プロローグ
# プロローグ
静かに暮らしたい。
それだけが、私の切実な願いだった。
だが現実は――
「師匠ォォォォ! 今日も依頼が三十件来てますッ!」
聖王都ルミナスの冒険者ギルド本部、三階の一室。
《黒薔薇の園》専用の応接間に、マンディの叫び声が炸裂した。
応接間、という名の豪華すぎる拷問部屋である。
壁一面に薔薇の紋章。窓からは白亜の王宮が見える。調度品は全て特注品。
そして扉の前には、依頼書を抱えた冒険者たちの行列が連日続いている。
私はソファに深く沈み込み、天井を仰いだ。
(なぜ、こうなった……)
私の名は、シルヴィア・ド・ノワール。
表向きは、冒険者クラン《黒薔薇の園》のクランマスター。
だが本当は――
元・悪役令嬢役専門の声優、黒瀬しのぶである。
異世界に転移して、はや数年。
私がやったことは、ただ一つ。
**静かに暮らすために、目立たないように生きること。**
それだけだった。
それだけのはず、だった。
「師匠、こちらの依頼は王宮直々の正式要請です。断れません」
リザ――エリザベート・フォン・クリムゾンが、淡々と依頼書の束を私の前に置く。
赤い髪、鋭い瞳。剣聖と呼ばれる彼女は、私を「絶対防御対象」として認識している。
(違う。私はただの声優で、あなたたちの師匠なんかじゃない……!)
だが、そんな悲鳴は喉の奥で押し殺すしかなかった。
なぜなら――
「師匠は、かつて仰いました。『役を生きる者は、舞台を降りても役であり続ける』と」
リザが、真剣な表情で言う。
(それ、演技論だから! 舞台上での話だから! 現実で適用しないで!)
「そして、『観客の視線こそが、役者の刃を研ぐ』とも」
マンディが、拳を握りしめて頷く。
(だからそれも演技論! メタファー! 比喩! 文字通りの意味じゃない!)
だが、私の内心の絶叫など、彼女たちには届かない。
いや、届いたとしても、きっと「師匠の深淵なる教え」として解釈されるだけだろう。
私は、深く息を吸った。
腹式呼吸。声優時代に叩き込まれた技術。
そして――
「おーっほほほほほっ!」
高笑いが、部屋に響いた。
優雅に。
気高く。
そして、完璧に。
これは、誤魔化しである。
絶望を隠すための、防衛本能である。
だが――
「っ……!」
リザとマンディが、息を呑んだ。
二人の瞳に、畏敬の光が宿る。
「今日も、師匠の笑みは完璧ですわ……」
「聖典の一節、そのものだ……」
二人が、そっと膝をついた。
(やめて)
私の内心が、悲鳴を上げる。
だが、現実はさらに加速する。
窓の外――
曇天に裂け目が生まれ、一筋の光が差し込んだ。
偶然である。
ただの気象現象である。
だが――
「……神意だ」
マンディが、震える声で呟いた。
「『気高き笑みが野に薔薇を咲かせ、天を清める』……聖典の一節が、今ここに」
リザが立ち上がり、窓辺に歩み寄る。
「師匠。民が、跪いています」
私は、ゆっくりと窓に近づいた。
そして、見てしまった。
ギルド前の広場。
そこに集まった冒険者たち、商人たち、市民たちが――
一斉に、跪いていた。
光に向かって。
いや、この部屋に向かって。
(違う……! ただの天候だから! 私は何もしてない! 高笑いしただけ!)
だが、声は出せなかった。
いや、出してはいけなかった。
なぜなら、この瞬間こそが――
**私が「シルヴィア・ド・ノワール」として生きるための、儀式**だったからだ。
「……依頼は、精査なさい」
私は、努めて冷静に告げた。
優雅に。指導者らしく。
「私たちは、光に仕える者ではなく、己の意志で剣を振るう者ですわ」
リザとマンディが、顔を上げる。
「さすがです、師匠」
「俺たちは、師匠の教えを守ります!」
二人の瞳が、さらに輝く。
(違う、そうじゃない……)
だが、もう止められない。
勘違いは、もはや信仰と化している。
私は、再びソファに座り、目を閉じた。
(静かに暮らしたい……)
その願いだけが、胸の奥で小さく燻り続けていた。
* * *
その日の夕刻。
ギルド本部の掲示板前に、一人の少年が立っていた。
茶色の髪、素朴な顔立ち。
Fランクの冒険者証を握りしめた、新人冒険者。
彼の名は、ルーク・アッシュフォード。
そして彼は――
掲示板に貼られた一枚の紙を、食い入るように見つめていた。
**《黒薔薇の園》新規メンバー募集**
この一枚の紙が、少年の運命を変える。
そして、私の「静かに暮らしたい」という願いを、さらに遠ざけることになる。
――だが、それはまた、別の話である。




