幸せになるために
*** 場面転換で毎回視点が変わります ***
王宮の庭へ続く外回廊を歩いていると、賑やかな声がしてふと足を止める。
小花が咲く生垣の向こうで、婚約者であるセブリアン王太子殿下と、殿下の幼馴染のルシアノ様の姿が見えた。
そして賑やかさの中心にビビアナ様がいて、三人は笑い声を上げている。
ルシアノ様はサンターナ侯爵家の次男で、セブリアン殿下を支える側近候補だ。
ビビアナ様はベルサーニ伯爵家の三女で、ご自身の母親と同じく、未来の王太子妃付きの侍女を目指して学んでいるという。
セブリアン殿下の肩を、ビビアナ様が笑いながら叩いた。
殿下は、笑顔でそれに応えていらっしゃる。
喉が見えるほどに大きく口を開け目をぎゅっとつむって笑う顔を、殿下が私に見せたことはない。
そして、そんな二人と一緒にいるルシアノ様も、ビビアナ様の背中を軽く叩いて笑っている。
セブリアン殿下と同じく、平民の青年のような飾り気のない笑顔を見せていた。
目尻の涙を拭うような仕草をする殿下を見ていると、私に気づいたビビアナ様がチラリと笑みを浮かべる。
私はみぞおちの辺りがスッと冷えるような感じがして、胸の下の辺りを押さえた。
彼女が王太子妃付きの専属侍女を目指しているからか、后教育の際に大きめの荷物が必要になる時、ビビアナ様が侍女頭から差し向けられることがある。
私と二人きりになると大変そうに顔を顰めて見せて、私の反応を確かめているように思えた。
労わりの声を掛けずにいると、無表情に戻って軽々と運び出しすぐに部屋を出て行く。
おそらく私以外の誰にも見せない顔だ。
万が一にも私がそうしたことを殿下に伝えるとは思っていない試し行為に、どこかでこれの成功体験でもあるのかと不思議に思った。
ビビアナ様が本当に王太子妃の専属侍女になりたいのであれば、現時点で殿下の婚約者である私にその態度を取って、彼女が得られるものがあるとは思えない。
王太子妃付き専属侍女の選択は、王太子妃となる者に決定権があると知らないのかもしれない。
セブリアン殿下もルシアノ様もビビアナ様を大切にしていて、そこに私が入る余地が無いことは、分かっている。
そしてそのことを、ビビアナ様も分かっていて私だけに見せるように今回はあの微笑みを浮かべたのだ。
少しだけ迷った後、私は声を掛けた。
いつもはこの時間に殿下のご休息と合わせてお茶の席が設けられているけれど、今日は珍しく殿下のご都合によってそれは無いと事前に連絡をいただいている。
「王太子殿下、本日の后教育が終わりました。これにて失礼いたします」
「あ、ああ、もうそのような時間か。気をつけて帰るように、フロレンシア」
「ありがとうございます。皆様がたもごきげんよう」
私は少し腰を落とした礼をして、アルバラード公爵家から連れてきている侍女アンナと共に外回廊を馬車停まりに向かって歩き出す。
さっきまで春の陽だまりのようだった雰囲気が、私という闖入者のせいで消えてしまっていたが、特に悪いとも思わなかった。
***
「ルシー、フロレンシアはビビアナと楽しそうに笑っていた僕に対して不快に思ったかな」
アルバラード公爵令嬢を三人で見送るような形になった後、ビビアナが母親と過ごしている従者棟に帰っていった。
僕は殿下と共に外回廊を戻っていると、殿下が不安の中に少しの不愉快を混ぜたような面持ちでそう言った。
すぐにそれらを吹き消すように、つとめて明るく言う。
「アルバラード公爵令嬢は、特に気になさらないように思います。きっとそのような心配はご無用ですよ」
「それなら良いが、フロレンシアは本当に感情を表に出さないからな。何を考えているか分かりにくくて困ることもある。その点、ビビアナは素直で分かりやすい。喜ぶ顔を見るとまた何かしてやりたくなるし、辛そうならば助けてやりたいと思うが、フロレンシアは……」
「あの方は、ご自分で何でも解決できる能力も財力もありますからね」
セブリアン殿下は一年ほど前に、アルバラード公爵令嬢との婚約を解消してビビアナを婚約者にできないかと、王妃殿下にそれとなく尋ねたという。
国王陛下に伺う前にまずは王妃殿下に探りを入れたのだと思うが、王妃殿下の答えはセブリアン殿下をがっかりさせるものだった。
ビビアナの母は、王妃殿下が王太子妃時代からの専属の侍女で、ビビアナは三女とあって母親と同じく王太子妃の専属侍女になることを夢見ている。
セブリアン殿下の婚約者とするには、ビビアナの伯爵家の三女という身分は最低条件をクリアしているものの、領地を持たない伯爵──代々王族に仕えその時々の国王夫妻の寵愛によって陞爵を繰り返してきた家格では、殿下の婚約者とするには難しい。
婚約者の家に求められるものは、殿下を支える強い後ろ盾となり得る格式と財産なのだ。
恋だの愛だのと移ろいやすい感情が、王族の婚姻に入り込むことは無いと言える。
王妃殿下付きの侍女を母に持つビビアナなら、特別に『母』として王妃殿下が認めてくれるのではないか──そんな殿下の期待は打ち砕かれた。
『フロレンシア・アルバラード公爵令嬢を大切にしなさい』と王妃殿下に諫められて終わったという。
その後のセブリアン殿下はビビアナのことを諦めて、決められた時間をアルバラード公爵令嬢と穏やかに過ごしている。
だが、今日のように公爵令嬢の愛想のない応対に接すると、殿下はビビアナへの未練のようなものを見せることがある。
結婚の儀まであと少し、そろそろすっぱりと諦めるべきだというのに。
侯爵家の次男である自分であれば、ビビアナを婚約者とするのに問題はない。
語学などは特別できる必要もなく、誰よりも可愛いビビアナであれば構わないのだ。
僕にはかつて婚約者がいた。
侯爵家の令嬢だったが、十か月ほど前に流行り病に罹りあっけなく亡くなってしまった。
心から好きだとかそういう感情はなかったが、慎ましく好ましい令嬢で好意的に婚約を捉えていたからショックは小さくなかった。
婚約者としての服喪期間も過ぎ、父からは次の婚約を考えるようにと言われていた。
僕はビビアナとの婚約を調えて欲しいと言うつもりでいる。
ビビアナは専属侍女になるために、今のところは婚約者を定めていない。
それも、侯爵家の次男である僕が相手なら問題はないのだ。
僕が正式に殿下の側近になりビビアナが未来の王太子妃付きの侍女になれば、理想的ではないか。
ビビアナがもたらす王太子妃の情報を自分がうまく使っていく。
そのためにも、殿下にはアルバラード公爵令嬢と無事に結婚の儀を迎えてほしいと思っている。
王族に生まれた以上、恋は諦めてもらう他ないのだ。
***
「はぁ……」
自室の窓辺で、私は頬杖に重いものすべてを預けるようにして、ため息をついてしまった。
行儀が悪いのは分かっていても、止められない。
自分の部屋の中くらい、私は私のままでありたかった。
婚約者である王太子殿下に、特別な感情を持ってはいない。
それはお互い様だ。
殿下は幼い頃から親しいビビアナ様を望んでいらして、おそらく王妃殿下にそれを察せられてしまった。
王妃殿下は私に『最も身近な者の心を掌握できずに、民の心を束ねることができようか』
そうおっしゃったのだ。
『申し訳ございません、しっかり努めてまいります』と答えたものの、私には民の心を束ねるほうが容易に思える。
民が今日を過ごすための生活を支える枠組みを整えるほうが、恋心という不確かな感情に揺れる殿下をお支えするより方法は見つかりやすい。
幼い頃から感情を抑えることを第一として厳しく躾けられてきた私では、その時々の感情を抑えることがあまりお得意ではない殿下への対処法を探すほうが難しく思え、今までこれといった方策を取って来なかった。
でも、悠長なことは言っていられない。
結婚の儀は数か月後に迫っていて、殿下が穏やかではない着地点を決めてしまう可能性が無いわけではないのだから。
他国では婚儀直前に、王子がしっかりした根拠に基づかない理由を挙げて公共の場で婚約者に破棄を言い渡すという事が起きているという。
たいていは王子の独善によっての決行で、自らの首を絞めただけの結果に終わっている。
殿下はそのような愚行に走るお方ではないと思っているけれど、問題が『恋情』というユラユラしたものに根差しているので、強い風に吹かれれば思わぬ方へ行ってしまう可能性をゼロにはできない。
その『強い風』は──きっとビビアナ様から吹いてくる。
だけど私は、それを望まない。
殿下を揺らそうとするビビアナ様から、私は自分の未来と公爵家と領民たちを守りたいと思っている。
それにはどうすればいいのかとずっと考えてきた。
私が辿り着いた答えは、殿下が惹かれているビビアナ様が持っているものを私も持つようにすればいいというものだった。
自分とビビアナ様の持つ性質や特性を列挙し、それぞれに五点満点の点数を付けていった。
もちろんすべて私の目線でしかないが、まずは似た性質や私のほうが優れているものを消し、ビビアナ様のほうが高い点数になったものを残す。
それが私に足りないものということだから、そこを強化していく。
きっとこんなやり方は正しくない。
でも、幸せになるためにはもう、このような方策しか思いつかなかった。
***
「王太子殿下、ご多忙のところ心苦しいのですが、折り入って相談したいことがございます」
その日の后教育を終えたフロレンシアと、僕の午後の休憩を合わせていつも行われている茶の時間に、そのようなことを言われた。
目を伏せて、弱々しい声のフロレンシアの様子はいつもと違っていた。
ただならぬものを感じ、思わず背筋を伸ばす。
「何でも話してくれ、僕らは婚約者同士なのだから」
そう言うと、フロレンシアは下を向き黙り込んでしまった。
どうしたのかと思いながら言葉を待っていると、ひとしずくの涙がフロレンシアの頬を滑り落ちた。
「……ありがとうございます。殿下の、お優しい言葉をいただいて、何か安心してしまって……申し訳ありません、お見苦しい、ところを……」
フロレンシアはそうつぶやくと、両手で顔を覆って肩を震わせた。
思わず席を蹴るように立ち、フロレンシアのソファの隣に座る。
「そのままでいい、何も見苦しくなどない。落ち着いて話せるようになるまで、こうしていてもよいか」
おそるおそるフロレンシアの肩に手を回すと、薄い肩がまだ小さく震えている。
僕より少しだけ背の低いフロレンシアは、いつももっと大きく見えていたのに、実際は肩が薄く首も細く、思っていたよりずっと儚げだった。
フロレンシアを自分にもたせかけるようにすると、力を抜いたのか少し重みを感じた。
それからしばらくしてフロレンシアが落ち着きを取り戻したと思われたので、侍女を呼び入れて茶を淹れ直させようとした。
「今のわたくしには、この冷めたお茶を美味しいと感じられそうです。殿下にお付き合いをさせてしまうことは、大変申し訳ないのですが、今は……このまま、もう少し……」
そう言うと一口飲んでカップを置き、頬を両手で覆う。
その仕草がとても愛らしく、思わずみつめてしまった。
『今は、このままもう少し』自分と二人きりで居たい、そんなふうに言いたかったのかもしれないと、自分に都合の良いように思いたくなる。
扉は開けてありその近くには何人かの従者がいるのだが、部屋の中は二人だけだ。
盗み見るようにフロレンシアを窺うと、カップに残された茶を飲み干したようだった。
そしてふっと小さく息を落とした。
「わたくしこの頃、暗闇に取り残されたような孤独を感じることが、時々あるのです……」
そんな言葉から始まった話は、これまでフロレンシアに持っていた冷静でしっかりしていて何にも動じないというイメージと異なる、いわば自分と似たような悩みを抱えていた。
王族に対して貴族たちからは、敬意という名の距離は当然取られる。
時にフレンドリーな者がいるが、こちらが少し近寄れば僕を利用したいだけの顔が見えてしまう。
そうして期待したり失望したりしながら、距離を置かれるくらいが実は一番息がしやすい関係性だと分かってきた。
だからこそ、幼い頃からの付き合いであるルシアノとビビアナと居る時が彼らの言葉の裏側を考えずに済んでラクだった。
ふと、フロレンシアにそういう存在はいたのだろうかという疑問が浮かんだ。
幼い頃に婚約者と定められて以来、フロレンシアは常に『未来の王妃』という険しい道を歩かされてきた。
自身にも仕事にも厳しいアルバラード公爵は、娘であるフロレンシアにも厳しく接していると聞いたことがあった。
もしかしたら、フロレンシアは僕以上の孤独の中にいるのか?
僕に気の置けない幼馴染がいるように、フロレンシアにもそんな存在がいればいいが、もしかするとフロレンシアから一番近いのは僕だけなのかもしれない……。
「母から聞いたことがある。未来の王太子妃の立場はガラス張りの客室に住んでいるようなものだと。豪華であるのにその行動すべてが他者に見張られ、一時も心休まることがないと。生まれながらの王族である者の部屋には厚いカーテンがあるのに、嫁いだ者だけがガラス張りの部屋の中で、王家に相応しいか四方八方から四六時中見張られているようなものだと……。それをまだ若い婚約時代から味わうのは、苦痛そのものだったと」
僕も冷めた紅茶を一気に流し込む。
王妃である母からの話を思い出すと、それを何故言われたのかまで思い出していたたまれなくなった。
未来の王を約束された者の婚約者は、一見華やかでありながら苛酷の中を孤独に過ごしている。そこへの一本道を、覚悟を決めて歩んでいる者にできることは見守り支えることしかないのだと……。
僕がよそ見をするなどとんでもない非道な行いだと諭されたことを、僕は心の自由の無い窮屈さに身勝手に置き換えてしまっていた。
フロレンシアが身じろぎもせずにこちらを見ている。
「僕はそれを知っていたのに、君を孤独で心の休まらない場所に一人にしてしまったのだな……。それは本当に申し訳なく思う。これからは、もっとフロレンシアを守っていく。今さらだと言わないでもらえるとありがたいのだが……」
「……王太子殿下、温かいお心を……ありがとうございます。わたくしも、もっとしっかり殿下をお支えできますよう、これからも励んでいきたいと思います」
話し始める前よりも、顔色が良くなったように見えた。
誰よりも僕が、フロレンシアにとってこんなふうに弱音を吐ける場所であるべきだったのに、僕は自分のことばかりに目を向けていたことを恥じた。
それから侍女を呼び入れて、新しい紅茶を用意させた。
先ほどは小さな焼き菓子が何種類かあったが、今度は飾り切りがほどこされたフルーツが盛られた脚付きの器が出された。
先日、南方の国から届いたばかりのフルーツを、フロレンシアは気に入ったようで二切れほど口にした。
フルーツを口にして微笑みを浮かべているのを見てほっと安堵する。
ビビアナなら、ぎゅっと目をつむり両頬に手を当ててふるふると顔を動かし美味しいと声を上げただろう。
そういう仕草が愛らしいと思っていたが、目の前で分からないくらい小さく頷いて微笑むフロレンシアの落ち着いた喜び方が、奥ゆかしくてよほど可愛らしいと感じた。
僕はフロレンシアと、こんなふうにソファに隣り合って座って紅茶を飲んだことなどなかったから、その可愛らしさにずいぶん気づかずにいた。
いつも向かい合って座り、それはまるで家庭教師と生徒の距離感だ。
僕の婚約者としてもっとも相応しい令嬢は、フロレンシアなのだ。
これから、もっとフロレンシアのいろいろな表情を見つけていきたい、そう思えた。
***
この頃、セブリアン殿下が妙によそよそしくなった。
私のこの『セブリアン殿下』という呼び方がすでによそよそしいのだけれど、もう今までのように『セブ』と呼んではいけないと、ルシーも居る時に改めて言われたので外ではきちんと呼ぶようにするしかない。
たぶん、あの公爵令嬢がセブに……何か言ったに違いないわ。
私にセブを取られると思ったのかしら。
実際そうなるまで、あと少しのはずだった。
セブはあの堅苦しい公爵令嬢のことを苦手にしていた。
だから私はいつもよく笑いよく泣き、そしてセブを頼った。
彼がそういう態度を好むことは、そばで見ていればすぐに分かったから。
でも、私がセブの婚約者になるには、いろいろ少しずつ足りなかった。
少し届かないだけとはいえ、その差は埋まることは決して無いから早々に無理だと悟り、ならば母のように王太子妃付きの侍女になりたいと思った。
母が叶えられなかった『未来の王である王太子の愛妾』になり、恵まれ過ぎた女からセブを掠め取ってやる──それが人生の目標になった。
この国で三本指に入る伝統ある名門公爵家に生まれ、美貌も才能も何もかもをその手に握っているなんて、本当に気に入らない。
ひとつくらい、あの公爵令嬢から掠めたっていいじゃない、そう思った。
私の母は、現王妃殿下が王太子妃の頃から専属侍女を務めていた。
王太子の愛を自分に向けられるようにあれこれ画策したのに、そうはならなかったと父に聞かされた。
母は、ついぞ国王陛下の愛を得ることは叶わなかった。
母を鬱陶しく感じながらも仕事はそれなりにこなしていた為に首を切るわけにもいかず、妻を若くして失った、母と親族の関係にある伯爵家の次男である父と結婚させたという。
母は、陛下からお声はかかったけれど妃殿下を裏切ることができなかったと、宝石箱を覗く時のようなキラキラしているけれど虚ろな目で私に言った。
でもそれは母のちっぽけなプライドに過ぎなかった。
王妃殿下が公務しか能がなく王に愛されていないなんて一介の侍女が蔑んでも、王子二人に王女一人を産んだのだから、少なくともそれなりに愛はあったに違いない。
私は母のような負け犬にはなりたくない。
セブの心は公爵令嬢には渡さない。
──でも、そうはならなかった。
父は早めに手を打った。
私をルシアノの婚約者の椅子にねじ込んだのだ。
侯爵家の次男で未来のセブの側近、しかもルシアノもそれを快諾したのだから父にとってはこれ以上ないほどの良縁を結んだつもりだ。
でも私は少しも嬉しくなかった。
ルシアノの考えていることだって、手に取るように分かる。
いつも三人で過ごしていた幼馴染。
一人は王子様で、一人は王子様の密やかな熱い視線を受けている女。
その王子様から私を奪えるのだから気分が良い、その程度のものだ。
私はルシアノとの縁談をすぐに受け入れた。
侯爵家の次男の妻なら、王宮の侍女の中でも下には置かれない。
侍女の中でも最高ランクのはずだ。
しかも夫となるルシアノが王太子の側近になれば、セブに会える時間はさらに増える。
私はセブの愛を諦めたわけではなく、セブが別の愛を求める時にもっとも近い場所に居るようにする、そのためのルシアノとの結婚なのだ。
侯爵家の嫁が使用人になるなんてとは、誰も思わない。
王太子妃付きの侍女は、王国のもっとも奥にある秘密を握れる立場であって、ただの夫人としての立場よりはるかに強いカードを持つことになる。
ルシアノの父親からもそうした働きを期待されていると、ルシアノから聞いた。
私の頭の中は、夫となるルシアノのことはもちろん、仕えることになる公爵令嬢のひととなりや好みを知ろうとするよりも、いかにセブの心を掴み直すかということでいっぱいだった。
***
ついにこの日を迎えることができた。
王宮の美しい部屋で、花嫁支度が整えられていく。
あれからの殿下は、人が変わったかのように私に対して優しい。
私は他者の目があるところでは不自然にならないようこれまで通り一線を引いた形で接しながら、殿下と二人だけになれば少し甘えたり、辛さをこぼしたりした。
私の甘えに目元を緩め、涙にはハンカチをそっと差し出して肩を優しく抱きしめてくれる。
フィナンシェを手の中で崩してしまうというような、殿下の小さな失敗に私が笑えば安心したように一緒に笑う。
そうして他国との公務の書類を前に、額をくっつけるようにして一緒に訳した時には私も何かの達成感のようなものを感じた。
殿下が手放しで私の語学力や容姿を褒めてくださることは嬉しく、互いに助け合い頼り合うことができるようになったことは、本当に理想の形だと思う。
そして挙式の日を迎える前に、私は最後の総仕上げをした。
セブリアン殿下から伺った、幼馴染のビビアナ様が彼女の母と同じく王太子妃付きの侍女となることを夢見ているという話について、王妃殿下から伺った話は少し違っていた。
それは、母親と同じ仕事に就きたいという憧れのような素敵なものではないということ。
彼女の母親は、国王陛下のお手付きになりたいという野望を持って王妃殿下の侍女になった。
でも、その野望は王妃殿下から見れば隠しているようで少しも隠れてなどいなかったという。
『あなたも気を付けなさい。王宮の侍女の中には王と王妃の間に割って入ろうと思う人間が少なからずいるものよ。この頃のセブリアンはあなたを大事にしているけれど、近くに『野望』を持って爪を研ぐ女がいてはどれだけ完全に防ぐことができるか。手立てがないというならわたくしが引き受けますが、あなたの王宮での最初の仕事は、そうした野望持ちの女の爪をへし折ることです』
王妃殿下のそのお言葉を胸に刻んだ。
同時に、そうしたことを私に伝えた王妃殿下の意図を考えなければならないと、こちらは頭に刻んだ。
結婚の儀の前に選定することになっている『王太子妃付きの侍女たち』を選ぶにあたって、アルバラード公爵家で長く私に仕えてくれている者を希望した。
物心がついた時から傍にいてくれている公爵家の者から三人、あとは王宮のほうで王妃殿下からご推薦いただいた者たちに任せたいと、王太子殿下に伝えた。
私の一番近くに侍ることになる三人は、アルバラード公爵家の侍女たちの中でも外国語に明るく武芸にも秀でており、マナーや所作の美しさまで完璧なのだ。
殿下には、彼女たちが近くにいると何よりも安心できます、いざという時に体術やナイフで私を守ってくれると信がおける者を傍に置きたいと伝えると、二つ返事で受け入れてくださった。
私が安心できることが、殿下にとっての安心でもあると、そう笑顔で言ってくだったことはとても嬉しいことだった。
婚礼の支度が進む中、部屋の外がにわかに騒がしくなった。
「どうして私が王太子妃付きの侍女ではないのですか! 母親も王妃殿下にお仕えした私が相応しいに決まっています! セブリアン殿下を呼んでください! 私が今日のこの日に贈り物を集める控え室に押し込められるなんて、何かの間違いよ!」
支度の部屋に入ろうとしたビビアナ様を、私の侍女たちが完璧に止めている。
ここまで通してしまったのはおそらく王宮付きの者で、この後で何らかの処罰が与えられるだろう。
私は、まだ手入れの途中の髪のまま、ゆっくりと扉の少し手前まで行った。
「王太子妃付き侍女に相応しい言動がそれなのですか? 王太子殿下でしたら、この後こちらにいらしてくださいますから尋ねてみてはどうかしら」
私の侍女に後ろ手に掴まれているビビアナ様が、そう言った私の顔を驚いた目で見た。
まさか私にこのように言われるなどとは思わなかった、そんな目をしている。
「何の騒ぎだ、フロレンシアは無事か!」
殿下が大股で部屋の中に入り、私を見て安心したように微笑むと背中に隠すように立つ。
少しずれて様子を窺うと、部屋の入口で表情を滑り落としたような顔をしているルシアノ様が見えた。
「聞いてよセブ! この人酷いのよ! 私を世話係にしないどころか贈り物控え室に行けと命じたの!」
殿下が何か言う前に、ルシアノ様が勢いよく出てビビアナ様の頬を打った。
その乾いた音に私は一瞬目を瞑る。
「ビビアナ、誰に向かってそんな口を利いている! 下がれ、今日のおまえを贈り物控え室での仕事に割り振ったのはフロレンシア様ではない、王妃殿下だ! なんという不敬なことを……。とにかく、下がるんだ……」
「……王妃殿下のはずがないわ! 王妃殿下は私の母を大事にしてくれていて、いわば二人目の私の母なのよ!」
一瞬、しんと静かになった。
ビビアナ様の言葉は、ここでの醜態に対するものだけでの処分では済まないものだったからだ。
この騒動の穏やかな着地点を自ら投げ捨てたビビアナ様の一番大切なものは、殿下への愛というわけではないと確認できて安堵する。
無償の愛に、どうしても敵わない場合はある。
でも彼女が大切なのは、自分自身だけだった。
人から羨まれる名誉、私に勝つこと、それを叶えてくれそうなのが殿下だというだけだ。
本当に殿下に愛があるのなら、こんなふうに殿下を困らせるような騒動を起こすはずがない。
殿下はそれが分からないほど暗愚ではないことは、今の私はしっかり理解していた。
「ビビアナ、仕える主人の前でそんな態度を取る人間を、王太子妃となるフロレンシアの傍にこの僕が置くわけがないだろう。これでは贈答品の控え室からも出ていってもらうことになる。そうしたのはビビアナ、誰のせいでもなく君自身によるものだ。アンナ、フロレンシアを頼んだ。フロレンシア、驚かせてしまい申し訳なかった。その髪にティアラが飾られる頃にもう一度来るよ。きっととても似合うことだろう。ルシアノ、ビビアナを連れていってくれ」
殿下は私の指先に優しくキスを落とした。
騒がしかった廊下が静かになり部屋の中も落ち着きを取り戻すと、侍女たちは何事もなかったように私の支度の続きを始めた。
***
「おまえは何も分かっていなかったということか」
セブリアン殿下とアルバラード公爵令嬢の挙式前、僕は王宮の狭い面談室で兄と向かい合っていた。
父は挙式に招かれていたが、それどころではなくなり各方面に奔走しているという。
すべては自分の婚約者であるビビアナのせいだった。
ビビアナは王太子妃の専属侍女になるという希望を掲げていたが、どういう経緯でそれが決定するかを知ろうともせずに、のんびり挙式当日を迎えたようだった。
侍女頭から各国からの贈答品控え室に配置されてはじめて、ビビアナは自分が王太子妃専属侍女ではないことを知ったという。
当然、前もってそのように説明があったはずだが、ビビアナは何も知らないという。
こんな失礼な配置は、アルバラード公爵令嬢の意地悪だと泣き喚いた。
そして怒りに任せてあろうことか、そのまま花嫁支度中のアルバラード公爵令嬢のところへ押しかけ、大声をあげて詰め寄るという狼藉をはたらいた。
僕はアルバラード公爵令嬢の支度部屋にセブリアン殿下の後ろに控えて向かい、その事態を目の当たりにしてビビアナの頬を叩いた。
さらにビビアナは、自分にとって王妃殿下は第二の母なのだから、自分が専属侍女になるのは当然のことだと不敬極まりないことを叫び、今は貴族牢の中に居る。
ビビアナはもちろんのこと、僕まで兄によって挙式への出席は控えるように言われているところだった。
「おまえは何も分かっていなかったということか」
兄はため息と共に、呆れたような目で僕を見る。
「何故、ビビアナはアルバラード公爵令嬢付きの侍女になれなかったのですか。彼女の母親も王妃殿下の侍女だったのですから、母親と同じ仕事をしたいと夢見ることの何がいけないのですか」
「……おまえの婚約者が夢見ていたのは、母親と同じ仕事に就くことではない。王太子妃の近くから、セブリアン殿下の愛人の椅子を狙っていたのだ。そのために都合がいいから殿下の側近候補のおまえと婚約したと、貴族牢での取り調べで言い放ったそうだよ。父が直にそれを聞いている。あの娘は、自分の婚約者の父親の顔も覚えていなかった。まさか侯爵家当主がいる部屋で、その息子を踏み台にしてやったと暴言を吐いているとも知らずにね。取り調べ担当者は背後の父の殺気を感じていたたまれなかったそうだ。取り調べ室の机で調書を書く仕事を、王妃殿下が快く与えてくださったそうだ。今日中におまえの婚約は破棄されることになる」
「……ビビアナが……僕を踏み台にして殿下の愛人に、まさかそんな……」
「おまえの目には幼い頃のままの可愛らしい令嬢に見えていたのかもしれないが、女性というものは、いつも人生の階段を男よりも素早く登っているものだ。セブリアン殿下に近づこうという野心を抱いている者を、アルバラード公爵家の令嬢ともあろう方が傍に置いてやる義理などあるものか」
僕は椅子に座っていたおかげで、崩れ落ちないで済んでいた。
ビビアナは兄の言うとおり、屈託なく笑う可愛い幼馴染だった。
殿下の婚約者になることが叶わずに、それでも健気に母親と同じ仕事に就くことを望み殿下を支えようとしている、そんなふうに思っていた自分は底抜けの馬鹿ではないか。
踏み台に過ぎなかった僕の底が抜けたのだから、ビビアナが落ちていくのは当たり前なのか。
このところ、セブリアン殿下はビビアナに見向きもせずにアルバラード公爵令嬢と多くの時間を楽し気に過ごしていたとは思っていたが、殿下はビビアナをきちんと見抜いていたのかもしれない……。
殿下は恋を諦めて政略と言う名の婚約者と妥協の結婚をすると決めたのではなく、思い出の小箱の蓋をきっちり閉じてしまい込み、美しく有能な婚約者の手を取ったのだ。
僕の小箱には思い出ではなく生身のビビアナを入れていたから、いつの間にかそれが変質して饐えていたということなのだろう……。
「……では、僕はどうすれば……」
兄は冷たい目を隠そうともしていない。
「父はベルサーニ伯爵家に婚約破棄の慰謝料を求めるだろう。領地を持たない伯爵家には売るものが特にない。伯爵と言っても名ばかりのベルサーニ家が、ビビアナ嬢を売るかもしれない。おまえ自身には特に罰せられる理由はないが、おそらくセブリアン殿下の側近にはなれないだろう。権力の偏りを避けて、アルバラード公爵令嬢の次兄を取り立てることをこれまで王家はしなかったが、今日のトラブルの後始末を上手く捌くのに彼は適任だ。おまえは一旦領地送りになって、しばらくそこで様子を見ることになるだろう」
「そんな……」
「王太子殿下が見抜けた幼馴染の性悪さを、おまえが見抜けなかったのが原因だ。婚約がおまえの希望であったからおまえの不始末となったんだ」
兄は、侯爵家の馬車を裏に回すように手配したから一人で帰るようにと言うと、面談室を出て行った。
もうすぐ始まる儀式の主役であるセブリアン殿下の、一番近くに僕は居るはずだった。
兄の言うとおり、未だに何がいけなかったのかぼんやりとしか分かっていない。
今の僕に分かっているのは、ただ小さい頃から想ってきた幼馴染を婚約者に望んだせいで……いや、ちがう、僕自身に物事を見極める能力が無かったせいで、僕の未来は黒く塗り潰されたということだけだった。
***
「王妃殿下、この特別な日にそのような場所にご足労いただく必要はございません」
「いいのよ。今日は私が何か仕事をする必要はないもの。ほんの少し話を聞くだけで後は皆に任せるのだから」
婚礼の準備をしているフロレンシアの部屋に乗り込んで狼藉をはたらいた侍女とは、バネッサの娘のビビアナだと聞いたのは少し前のことだった。
バネッサの娘が王宮で働いているのは知っていたが、実際に会ったことはなかったので貴族牢に行ってみることにした。
今日を逃せば、二度と顔を見る機会は無いかもしれないのだから。
西棟の地下にある貴族牢は、窓と鏡が無いこと以外は至って普通に設えられた部屋だ。
大きな寝台もソファセットもある。
もっとも、王宮の客室のリネンを一新した時の古い物を使っているので、それなりと言えばそれなりだ。
部屋に入った時、ビビアナはソファではなく寝台に腰掛けていた。
先に入った従者が、『王妃殿下の御前である、立つように』と言うと、ビビアナは驚いたように立ち上がった。
「いいのよ、ソファに座って」
従者に促され、ソファに浅く腰を掛ける。
こうして見ると、なるほどバネッサに良く似ていた。
あごが尖っていて、緑色の大きな瞳を長い睫毛が縁取っている。
髪は明るいブラウンで、後ろでふんわりと一つにまとめていた。
華奢な肩に不釣り合いに見える豊かな胸が、バネッサに本当に似ていて笑いそうになってしまった。
昔のバネッサは、あの胸を陛下の腕にさりげなく当てることをよくしていた。
「あなた、王太子妃付きの侍女になりたかったのですってね」
子供に問うように言うと、ビビアナの顔が明るくなった。
「はい、私は母と同じ、王太子妃付きの専属侍女になりたいと思っています」
「そう。あなた、セブリアンの好きな菓子を言えて?」
「もちろんです! セブリアン殿下はフィナンシェやマドレーヌといった焼き菓子がお好きですわ。バターの香りが高いものを好んで食べてました」
「そうね。ではセブリアンの好きな色はどうかしら」
「殿下は新緑のような緑色がお好きです。これは直接聞いたことがあるので間違いありません」
「では、フロレンシアの好きな菓子は何かしら」
これまで間髪を容れずに答えていたが、急に口籠った。
「フロレンシア様の、お好きな菓子……ですか。えっと……」
「ならばフロレンシアの好きな色は?」
「……それは……」
ビビアナは目をあちこちにやって、忙しなく指を組んだり解いたりしている。
最初にセブリアンの好みを問うた時に、『セブリアン殿下の好みでございますか? 王太子妃となるフロレンシア様のではなくてよろしいのでしょうか』と返せなかったことがすべてだ。
知ろうともしていないことは、思い浮かぶこともない。
この娘もバネッサと同じ。
驚くほど、同じだった。
まさかバネッサが指導したはずもないだろうから、母娘というのはここまで似るものとは恐ろしい。
この手の女に執着されたら、十代の若さではキツネの罠のように逃げられない。
「もういいわ。あなたはセブリアンの好みは得意げに答えても、専属侍女になりたいフロレンシアのことを知ろうともしてこなかったことも、良く分かりました」
「そんな、違うんです! 王妃様、私は母と同じように──」
「あなたの母のバネッサは、陛下がお見えになる時だけ髪を下ろしてホワイトブリムを付けていたの。そして陛下の前で下ろした髪の先をくるくるといじっていたわ。あなたの希望がもしも叶ってフロレンシアの専属侍女になったとしたら、バネッサと同じようにセブリアンの前でだけその髪を下ろしたでしょうね。王太子妃専属になりたいと言いながら、王太子妃となるフロレンシアの好みを知ろうともしないような侍女は、専属侍女どころか王宮のどこにも要らないのよ」
「そんな……酷い……どうして、こんな嫌がらせ……」
ビビアナの小さな呟きが、色褪せたカーペットに吸い込まれていった。
陛下はバネッサに惹かれた時もあったようだが、国務に私と共に向き合っているうちに憑き物が落ちたようにそうした顏をしなくなった。
セブリアンは婚儀よりも前に、そのことに気づいたようで本当に良かった。
私はフロレンシアを励ました。
あの子が思い悩んでいた時に掛けた言葉は、私がその頃誰かに言って欲しかったものだ。
王家がこのビビアナに何かしなくても、ただアルバラード公爵のやることを止めなければいい。
バネッサは今も王宮の片隅で働いている。
別にクビにするまでもなく、遠ざければいいだけだった。
王妃宮ではない場所で、ごく稀に見かけることがあった。
きっちりまとめた髪を解いたところは、あれから一度もないのだろう。
私は部屋を出て行く。
この背中に、バネッサによく似た娘が何か叫んでいるが、振り返るほどの興味も無くなった。
今日も陛下は王として正しくあり、セブリアンもまた正しい道を歩んでいる。
***
侍女の手によって、ドレスの上から勲章のついたリボンが留められた。
勲章はそれほど大きくないのに、ずしりと重い。
それは私が選び、手に入れた人生の重さなのだろう。
侍女はもう一度、鼻筋から頬にかけてパウダーをはたき、それを少し落としてから紅のパウダーを丸く載せる。
赤みのあるピンクとオレンジの口紅を重ね塗りすると、儀式用の化粧が完成した。
そして適度に緩やかに見えるように美しく髪がまとめられ、その天辺に王太子妃となる者だけが使用できるティアラが恭しく載せられた。
大きな鏡の前に立つと、そこにはこれから王太子妃となる私がいた。
婚約そのものが危うくなりかけていた時期もあったけれど、どうにか無事に殿下の心を引き戻すことができた。
投げやりにならなくて本当に良かった。
父もアルバラード公爵家一門も、領民も仕える者たちすべての安寧が約束されたと言える。
ビビアナ様の処遇について、おそらく王家から父に一任されると思われる。
でも、父はそれほど重いものをビビアナ様に与えることはないだろう。
彼女の思い通りにならなかったことと、私が幸せに過ごすことが一番の罰になるだろうから。
ビビアナ様のお母様が今も王宮で働いていることに倣えば、王妃殿下のお心に添ったものになるはずだ。
対外的には完璧に近く誰もが納得できる『未来の王太子妃』の姿を見せる必要があったとはいえ、殿下には私個人を見せなくてはならなかった。
愛が無くてもかまわないと思っていたが、それでは婚姻すら怪しくなってしまうところだった。
幸せになるために、手放してはいけないものをしっかりと握らなくてはならなかったのだ。
私がきちんと殿下と結ばれれば、ルシアノ様も望む幸せを掴めるかもしれないと思っていた。
殿下とルシアノ様はビビアナ様を特別な目で見ていたから、殿下が諦めればルシアノ様の想いを遂げられる可能性が出てくる。
そして実際に二人の婚約が調ったと聞いて、心から良かったと思っていたのだ。
ビビアナ様にとっても侯爵家に縁付くことは、侍女として王宮で仕事をするのであればプラスに働くと思っていた。
殿下の幼馴染のお二人のどちらも完璧ではないものの幸せになれる、そのはずだった。
でも、先ほどのビビアナ様の騒ぎでそれがどうなるか、少し状況が変わってしまったかもしれない。
幸せになるためには、自分の置かれた状況と周囲の在り方、どこに心を置くのか何を隠すのか、過去も未来も見据えて今できることをしていかなければ難しい。
誰もが丸い月のような、文句なしの幸せを掴めるとは思えない。
幸せはいつもどこかに少しの欠けがあるもの。
その『欠け』がどの部分なら自分は大丈夫なのか、それを考えられる者だけがたぶん幸せを掴める。
そしてその少しの欠けから割れてしまうことのないように、私はこの後も弛まぬ努力を続けていく。
「フロレンシア、入るよ」
殿下が、今度は一人で部屋に入ってくる。
すると侍女たちが静かに部屋を出て行った。
「ビビアナ様はいかがでしょうか……。あのように取り乱されて、心配しております」
「今日のところは贈答品の控え室からも下がってもらうことになった。ビビアナは王宮のとある場所に置かれ、ルシアノは侯爵家に戻ったよ。今日の僕の傍には、ルシアノの代わりに君の二番目の兄上が付くことになった。さすがに挙式直前のさまざまな変更という、その難しい役目を任せられるのは彼しかいない。きっと近くで妹である君の美しい姿を見られて喜ぶと思う」
「そうでしたか。次兄でしたら、きっと王太子殿下のご期待に応えられると信じております」
「フロレンシア、その、殿下と呼ぶのを、ここから変えてみないか。できたら、その……名前で呼んで、欲しくて」
殿下が少しつかえながら言うので、思わず笑ってしまった。
私も殿下のことを、以前は一人の男性として見ていなかったのかもしれない。
幼少期に僅かに与えられた人間関係に縋ってしまうくらい、殿下は孤独の中にいた。
殿下と私は、周囲の大人の思惑と価値観によって『おまえたちが最善の組み合わせだから』とサラダボウルの中に放り込まれたようなもの。
混ざり合わなくてもどうにかできたかもしれないけれど、できれば自分たちの意思で互いの良いところを探して見つけて、それを大切にできる関係を作りたい。
愛がなくてもどうにかなったなんて誰かに思われるのは悔しいから、私は愛を生み出していく。
この国の民も幸せにしたいけれど、孤独な殿下のことも自分のことも幸せにしたい。
──殿下はこんなに可愛らしい人だったのだから。
私は殿下のジュストコールの裾をそっと摘む。
「……フロレンシア?」
「セブリアン様、今日は額を見せていらっしゃるので……いつもより大人っぽくてご立派で、少しドキドキしてしまいました」
殿下はパチパチと瞬きをすると、すっとその頬に朱が差した。
そして手の甲で口元を隠す。
「……フロレンシア、ちょっと想像よりも……破壊力、のようなものがあったから……名前呼びは、式典をすべて終えてからにしよう……」
「はい、かしこまりました、セブリアン様」
殿下は喉が見えるほどに大きく口を開け、目をぎゅっとつむって笑った。
──これは、私が見たかった殿下の笑顔だ。
私に向けてもらえなくて、悲しく思ったあの笑顔を今、独り占めできている。
殿下は私を抱きしめようとして、着けられている勲章に目を留めてそうはなさらなかった。
ただ愛おしそうに、触れるか触れないかギリギリのところで頬にそっと手が当てられた。
その目はまっすぐに私をみつめ、熱を帯びた色で縁取られている。
その吸い寄せられるような表情に、思わず目を伏せる。
知らない感情の波に押されて、涙が浮かんだ。
「そろそろ行こうか」
「はい」
「さっき部屋に入ってきた時、すぐに言えなかったことを後悔している。とても綺麗だ、フロレンシア」
「……ありがとうございます」
そっと差し出された殿下の手に未来を預けて、私はゆっくりと部屋を出ていく。
幸せになるために、ここからセブリアン殿下と共に歩いていく。
おわり
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