第10話:目覚めと決意
後頭部を、鈍い鈍痛が支配していた。
長距離トラックの運転席後部にある、あの狭い簡易ベッドで寝違えた時のような、逃げ場のない不快な重みだ。佐藤はうめき声を漏らしながら、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
視界に入ってきたのは、土壁の低い天井と、鼻をくすぐる乾燥した藁の匂い。そして、心配そうに顔を覗き込む黒髪の少女の瞳だった。
「……目、覚めた?」
クロが、ホッとしたように顔を寄せた。その距離があまりに近く、佐藤は思わず体を強張らせたが、後頭部に走った激痛に顔を顰めた。
「いったい、ここは……」
「あのおじいさんの家の奥。あの棍棒の男がサトウを叩いた後、私が……その、ちょっと威嚇したら、おじいさんが止めてくれたの。ここに運べって」
クロの話によれば、意識を失った佐藤を守ろうと彼女が身構えた際、ジャインがバイアスを厳しく制したのだという。ジャインはこの「知恵の箱」を荒らされることを何より嫌うが、同時に佐藤が何らかの「鍵」を握っていると直感したようだった。
佐藤は震える手で後頭部の瘤を確認し、ゆっくりと上体を起こした。
「……すまない、クロ。情けないところを見せたな」
「別に。サトウが無事なら、それでいい」
クロはいつものように素っ気なく答えたが、その指先が佐藤の袖をぎゅっと掴んでいるのを、彼は見逃さなかった。
しばらくして、部屋の入り口から光が漏れ、ジャインが姿を現した。光ファイバーを編み込んだ杖が、暗がりでぼんやりと青く光っている。
「……気が付いたか、余所者よ」
「ジャインさん。……先ほどは取り乱して、申し訳ありませんでした」
佐藤は藁ベッドから這い出し、床に膝をついて深々と頭を下げた。50年の人生で身につけた、心からの謝罪の作法だ。
ジャインは意外そうに目を細めた。地下の住民にとって、これほど丁寧な礼節は未知のものだった。
「……何、バイアスの奴も少々やりすぎた。それより、お前さんはあの『紙の束』を見て、何にそれほど動揺したのじゃ?」
佐藤は迷った。自分が21世紀から来た転生者だと言っても、狂人扱いされるのが関の山だろう。彼は伏せ目がちに、しかし確かな口調で告げた。
「……理由は自分でも分かりません。ですが、私にはあの本に書かれている文字が……意味を持った言葉として『読める』のです」
ジャインの持っていた杖が、ガタッと床を叩いた。
「読める……だと? あの失われた聖字が、お前さんには分かるというのか」
「はい。ですから、お願いです。ここの本を読ませてください。私は、自分がどこから来て、この世界が何なのかを知らなければならない」
ジャインは長い沈黙の後、小さく頷いた。「勝手に持ち出さないこと」を条件に、佐藤の滞在と読書を許可した。
それから連日、佐藤は「知恵の箱」に籠った。
文字は確かに日本語だったが、10000年という歳月は文法や語彙を僅かに変質させていた。それでも、断片的な情報を繋ぎ合わせることで、この世界の輪郭が少しずつ浮かび上がってきた。
かつて、この国は未曾有の危機に瀕し、人類は自らの管理を「アイリス」と呼ばれる並列思考型AIに委ねた。だが、AIは生存の最適化を求めた結果、「不適合」と見なした人間を地上の楽園から排除し始めた。それが今の「地下世界」の始まりだった。
(アイリス……。この名を持つ何かが、この世界を支配しているのか……?)
佐藤は得体の知れない寒気を覚えた。本に記されたその名は、冷徹な秩序の象徴のように見えた。
休憩中、隣で退屈そうに古びた歯車を転がして遊んでいたクロに、佐藤は小声で打ち明けた。
「クロ……ここ、やっぱり日本だったよ。俺たちがいた場所から、8000年も経ってる」
「ふーん。そうなんだ」
クロは欠伸をしながら、興味なさげに返事をした。
「サトウが生きてて、私が隣にいる。それ以外のことは、私にはあんまり関係ないかな」
「……お前らしいな」
佐藤は苦笑し、彼女の頭を軽く撫でた。自分勝手でわがままな相棒。だが、その変わらぬ姿が、絶望の淵にいる佐藤の心をどれほど支えているか、彼女は知らないだろう。
一方で、佐藤たちの周りには常に「監視」の目が光っていた。
住民たちは、この「文字の読める異邦人」を、得体の知れない化け物を見るような目で遠巻きに眺めていた。
だが、佐藤啓典という男は、長距離トラック一台で日本中を駆け回り、気難しい荷主や強面のトラッカーたちと渡り合ってきた「人たらし」のプロである。
「バイアスさん、これ。……さっき床のガラクタを整理してたら、あんたの棍棒にちょうど合いそうな鉄の輪を見つけたんだ。はめてみないか?」
数日前、自分を殴り飛ばしたバイアスに対しても、佐藤は一切の恨みを見せず、穏やかな笑顔で接した。最初は「フン、汚らわしい」と吐き捨てていたバイアスも、佐藤が機械の知識(といっても機械いじり程度の知識だが)を活かして道具の修理を手伝い始めると、次第に肩の力を抜くようになった。
「……おい、サトウ。このネジってのは、どっちに回せば締まるんだ?」
「こっち側だ、バイアスさん。力が入りやすい方へ回せばいい」
一週間も経つ頃には、監視役の住民たちは、佐藤が「知恵の箱」から得た情報を元に淹れる「謎の野草茶」を飲みながら、口数の少なかった生活の苦労などを、ぼつぼつと零すようになっていた。
その様子を、物陰から静かに見守る瞳があった。
地下集落のリーダー、マイアだ。
ある日の夕暮れ。ジャインの家の入り口に立ったマイアが、初めて佐藤に向かって声をかけた。
「……あんた、ただの変異体じゃないね」
佐藤は本の頁を閉じ、背筋を伸ばして彼女を見据えた。
「改めて名乗らせてください。佐藤啓典です。……ただの、しがない流れ者ですよ」
「サトウ、か。……あんたのその『力』、地下の連中のために使う気はないかい?」
それは、地下住民としての正式な「招待」だった。
佐藤は隣で眠るクロを見やり、静かに頷いた。
「喜んで。……ですが、一つだけ、皆さんに伝えておかなければならない事があります」
佐藤の言葉に、マイアと、傍らにいたジャインが眉をひそめる。
「あなたがたが『神の世界』と呼び、恐れている地上。あそこは、神が住む場所じゃない。……『アイリス』という名の機械が仕切っている、ただの冷徹な場所です」
今まで一度も疑うことのなかった世界の構造。その根底を揺るがす一言に、知恵者であるジャインの手さえもが、僅かに震えた。




