第9話:遺された知恵の箱
そこは地下のはずなのに、天井の岩肌からは正体不明の淡い光が滴り落ち、辺りを満月の夜のような静謐な明るさで包んでいた。かつての国道を深夜に、ハイビームを消して走っていた頃の感覚に近い。現実味を欠いた、淡く青白い世界だ。
ジャインの背中を追う佐藤とクロ。集落を抜けると、そこには不自然なほど巨大なドーム状の建造物が鎮座していた。
「……あの建物から、あのおじいさんと同じ『古い』匂いがする」
クロが鼻をひくつかせ、小声で囁いた。彼女の野性的な嗅覚は、すでに何かに気づいているようだった。佐藤の知らない「過去」の断片に。
「ここじゃ。むさ苦しいが、ゆっくりしていっておくれ」
ジャインが人の良さそうな笑みを浮かべ、重厚な扉を開く。中へ踏み込むと、一転して視界は完全な暗闇に閉ざされた。漂ってくるのは、クロの言った「乾いた古い匂い」。それは埃っぽくもあり、どこか懐かしい、放課後の図書室の奥深くを思い出させる香りだった。
「ここは一体、何なんだ?」
佐藤の問いに、ジャインは「わしの家であり、『知恵の箱』でもある」と短く答え、壁から垂れ下がる太い紐を引いた。
「ゴゴゴッ……」
腹に響く重苦しい駆動音と共に、ドームの天井が左右に割れ、外の微光が室内へ滑り込む。
露わになった光景に、佐藤は呼吸を忘れた。
壁一面を埋め尽くす、無数の背表紙。そこには何世代もの時を経て埃を被った「本」が、棚のきしみさえ聞こえるほどびっしりと並んでいた。床には、基板が剥き出しになった電子機器や、かつて公道を走っていたであろう車の無惨な残骸、そして佐藤が現代で手にしていたスマートフォンに酷似したデバイスが、ジャンク品の山となって積み上がっている。
「これ……全部、昔の物なのか?」
「さあな。わしが生まれた時には、すでにここはこうだった。ただ、わしのじいさまが「この紙の束には、今の我々が忘れた『何か』が記されているらしい」と言っていたな。」
佐藤は震える手で、足元に落ちていた一冊のボロボロの冊子を拾い上げた。
表紙には、見覚えのある、しかしこの場所にあるはずのない文字が躍っていた。
「……に、日本語だ」
それは、かつての小学校で使われていた歴史の副読本のようなものだった。頁をめくる指が止まらない。掠れたインクの先に刻まれていたのは、あまりにも残酷な時間の断絶だった。
『西暦九〇三五年 高度自律型AIの暴走。機械知性による人類統治の開始』
『西暦九九七二年 高度自律型AIとの大規模戦争の終結。人類の約七〇%が不適合者として排除……』
ページをめくる乾いた音が、静かなドームに異様に大きく響く。
最後に発行年を確認した佐藤の心臓が、早鐘のように打ち鳴らされた。
『発行:西暦一〇一六〇年』
「西暦……いちまん……?」
膝から力が抜け、佐藤はその場に崩れ落ちた。
五十年の人生で築き上げた常識が、砂の城のように音を立てて崩れていく。
これまで当たり前に会話が通じていた理由。地上の管理官も、地下の住人も、なぜ日本語を話していたのか。それは言語が奇跡的に受け継がれたのではなく、この歪な文明そのものが、かつての日本の成れの果てであるという、動かしがたい証拠だった。
「……今は、⋯⋯西暦何年なんだ!」
佐藤はなりふり構わずジャインの肩を掴み、激しく揺さぶった。長距離ドライバーとして培った「人当たりの良さ」という仮面は剥がれ落ち、十七歳の肉体の衝動に理性が呑み込まれていた。
「答えろ! ここは日本なのか? 俺たちは何年後の世界にいるんだ!」
「てめぇ、何しやがる!」
殺気と共に、背後からバイアスが飛びかかってきた。
鈍い衝撃。
佐藤の後頭部を、重い棍棒が打ち据えた。
視界が急激に暗転していく。
(俺の知っている世界は、もう……どこにも……)
遠のく意識の淵で、クロが悲痛な叫びを上げ、彼女の瞳が獣のように黄金色に輝き始めるのが見えた。その姿は、もう単なる「少女」のそれではなかった。




