なんて、夢みたいな、幻みたいな話じゃなくて、見えないけれど確かにある『電子の世界』。

 ……見えなければ、それは、『無いもの』ではないのだろうか。ふと沸き起こった疑問を無視して、携帯を操作する。

 電話帳を呼び出して、は行の頭に出てくる名前を選択すると、悪いとは思うけど電話を掛けた。

 プルルル、プルルル。電子音で呼び出しが流れる。三度目のそれの後に、少し焦ったような彼女の声に切り替わった。


『も、もしもし?』

「もしもし、私よ。ごめんなさいね、こんな遅くに」

『ううん、いいよ別に。それで、どしたの?』


 可愛い声。鈴を鳴らしたようなころころと転がるそれを心地よく思いながら、私ははた、と当惑した。

 どうしよう、どうしようか。彼女に話すべきことを、まだ決めていなかった。

 困り果てて、とにかく彼女を不安にさせないように声を上げる。


「えっと、特に何か用事ってわけじゃないの。ただ、声が聞きたくて」

『寂しがり屋さんは相変わらずかぁ。それとも、例の悪夢のせい?』

「そう、かも。うん、そうかもしれないわ」

『そっか。っと、ごめん、ちょっと一旦切るね。すぐ掛けなおすからっ』


 何処かからかう様な笑いが混じった言葉がすぐに変わり、焦ったものに。

 ぶつりと途切れた音と、通話終了の文字が浮かぶ小さなディスプレイを眺めて、私はあっけにとられる。

 何かあったの。美百合。心の中の呟きは、けれど大気に混じることを許されず、奥底に沈められる。

 あんなことがあった後だから、なお想像は酷くなる。もしかして、なにかあったのではないか。そんな思いに心が囚われ。

 適当に決めていた着信音が、その心までもを揺らしてきた。


「きゃっ!?」


 夜にあっては酷く迷惑に響くだろうくらいの声を漏らし、思わずのけぞる。倒れそうになる体を、椅子で必死にバランスをとって元に戻すと、いつまでも音を撒き散らす携帯を手にとった。

 通話ボタンを押す。


「も、もしもし?」

『ごめんね優菜、いきなり切っちゃって』

「ううん、いいの、平気。うん」

『あれ、怖がってる?』

「へっ!? な、なんで!?」

『優菜が言葉を小さく繰り返すときって、いっつも怖がってるときだよ?』


 よく見ている。そう、そうだ。ほら、今だって。

 心の中でこのざまだ、外見では酷いものだろう。

 でも、どうしたのだろう。本当に。


「ねえ、さっきはどうしたの?」

『親にばれそうになったの。私のうちって、ほら、夜に携帯禁止だから』

「あ、そっか。ごめんなさい、忘れてた」

『んーん、いいよ。私も声、聞きたかったし』


 同性から見ても、彼女はとても可愛らしい。だから、そう言われると少しだけドキッとしてしまう。

 別に私がそういう趣味とかではないのだけど。

 彼女の家は結構なお金持ちで、本当は彼女が携帯を持つのにも反対していた。けど、さすがに花の女子高校生が携帯を持たないというのは、なんだか遅れている感じがしたのだろう。

 予想外に粘り強く、そして強く押し通した彼女の意見によって、夜はなし、と言う条件付でだけれど、携帯を手に入れることに成功したのだった。

 まあ、実際のところは彼女に甘い両親が、強く押す彼女の可愛らしさに負けただけだと思うけれど。ほんとのところは、やはりわからないわけで。


「それで、今どこで話しているの?」

『私の部屋のベランダ。もう当分お母様は上がってこないから』

「あらあら。風邪を引かないようにね」

『わかってるわかってる』


 くすくすという笑い声。

 彼女に影響されたのと、それと、あとは、母の教育のせいだろうか。私は彼女に負けず劣らず、『品のある喋り方』モドキを自然と使ってしまうことがある。

 自分でも気づかないうちに使ってしまうから、何とかしたいところなのだけど。

 やはり、あまりいい手立ては見つかっていない。残念なことに。


「……うん、ありがと。なんだか落ち着いたわ」

『そう? ならよかった。えへへ』

「ふふっ、どうしたのよ? 急に笑って」

『んーん、なんでもないっ』


 明るい声。それを聞いているだけで、沈んでいた気分が晴れる気がする。

 そんなことを考えながら、私は取り留めのないお喋りに興じることにした。

 せめて一時、あの嫌な現実から目を背けたくて。









 一人、佇む男がいた。

 花村孝之、探偵である。

 まばらに文字の刻まれた資料を手に、彼は何事かを思い悩んでいた。


「あの少女……」


 資料に書かれているのは、とある知り合いからもたらされた極秘情報。その中でも彼の度肝を抜いたとんでもない情報のもたらされた時期と、彼女、優菜が魔眼に覚醒した時期が、ぴたりと一致している。

 それが何を意味するのか。

 思案し、それから溜め息。


「やめだやめ、後で考えろ」


 自分に言い聞かせるようにそう呟くと、コーヒーを飲み干す。

 そこに溜まった砂糖が、やたらと甘ったるかった。

さて、いかがだったでしょうか。

この後お約束の巻き込まれ、戦闘、覚醒、特訓などなどがあるかもしれません。

ちなみにこの作品、「登場人物のうち、主要メンバーのほとんどが魔眼もちだったらどうだろう」と考えて作っています。

視界を主軸にすえた戦闘シーン……地味。


それでは、面白かった方、こうした方がいいかも、と言う方、ぜひ感想お願いいたします。

ちなみに、文章がやや回りくどいのはわざとです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ