第二話:男と、女と、死んだ鳥
男はある日思い立って、電車に乗った。中学生が遊びに来てもいいように、玄関の鍵は開けたまま出掛けた。行き先は、むかし妻や娘と住んでいた町。
懐かしい改札を抜け、坂道を上る。厚い擁壁に囲まれた金持ちそうな家の隣に、その家はあった。
深いグリーンの洋瓦の家。築12年目。窓周りの亀裂がそろそろ目立ってきた。塗り替え時期だ、と男は思う。
妻は忙しく、家には関心が薄いから、本当なら自分が手配しなければならないところだ。
ベルを押すが返答はない。
あとで外壁を塗り替えるか、せめて1ミリ以上の亀裂は埋めるよう手紙を出そう。
もう少し家の状態を見たかったが、元々自分も住んでいた場所とはいえ、無断で敷地に入るのは憚られた。
来たばかりの坂道を下る。すると途中に、赤いランドセルの少女がしゃがんでいた。
「カナエ」
男が声をかけると、娘は物憂げに顔を上げた。
「お父さん」
「何してるんだ、お前」
「お父さんこそ」
娘は両手で、何か、大切そうに抱えていた。
「雀が怪我して溝に落ちてたから助けたの」
見ると、もう死んでいる。
「まだ温かいよ」とカナエは言う。
男も手を伸ばして触れてみた。鳥の形のカタマリ。娘は自分の手の温もりを、雀の温かさと勘違いしている。
「お前、小鳥が欲しかったのか」
カナエは首を横に振り、「欲しいとかじゃない」
それから二人は公園まで歩いた。
桜の木の根元に穴を掘り、カタマリを埋めた。鴉が上から見下ろしている。
「お迎えだ」。カナエが言った。
「じゃ、お父さん、もう帰るからな」。
男は公園を出て歩き出し、後ろを娘がついてくる。アスファルトに、電柱や塀の長い影がいくつも横たわっていた。
振り向かないまま男が、「母さんは、相変わらず忙しいのか」と尋ねると、カナエは少し考えてから、「わからない」と答える。
「わからないことはないだろう」
カナエは男に、「だけどお父さんは、もう働かないの」と尋ねる。
「わからない」
「なんだ。お父さんもわからないんだ」
「父さんは心の病気なんだ」
「ココロノビョウキって?」
「わからないか」
「わからないよ」
切符を買い、改札前で向き合う。
「お母さんに、家の手入れだけはちゃんとするように言っといてほしい」
「お父さんこそ、ちゃんとしなさいよ。お母さんが、もうお金渡さないって言ってたよ」
「そうか」
「そうだよ」
手を振って別れた。
くたびれた家に帰る。誰も居ず、空のペットボトルが転がっていた。
女が改札を出る。坂道を上り、帰宅した。
居間でテレビを見ていた娘が、「お帰りなさい」と声をかける。
女は返事の代わりに溜息をつき、ソファに座って足を伸ばした。
「ココア、入れてちょうだい」
「うん」
「あと、宿題やっときなさいね」
「あのね、お父さんがさ」
「お父さん?」
女は怪しむ顔で娘を見た。
「家をちゃんと手入れしなさいって」
「来たの」
「うん。学校帰りに会ったよ」
「そう」
女はまた一つ、溜息をついた。
「あの人、相変わらずね」
「ココロノビョウキ、って言ってた」
「そうね」
女は娘からマグカップを受け取り、ココアを啜った。
「それ以外、何か言ってた?」
「わからない、と言ってました」
「わからない?」
「あたしも、わからないと答えたよ」
「それじゃ、会話になってないじゃない」
「そうだね」
カナエはニ階に上がり、女は一階でパソコンを叩いた。文章につまると写真集や雑誌をめくり、ぼんやりしてからまたキーボードを打つ。
「上手くいかないわ」
溜息をつく。
「とても疲れている」
独り言を言う。