第4節:皇子問題が国家案件に
祝祭が始まる直前。
大神殿の控室の空気が、急に薄くなった。
香が消えたわけではない。
もっと強い匂い——権力の匂いが入ってきたのだ。
扉が開く。
そこに立っていたのは、王だった。
「失礼する」
一言で、部屋の温度が変わる。
王は、花より先に入ってくる冬の風みたいな存在だ。
どこにいても、空気が王を避けて流れる。
「へ、陛下……!?」
私たちは慌てて立ち上がった。
リザは即座に膝を折り、マンディも仕方なく礼を取り、ルークはぎこちなく頭を下げる。
セラだけが、一瞬固まり、次いで遅れて礼をした。
その遅れは、心の動揺の遅れだった。
王は手を上げた。
「座ってくれ。時間がない。端的に話そう」
王の顔は疲れていた。
疲れた王は、国の重さを背負っている証拠だ。
その重さは、嘘をつく余裕を奪う。
だから、王が疲れている時の言葉はだいたい真実に近い。
「枢機卿ツィチェン・イッツァ・アッゲーノ——あの男を信用してはならない」
私は、喉の奥で息を飲んだ。
「……陛下?」
「奴は、邪神信者の残党だ」
一言で、控室の壁が狭くなった気がした。
真実というのは、部屋を狭める。
逃げ道を減らすから。
「やはり……」
セラが小さく呟く。
その声が震えたのは、恐怖よりも、予感が的中した虚しさのせいだった。
王の視線が、セラに向く。
「セラフィン」
空気が止まった。
その名は、本来ここで呼ばれるべきではない。
セラの肩が跳ねた。
「……私も、狙われている」
王は頷く。
「ああ。王族の血は、邪神復活の儀式に必要とされる」
血。
信仰が血を求めるとき、国家は理性を失う。
そして理性を失った国家は、だいたい宗教に負ける。
「で、では……私はどうすれば……」
セラの声が、今度は本当に震えた。
皇子の震えは、弱さではない。
自分の体が政治の道具だと理解した者の震えだ。
王は短く言った。
「《黒薔薇の園》と共にいろ。彼らなら、お前を守れる」
その言葉は、命令ではなく懇願に近かった。
王が懇願する時、国家は崖の縁にいる。
「だが、問題がある」
王の表情が曇る。
「枢機卿はルミナス教の最高権威だ。王権でも簡単には止められない」
「では……」
ルークが言いかける。
彼はまだ、剣で正義が勝てると信じている目をしている。
その目は眩しい。眩しいほど、世界は残酷だ。
王は私を見た。
「だからこそ、お前たちの力が必要なのだ」
私の胸の奥で、嫌な音が鳴った。
責任が、また増える音。
「シルヴィア・ド・ノワール。お前の高笑いは民を魅了する。そして——枢機卿をも惑わせる」
惑わせる。
私は惑わせた覚えはない。
ただ笑っただけだ。
けれど、世の中は「意図のない行為」に意味を与えて物語を作る。
「儀式の最中、隙を見つけて枢機卿を止めてくれ」
止める。
命令は短いほど重い。
私は息を吸った。
声優の仕事は、息で始まる。
戦いも同じだ。
「分かりました」
私は頷いた。
微笑みは保ったまま。
心だけが、少しずつ硬くなる。
「必ず、止めてみせます」
王は一度だけ、ほんの少しだけ目を細めた。
その表情が「感謝」に見えたのは、私の錯覚かもしれない。
「頼んだぞ」
王は立ち上がった。
「私も外から支援する。だが最後は、お前たちに任せる」
そう言い残して、王は去っていく。
扉が閉まると、控室の空気が戻ってきた。
香の匂いも戻ってきた。
けれど戻ってきた空気は、さっきより重い。
真実を吸い込んだ肺は、もう軽くはならない。
「……師匠」
リザが私を見る。
その目は剣のように真っ直ぐで、薔薇のように優しい。
「いよいよ、ですわね」
「ええ」
私は頷く。
マンディが笑った。
「やるだけだろ。拳で祈るか、剣で祈るか、頭で祈るか」
「その言い方、祈りの概念を壊してません?」
セラが小声で突っ込み、ルークが真顔で頷いた。
「僕は……剣で祈ります」
(祈りって、そういうものだったっけ)
私は思わず口元が緩みそうになる。
こんな時に笑いそうになるのは、たぶん人間が壊れないための仕組みだ。
私は手を軽く叩いた。
「みんな、準備はいい?」
「もちろんです!」
四人の声が揃う。
揃った声は、軍隊ではなく家族の響きだった。
その響きが、私の胸の奥の恐怖を少しだけ和らげる。
「それじゃあ——行きましょう」
扉の向こうには、祝祭の光がある。
光の中には、罠もある。
でも、今は逃げない。
だって私は、悪役令嬢役専門声優だ。
観客がどれだけ期待しても、舞台の最後の笑い声は、こちらが選ぶ。
そして私たちは、祝祭の会場へ向かった。
足音が五つ。
そのうち一つは、静かな暮らしを望んだまま、まだ諦めていない足音だった。
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