第2節:枢機卿の「気高き笑み」査問
枢機卿の執務室は、音のない箱だった。
扉が閉まった瞬間、大神殿のざわめきが遠い海のように引いていく。
室内には香が満ち、香は空気を重くし、重みは言葉を遅くする。
言葉が遅くなる場所は、嘘に有利だ。
だから私は、微笑みだけは軽く保った。
窓は細く、光は糸のように垂れていた。
糸の光が机の上の聖典を撫でる。
机は黒檀、椅子は彫刻のように硬い。
柔らかい椅子は人を油断させるが、硬い椅子は人を正直にする。
少なくとも、枢機卿はそう信じている顔だった。
向かいの男は、穏やかな笑みを貼り付けている。
だがその笑みは、花ではなく仮面だ。
仮面の下で、本当の顔がどんな風に息をしているのか、香が邪魔をして読み取りにくい。
「それでは、シルヴィア・ド・ノワール」
枢機卿は、聖典を開いた。
紙の擦れる音が、裁判の槌みたいに響く。
「気高き笑みが野に薔薇を咲かせ、天を清める。この一節を、知っているか?」
「はい、存じております」
私は、背筋を正した。
声優の現場でも、こういう瞬間がある。
台本の一行が、人格を試してくる瞬間。
「そして、お前の高笑いがこの一節と重なると、民は噂している」
「恐れ入ります」
私は礼を返す。礼は、相手の刃先を少しだけ鈍らせる。
けれど枢機卿の瞳は鈍らない。
むしろ、研ぎ澄まされる。
「だが」
聖典が閉じられた。
ぱたん、という音。
閉じる音はいつも、開く音より残酷だ。
扉でも、本でも、心でも。
「聖典の解釈は枢機卿院が司る。民の噂だけでは認められぬ」
私は黙った。
黙るのは同意ではない。
黙るのは、言葉の弾薬を温存する戦術だ。
枢機卿は立ち上がり、ゆっくりと机を回り込んだ。
私の側に来る。
この距離感は、舞台の演出で言えば「圧」。
観客の心臓を掴むための近さ。
「よって、私が直接、お前の気高き笑みを確かめさせてもらう」
枢機卿の声が、少しだけ低くなる。
低い声は、床の上を這う。
床を這う声は、逃げ道を塞ぐ。
「今ここで、お前の高笑いを披露せよ」
「……今、ですか?」
口から出た言葉が、やけに薄い。
私は自分の声が、声優の声ではなく「罪人の声」に近いことを自覚した。
「そうだ。聖典に適うか、この目で見極める」
見極める。
つまり、裁く。
私は立ち上がった。
椅子の脚が床を擦る音が、ひどく大きい。
心臓がそれに合わせて鳴る。
深呼吸。
腹式呼吸。
声帯を開く。
喉の奥の空洞に、音を置く。
それは祈りと同じ手順だ。
息を吸い、息を吐き、世界を一瞬だけ自分のリズムに合わせる。
そして私は、微笑んだ。
悪役令嬢の微笑みは、貴族の礼儀であり、戦場の宣戦布告でもある。
「おーっほほほほほっ!」
笑い声が、執務室の壁にぶつかって跳ね返り、天井の高みで一度溶け、また降りてくる。
優雅に。気高く。
完璧に。
……そのはずだった。
枢機卿が目を見開いた。
その瞳が、驚きではなく飢えに変わっていくのが分かる。
信仰の飢え。
真理を独占したい者の飢え。
「……これは」
声が震える。
震えは、人が心の奥で何かを見つけたときに起こる。
「まさに……聖典の具現……!」
枢機卿は膝をついた。
法衣が床に広がる。
偉い人が膝をつくと、世界の重力が一瞬だけ変わる。
私の方が上に立ってしまった、という構図が出来上がってしまう。
「素晴らしい……これほどの気高き笑み、初めて聞いた……!」
(……え?)
私は困惑した。
いま私がやったのは、いつもの仕事の延長だ。
なのにこの男は、神を見た顔をしている。
「シルヴィア・ド・ノワール」
枢機卿が顔を上げる。
そこにあったのは崇拝の光。
けれど崇拝は愛と同じ形をして、支配にもなる。
「お前は、真に聖典の化身だ」
「い、いえ……」
「謙遜は無用。お前の高笑いは神意そのもの」
神意。
便利な言葉だ。
責任の押し付けに、これほど便利な言葉はない。
枢機卿は立ち上がり、私の手を取った。
冷たい指。
聖職者の手は温もりがあるべきだと私は勝手に思っていた。
けれどこの手は、陶器みたいに冷たい。
「よって、今宵の祝祭で、お前に聖なる笑みの儀式を執り行ってもらう」
「……儀式?」
「祝祭のクライマックスで、お前が高笑いを披露する。それが今年の祝祭の目玉となる」
目玉。
祭りは見世物。
信仰は舞台。
私はその主役に据えられた。
「ちょ、ちょっと待ってください……!」
私は思わず声を上げた。
声優は、台本のない台詞に弱い。
本当の恐怖は、アドリブで来る。
だが枢機卿は微笑むだけだった。
その微笑みは、薔薇の香りに似ている。
美しいのに、どこか刺さる。
「準備は整っている。後は、お前が高笑いをするだけだ」
その言い方が、あまりにも軽い。
私の笑いは、舞台を締めるための演技だった。
なのに今、世界を開く鍵として扱われている。
鍵というものは、扉の向こうの闇を呼び込むこともある。
私は微笑みを崩さず、心の中だけで言った。
(……これは、絶対におかしい)
そしてその瞬間、外の廊下から、かすかな鐘の音が聞こえた。
祝祭の鐘。
人を集めるための音。
逃げ道を塞ぐための音。
私の背中に、冷たい汗が一筋流れた。
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