“白い結婚”と言われたはずなのですが、毎晩夫が訪ねてきます
「我々は“白い結婚”という認識でいいのだろうか」
初恋の人と結婚し、夫婦として初めて過ごす夜。
夫であるクロード・タリズ伯爵から私にかけられた言葉は無情なものだった。
◇
兄の友人、クロード・タリズ伯爵。
彼は私——ローズ・グライン公爵令嬢の初恋の人でもあった。
癖のない黒髪に、深い海のような青い瞳。あまり表情が変わらない彼の第一印象は「少し怖い」というもの。けれど知り合ってから年月を重ねるうちに、兄と話す時に見せる少し幼い笑顔や、言葉や態度の端々に感じる彼の優しさに私はいつしか惹かれていた。
だから兄から「クロードにお前との縁談話を持ち掛けてみたら快諾された」と聞いた時は、浮かれすぎて眠れぬ夜を過ごした。初恋の人の妻になれるなんて夢のようで、世界中で私以上に幸せな人はいないのではと思うほどだった。
でもその時の私はあまりにも無邪気すぎた。
そもそも伯爵家が格上の公爵家からの縁談を断れるはずがない。兄とは友人関係とはいえ、数年前に両親を事故で亡くし、若くして家督を継いだクロードには次期公爵から持ち掛けられた縁談は相当なプレッシャーだっただろう。
私は自分の初恋が実った喜びしか見えず、クロードの本心がいったいどこにあるのかを知ろうともしなかったのだ。
無事に挙式を終えた私たちがタリス伯爵邸へと戻ってこれたのは、夜も深まってからだった。
何度か伯爵家を訪れたことがあるものの、これからここで過ごすのかと思うとなんだか不思議な感じがする。緊張が抜けないまま数名の使用人に出迎えられていると、公爵家からついてきてくれた侍女のマチアが驚いたように囁く。
「驚きましたわ。お嬢様が仰っていたよりも、皆さま温かい方々ではないですか」
囁くにしては大きな声。伯爵家の使用人の様子など彼女には今まで一言も話したことがないというのに、なぜそんなことを言いだしたのだろうと逆に驚いてしまう。と同時に、周囲の使用人たちが表情には出さずとも、こちらに意識を向けているのがわかる。
ちなみにこのマチアという侍女は、『お嬢様のため』と言いながら、時折こちらがきまり悪くなるような発言をすることがある。何度注意しても直すのはその時だけ。父の恩人の娘ということもあり、彼女に少し遠慮があったのも否めない。彼女に心の内を明かさないようにすることで対処していたのだが……。
「マチア……私がいつそのようなことを言ったかしら? みんな良くしてくれるわよ」
「え……も、申し訳ございません」
私の注意に、マチアは一瞬にして泣き出す寸前のような顔に変わる。
そんな彼女の様子に私は内心ため息をつく。しかし今はそれどころではなかった。
(このまま支度を整えたら、とうとうクロード様と二人きりになるのね……)
夫婦として過ごす初めての夜。
聞けば私の寝室として準備されていた部屋は、彼の寝室と室内扉一枚でつながっているようだ。
クロードとの縁談が決まってから、マチアに何度も言われていた「旦那様がお嬢様のそのままを愛してくださるといいですね」という言葉をどうしても思い出してしまう。不安と緊張で私の心臓は張り裂けそうだった。
私室の扉を開こうとした瞬間、私を呼び止める声が聞こえた。
「——ローズ様」
低く、静かな声。クロードだった。
まだ身支度を解いていない様子の彼に、何か急用なのかと彼に向き直る。
「どうなさいましたか? それと……もう妻なのですから、どうか呼び捨てにしてくださいませ」
「そうか……では、ローズ……」
クロードはほんのわずかな逡巡の後、ゆっくりと口を開いた。
「我々は“白い結婚”という認識でいいのだろうか」
「ぇっ……」
私は息を呑んだ。
“白い結婚”——それは清い関係のまま、形だけの夫婦でいるということ。
つまりクロードは私と本当の意味での夫婦にはなるつもりはないと考えている……。足が震えそうになるのを何とかこらえ、私は必死に声を絞り出した。
「は、い……」
「そうか、ならよかった」
一方、私の返事を聞いたクロードはほっとしたように頷くとそのまま部屋に向かってしまった。
(白い、結婚……本当はクロード様は私と結婚などしたくなかったのかもしれない)
私はまるで足元に穴が空いたような気持ちのまま、ふらふらと自室に入る。何も考えられないまま力なくソファーに座り込むと、先に声を上げたのはマチアだった。
「はぁ……“白い結婚”ですか」
ため息とともに漏れ出たのは、これまで聞いたことのないほど冷ややかな声だった。
「まあ、相手がお嬢様ですもの。仕方ありませんわね」
「ど、どういうこと?」
「おわかりになりません?」
マチアは呆れたような笑みを浮かべながら私を見下ろしている。
「だってお嬢様は妻にするには少し真面目過ぎて、男心をくすぐるというタイプではありませんわよねぇ。この婚姻も公爵家から申し込まれたのでしょう? もしかしたら他に心に決めた方がいらっしゃったのかも——」
「——やめて!」
もう限界だった。
このままマチアの言葉を聞いていると、かろうじて保っていた心が粉々に砕けてしまいそうで、私は勢いよく立ち上がった。
「今すぐ出て行って。そして二度と同じ話はしないでちょうだい!」
◇
……コンコン。
控えめなノック音に私は体を起こした。
あれこれ言い訳を重ねるマチアを部屋から追い出した後、私は何をするでもなくぼうっとソファーに身を投げ出していた。
気づけばまだ身支度も解いていない。皺のついたドレスを撫でながら、私はノックに応じるべくゆっくりと立ち上がった。
さすがにマチアが戻ってくるとも思えない。それならこんな時間にいったい誰が……。
ドアに向かいかけて私はハッとした。
(違う……音が聞こえたのはこっちじゃない)
振り返れば、クロードの部屋と通じる室内扉がそこにある。
まさか、さっき扉を叩いたのは……。
私は震える足で室内扉へと向かった。おそるおそるノブに手をかけると、カチャリ……と軽い音を立てて扉が開く。現れた人影に私は思わず息を呑んだ。
「ク、クロード様……」
そこに立つのはクロードだった。初めて見るラフなシャツ姿にどぎまぎと視線が落ち着かなくなってしまう。するとクロードが静かに尋ねてきた。
「入っても良いだろうか?」
「ど、どうぞ……」
そう答えて私が横に一歩ずれると、クロードはそっと私の寝室に歩みを進めた。そして後ろ手に扉を閉めると、掠れた声で「ローズ」と、私の名前を呼んだ。
はっきりと覚えているのはそこまで。
翌朝、目を覚ました私はベッドの上にいた。着替えた覚えはないのに、いつの間にか寝間着に変わっている。
あれ、と体を起こそうとした私を節々の痛みと、下腹部の鈍痛が襲った。
「——っ、痛……」
その痛みに昨晩の記憶がおぼろげによみがえってくる。私は思わず掛布を持ち上げ、シーツを確認した。
「……夢じゃない。私、クロード様と結ばれたんだわ……」
シーツの上には純潔の散った証が残されていた。間違いない、私はクロードと初夜を過ごしていたのだ。かあっと顔が熱くなると同時に、クロードが言い放った言葉が脳裏をよぎる。
——我々は“白い結婚”という認識でいいのだろうか。
白い、結婚……私たちは清い関係のまま過ごすということではなかったのだろうか。
「んんんっ?! いったいどういうこと?」
私は思わず頭を抱えた。もしかして私の知る“白い結婚”の意味が間違っているのだろうか。しかしそんなこと誰にも聞けない。マチアに尋ねるなんて選択肢は存在しないし、クロード本人に確認するなんてもってのほかだ。
ひとまずマチアが来室する前に自分で着替えを済ませておく。やがて何事もなかったかのようにやってきたマチアは、固い表情の私を見るとパッと表情を輝かせた。
「そう落ち込まなくても大丈夫ですわよ。さあ、旦那様にご挨拶に行かなくては」
私の髪を整えながらマチアは鼻歌でも歌い出しそうなほどだった。筋肉痛からくるぎこちない足取りも、落ち込んでいるせいで歩みが遅いのだと思っているようだ。
食堂ではクロードがすでに席についていた。朝の光を浴びた黒髪と、深い青色の瞳が美しい。立ち襟のシャツはこれから彼が外出する予定なのだと伝えていた。ふと顔を上げたクロードと視線がぶつかり心臓が跳ねる。私は赤くなる顔を隠そうと反射的に顔を伏せた。
「あ……お、おはようございます」
「おはよう」
「……」
「……」
短いやり取りだけで会話は続けない。以前からお互いそれほど言葉の多い方ではない。いつも通りではあるのだが、今日はなぜか落ち着かず彼の顔を見ることができない。そればかりかおぼろげだったはずの昨夜のクロードの言動が、なぜか今になってはっきりとよみがえってくる。
“白い結婚”と言ったくせに、激しくも優しく抱きしめる腕の感触や、耳元でささやかれる愛の言葉の数々……。それなのに今朝はこんなにも淡々と、まるで何もなかったかのようなクロードの態度。
(ただの気まぐれ? でもクロード様のあの言動は……もうっ、私はいったいどうすればいいのよ!)
向かい側に座るクロードの真意を読み取ることができず、悶々としたまま私は結局朝食にほとんど手を付けることができなかった。
落ち着かない気持ちのままマチアと共に食堂を出ようとした時だ。クロードが私を呼び止めた。
「ローズ」
「はっ……はい!」
思わず声が裏返ってしまう。背後からマチアがクスッと笑う声が聞こえてきた。その瞬間クロードがわずかに眉を寄せた気がしたが、すぐにいつも通りの表情に戻る。
「工房の件でこれからしばらく朝食を取らず出かけることになりそうだ」
そういえば、と私は思い出す。私とクロードの結婚が決まったあたりから、グライン公爵領で発見された新鉱石の工房をタリズ伯爵領に設営する計画が動き出していた。
公爵家の資金力と、もとより鉱石加工を特産としていたタリズ伯爵領の技術。両者の力が組み合わさった事業に国内外から注目が集まっていると聞いている。
「夜も遅くなるだろうから先に休んでいてくれ」
「……はい。あ、あの……いってらっしゃいませ。息災をお祈りしております」
「ああ、ありがとう」
私の言葉にクロードの表情がかすかに和らいだ。
そこで私ははたと気づく。
( 妻っぽい……今、私すごく妻っぽかったのでは?!)
妙に気恥ずかしくなってしまった私はそそくさと食堂を出た。
扉が閉まった瞬間、マチアが笑いを含みながら「お気になさらない方がいいですわよ」と声をかけてくる。慰めの言葉でありながら、その響きには好奇の色を隠しきれていない。彼女の中で私は“初夜から放置されたかわいそうな妻”ということになっているのだろう。
「え、ええ……そうするわ」
「……?」
私は適当に短い返事だけ残し、部屋に戻った。今の私は気を抜くと昨夜の記憶がよみがえって顔が赤くなってしまうし、かといってクロードの語った“白い結婚”を考えると不安に押しつぶされそうになる。そんな状態でマチアの嫌味に付き合っている余裕はなかったのだ。
しかしその後も私の気持ちが落ち着くことはなかった。
ベッドメイクをしたメイドたちが、シーツに残された痕跡で昨夜の事情を察したらしい。皆、温かな眼差しで私を見つめ、優しく気遣ってくれるのだ。気恥ずかしさと困惑に頭を抱えながら、私は時間が過ぎるのを待つしかできなかった。
夜もすっかり更けた頃、私はなかなか寝付けずベッドの上で寝返りを繰り返していた。
朝に聞いていた通り、夕食の時間になってもクロードは戻ってこなかった。わかっていたものの、さみしさがよぎる。
(お兄様もクロード様と一緒に動いていらっしゃるんでしょうから、今度会ったら文句でも言ってやろうかしら)
そんなことを思っていると隣の部屋の扉が開き、物音が聞こえてきた。クロードが帰ってきたらしい。
(よかった。無事にお戻りになったのね)
無事の帰宅にホッとすると同時に、今夜はもう会えないという落胆も込み上げる。
(会えるわけないわね。そもそも『先に休んでいてくれ』って言われていたのよ。それにクロード様の本心は……)
私は再び大きくなる不安をごまかすように掛布を頭の上まで引き上げた。しかしその時だった。
……コン、コン。
暗闇の中、室内扉から聞こえた音に私は勢いよく飛び起きる。弾かれたように扉を開くと、そこにはわずかに驚いた顔をしたクロードが立っていたのだ。
「すまない、起こしてしまっただろうか?」
「い、いいえ! まだ起きておりましたっ」
「……それは良かった」
「——っ!」
安心したようにクロードはふっと笑った。滅多に見ることのないクロードの微笑みに、私は思わず息を呑む。次の瞬間、私は力強く抱き寄せられた。部屋に戻る前に湯を浴びてきたらしく、湿った温もりとさわやかなクロードの香りに息が止まる。熱いほどの体温、心臓の音が早い。
「……ローズ、愛している」
胸越しに聞いたその声は夢などではなかった。声にならない返事の代わりに私は彼の背中に腕を回した。
翌朝もベッドの中には私だけが残されていた。きれいに直された寝間着に思わず笑みが漏れる。
それから幾日もクロードは忙しく過ごしていた。朝に会えることもあれば、それすらもかなわない日もあった。しかしクロードはどんなに遅くなっても必ず帰宅し、私の元を訪れた。
私を抱きしめる彼の腕はどこまでも熱い。耳元に囁く愛の言葉は胸が苦しくなるほど甘い。
——だからこそ、私の頭の中は混乱で渦巻いていた。
(こんなに愛してくださるのに、どうしてクロード様はあの日、わざわざ“白い結婚”などとおっしゃったのかしら……)
本人に聞こうにも勇気が出ない。
悶々と過ごす日中と、甘い夜の落差に私の頭は連日破裂寸前だった。
そのせいで私は気づくことができなかった。マチアがこれまで以上に勝ち誇った笑みを向けていたことに——
◇
“白い結婚”の意味について聞くことができないまま、ひと月。ついに精錬工房完成の日を迎えた。
タリズ伯爵家の広間では盛大な祝賀会が催された。クロードの共同事業者である兄はもちろん、私の両親であるグライン公爵夫妻や、事業に関わる関係者たちが集まり、会場は歓談の声でにぎわっていた。
クロードの身をつつむ濃紺の礼装は、彼の洗練された雰囲気を引き立てている。優雅な身のこなしも相まって、まるで絵画から抜け出してきた王子様のようだ。
エスコートのために差し出された手袋越しの手はあたたかく、時折「疲れていないか」と私だけに聞こえる声で尋ねてくれる。はたから見れば初々しい若夫婦に見えるだろう。
しかし私には今日、ある覚悟をしてこの場に臨んでいた。
(この祝賀会が終わったら、お兄様方がいる間にあのことを切り出すわ……)
そう、私はクロードに“白い結婚”宣言の真意を聞こうと思っていた。クロードにとってこの結婚は公爵家から持ち掛けられたもの。本意ではない結婚だった可能性もある。それにもし万が一、マチアの言う通り他に愛する人がいるのであれば、潔く身を引こう……と。
ひと月の間悩み続け、切り出せなかった問いを投げかけようと心に決めていたのだ。
その時、人混みを割って両親が近づいてきた。
「やあ、素晴らしい祝賀会だね」
「二人もすっかり夫婦らしくなりましたね」
「お父様、お母様! お会いできてうれしいわ」
「公爵閣下、奥様。本日はお越しいただき光栄です」
クロードと私の様子に両親は満足そうに目を細めていた。そこに関係者と談笑していた兄もグラス片手に合流してくる。
「お、皆さまお揃いだね。いやぁ、事業の目処がついたのもクロードのおかげだよ。ひと月もクロードを借りてしまったから、ローズがほったらかしにされてるんじゃないかと心配だったが、案外うまくやっていたんだな」
兄はそう笑いながらクロードの肩を叩く。
私は「そんなことないわ……」と言いながらも、頬に集まる熱を隠せずにいた。
しかしそんな和やかな空気を引き裂くような声が響いた。
「そうなのです! お嬢様はずっと寂しい思いをなさっておりました!」
声の主はマチアだった。
それまで背後に控えていたはずのマチアが、私とクロードの間を裂くように一歩前に踏み出した。その瞬間、私に向けた勝ち誇ったような眼差しに、嫌な予感が全身を駆け巡る。
「マチア、下がりなさい。話なら後で聞くわ」
「いいえ! お嬢様のためにも、今ここで公爵閣下に聞いてもらう必要がありますわ」
ますます声を張り上げるマチアに周囲にいる招待客たちの注目も集まってしまう。無理にでも下げさせなければと思っていると、父が場を落ち着かせるように口を開いた。
「おお、マチアか。いったいどうしたのだ」
「閣下、差し出がましいとは存じますが、あまりにもお嬢様がお可哀そうで見ていられず……わたくしからお嬢様と旦那様の真実をお話させてくださいませ」
『真実』——その言葉にハッとマチアを見れば、彼女の顔には嘲るような笑みが浮かんでいた。
マチアは胸元に手を当て、まるで悲しみに耐えられないかのように大げさにうつむいて話し始めた。
「お嬢様は初夜の晩、旦那様から『白い結婚だ』と告げられ、お二人は冷え切った関係なのでございます!」
「何だって?!」
驚きの声を上げたのは兄だった。その様子に「いける」と思ったのだろう。マチアはさらに声を張り上げ、まるで悲劇の主人公のように床に膝をついた。
「そればかりか——恥ずかしいことにお嬢様は夜な夜なご自身の部屋に男性を連れ込み不貞を働いておられます! 旦那様に振り向いてもらえない寂しさからの過ちでしょうけれど……わたくしはお嬢様が過ちを重ねるのをこれ以上見ていられません!」
その暴露に周囲の招待客が一気にざわめき立った。
マチアはわっと顔を覆ったものの、指の隙間からちらちらと様子をうかがっているのが分かる。しかしそんなことを指摘する余裕もないほど、私は衝撃を受けていた。
「な、なんですって……」
ひどい虚言だ。怒りと恥ずかしさで涙が込み上げてくる。
父も母も兄も、まさか私が不貞を働いたとは信じてはいないだろうが、青ざめた顔で固まっている。クロードは眉を寄せ、じっとマチアの様子を見ている。誰も口を開けないまま、私たちの間に沈黙が落ちた。
「……たしかに私は“白い結婚”と言った」
「——っ!」
沈黙を破ったのはクロードだった。
クロードは座り込んだマチアを邪魔そうによけると、震える私の手を取った。
「夜な夜なローズの部屋に通っているのも私だ」
「ク、クロード様……!」
「ローズが不貞を働くなどありえない。私が証明する」
クロードはそう言うと、私の目尻にたまった涙をそっと指先ですくい取った。怒りで火照った頬が別の意味で熱くなる。
だがそれでは納得できない人物がいた。マチアは勢いよく立ち上がると、泣き出しそうな顔をして訴える。
「で、でも旦那様は“白い結婚”と仰ったではないですか! そうだわ……お優しい旦那様のことですし、きっとお嬢様をかばっておられるのですね!」
「かばってなどいない。紛れもない事実だ。それに“白い結婚”の何がおかしいんだ?」
クロードは怪訝そうに眉を顰めた。
これまでのやり取りを聞いていた私は内心首を傾げていた。何かがおかしい。噛み合わせの悪さのようなものを感じた私は、「あの……」と、おそるおそる切り出した。
「あの……クロード様の仰る“白い結婚”とは、いったいどのような意味合いのものなのでしょうか……」
「え?」
私の問いにクロードが珍しく驚いた顔を見せる。
「私は“白い結婚”というものを、清い関係のまま、夫婦の形だけを保つものだと思っておりました」
「……そ、そうなのか?」
「ああ。ローズの言う通りだ」
助けを求めるように目を向けたクロードに、兄は難しい顔をして返答する。父と母はいち早く何かに気づいたようで、苦笑いを浮かべていた。
「お、俺は“白い結婚”というのは“初めての恋で結ばれた相手との結婚”だとばかり……」
自分の事を“私”と取り繕うことも忘れ、いつも表情の変わらないクロードの顔がみるみる蒼白になっていく。
「つ、つまり俺は……ローズ!」
「は、はいっ!」
ガバッと私の手を取ったクロードは必死の形相で足元に跪く。
「決して君を拒もうとしていたわけじゃないんだ! 俺は君以外愛するつもりはない!」
気づけばクロードの手がわずかに震えている。ハッと彼を見れば、真剣な眼差しが私を見つめていた。
「初めて会ったあの日から、俺の心にはずっと君しかいなかった。縁談を持ち掛けられた時は本当にうれしくて……頼む、俺の勘違いで君を傷つけたならどんな罰でも受ける。どうか俺を本当の意味で君の夫にさせてくれ」
「クロード様……」
これ以上ない愛の告白に、これまで私を押しつぶしそうになっていた不安が一瞬にして消え去ってしまう。私は彼の手をそっと引いた。
「どうかお立ちください。私たちが互いに思い合っていたことがわかっただけで、私は十分です」
そう告げ、私は立ち上がったクロードの手を握り返す。
「私の方こそ、もっと早く誤解を解いていればよかった……いらぬ騒ぎを招いてしまい、申し訳ございませんでした」
「いや、俺の勘違いが招いたことだ。君をもう二度と悲しませるような真似はしない、信じてほしい」
次の瞬間、クロードは私を力強く抱き寄せた。招待客からわあっと温かな歓声と拍手が上がる。そんな中、耳元にそっとクロードの囁きが届く。
「君を愛する気持ちに何一つ偽りはない。だからずっと俺の傍にいてほしい……」
「はい……喜んで」
クロードの背中に回した手にぎゅっと力をこめると、彼の体からほっと力が抜けるのがわかった。その瞬間、本当の意味で彼と結ばれた喜びに胸がいっぱいになる。
「やれやれ。父上、母上、これなら孫の顔が見られるのもすぐかもしれませんよ」
「まあ、それは願ってもないことだわ」
「それは少々気が早いのではないか……?」
兄と両親のやり取りに和やかな笑いに包まれる中、ただ一人青ざめた顔で座り込む人物がいた。マチアだ。
「そ、そんな……そんなはずないわ! 旦那様がお嬢様なんかと……」
「——マチア」
うつむくマチアにクロードの冷ややかな声が落ちる。
「我がタリズ伯爵家、そしてグライン公爵家の名を傷つけ、根拠のない言動で我が妻を貶めようとした罪は重い」
「違います! そ、そうだわ。私も少し勘違いをしてしまっただけなのです! それもすべてお嬢様のためを思って——」
「マチア、やめなさい」
マチアの言い訳を遮ったのは父だった。
「恩人の娘だからと甘い対応を取り続けてしまった私にも責任がある。クロード、この者の処分は私に任せてもらってもいいかな」
「はい、閣下の御心のままに」
「ではマチア、お前は今日この時をもってローズの侍女を解雇とする。その上で自分の犯した罪をしかるべき場所で猛省してもらおう……お前のことだ、誰の顔に泥を塗ったかはわかっているはずだ」
淡々とした父の言葉にマチアはガタガタと震え出した。
「っ、閣下! 申し訳ございませんでした! どうか、どうかお許しください!」
「警備、この者を外へ。二度とローズの視界に入れるな」
取り乱して縋りつこうとするマチアを、クロードの合図を受けた警備兵が素早く抑え込む。引きずられるようにして去ったマチアの姿を、私はその後二度と見ることはなかった。
のちに風の噂でマチアは私への深い嫉妬と憎悪を抱いていたと耳にした。“白い結婚”の件についても、メイドたちの噂と私の部屋から漏れる甘い気配に、本当に私が不貞を働いていると信じていたらしい。その裏にはあわよくば私を追い出し、自分が伯爵夫人の座に収まろうという思惑があったそうだ。
彼女はその後規律の厳しい修道院に送られ、罪を悔いながら生涯そこで過ごすということだ。
◇
予想外の波乱はあったものの、祝賀会が無事に終わり、招待客を見送った深夜。
私は静まり返った寝室のベッドの上で何度も深呼吸しながら、その音が聞こえるのを待っていた。
——コンコン。
控えめなノック音が響いた。続いてカチャリと室内扉が開き、クロードの姿が現れた。
「ローズ、入ってもいいだろうか」
「はい……」
ゆっくりと歩み寄ってきた彼は、ベッドの縁に腰かけると私の手を優しく包み込んだ。
「改めて謝らせてほしい。俺のひどい勘違いのせいで、君を不安にさせてしまった。本当に申し訳なかった」
「いいえ、私もきちんとお聞きすればよかったのです。でも……本当に良かったのですか? 私は真面目過ぎるところがありますし、女性らしい愛嬌も——んっ」
つい口をついて出た弱音は、クロードの唇にふさがれ最後まで紡がれることはなかった。
「誰がそんなことを言った? 君の真面目なところも、出会った頃から変わらない笑顔も……すべてが愛おしくてたまらない」
「クロード様……」
耳元で囁かれた低く甘い声に、私は静かに目を閉じた。
もう不安も迷いもない。
私の“白い結婚”は、最高に甘い初恋の結末だった。
お読みいただきありがとうございます。




