第8章
年が明け、寒さが一段と厳しさを増す2月。羽田空港では新システムの運用も順調に進み、業務はスムーズさを取り戻していた。しかし、日常の中にも小さな波紋が広がることがあった。
その日の昼休み、真奈美が管制室から女子トイレに向かうと、洗面台の前で携帯を握りしめた篠田の姿を見つけた。彼女は俯き加減で、目には涙を浮かべていた。
「篠田さん、大丈夫ですか?」
真奈美が心配そうに声をかけると、篠田は慌てて顔を上げ、携帯をバッグにしまい込んだ。「あ、真奈美。大丈夫。何でもない。」
「でも、何かあったら無理しないで相談してくださいね。」
篠田は一瞬だけためらったようだったが、小さく笑みを作り、「本当に何でもなから。」と答えると、足早にトイレを後にした。
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その後、レーダールームに戻った篠田はいつも通り業務に取り掛かったが、内田は彼女の様子が普段と違うことに気づいた。
「篠田、今日何かあったのか?」
「え?いえ、何も。」
内田は彼女の返答に少し不満げな表情を見せたが、それ以上追及はしなかった。しかし、心の中では彼女を気にかけていた。
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その日の夜、羽田空港はいつものように忙しいフライトスケジュールをこなしていた。しかし、20時を過ぎた頃、空港の貨物エリアから火災が発生したとの緊急通報が入った。
「火災発生だ!場所は貨物エリアの南側だ!」
佐藤が声を張り上げ、管制塔全体に緊張が走った。片山がすぐに指示を出した。
「真奈美、現在の航空機の状況を確認しろ。鈴木、貨物エリア周辺の機体を安全な位置に移動させるよう誘導してくれ。」
真奈美は迅速にディスプレイに目を走らせ、各機体の位置と状況を確認した。
「貨物エリア周辺には3機の貨物機がいます。全て地上に駐機中です。」
「よし、まずは火災から遠ざける。」片山は鈴木に向かって言った。
一方、レーダールームでは三津谷雄介と内田、篠田がそれぞれの役割に集中していた。
「火災による煙が風で滑走路の一部に流れ込んでいる。滑走路Aは一時的に使用停止だ。」三津谷が状況を報告した。
「了解!他の滑走路に変更できるよう調整します!」内田がすぐさま応答する。
篠田も自分のモニターに集中しながら、到着予定の航空機のリストを確認していた。「到着機は滑走路Cへ誘導できます。ただし、到着順に調整が必要です。」
三津谷が頷きながら答えた。「そのまま調整を進めてくれ。内田、現在の便に連絡して滑走路変更を通知してくれ。」
「了解です!」内田は早速無線で各機体に連絡を取り始めた。
篠田の表情にはまだ少し影があったが、彼女の手際は的確だった。内田がふと彼女を見て声をかけた。
「篠田、大丈夫か?」
「ええ、問題ありません。」
その返答に内田は少しだけ眉をひそめたが、それ以上は言わず、再び業務に戻った。
管制塔では、片山が冷静に次々と指示を出していた。
「火災が収まるまで貨物エリアへのアクセスは完全に遮断する。真奈美、付近の旅客機にも警戒を促してくれ。」
「了解しました!」
鈴木もまた迅速に対応していた。「貨物エリアに近いターミナルの搭乗客への案内を徹底するよう、各航空会社に伝えます。」
その間、佐藤は現場の消防隊と連絡を取り、状況を確認していた。「現場は今、鎮火作業中だ。今のところ負傷者はいない。」
「良かった。」片山は安堵の表情を見せたが、まだ気は抜けなかった。「引き続き警戒を続けよう。」
管制室全体は緊張感に包まれながらも、全員がそれぞれの役割を全力で果たしていた。真奈美は心の中で祈るような気持ちで業務に当たっていた。「無事に収まってほしい。」
片山は時計を確認しながらつぶやいた。「この状況がいつまで続くかはわからないが、今は乗客と航空機の安全を第一に考えよう。」
その言葉に、みんなも頷いた。
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貨物エリアからの火災は、空港の出発ゲート窓からも確認できるほど激しく燃え上がっていた。夜空を赤く染める炎と立ち上る黒煙に、空港全体が緊張感に包まれていた。乗客たちは出発ゲートの窓際に集まり、携帯電話で写真を撮る者や不安げにスタッフに尋ねる者が続出していた。一部の子どもは炎の大きさに驚き、親にしがみついていた。スタッフは冷静に状況を説明し、落ち着かせようと努力を重ねていた。
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火災発生から2時間が経過。片山をはじめとする管制官たちは、空港全域の航空機運航を支えるため懸命に対応を続けていた。
管制塔では片山が全体の指揮を執り、真奈美と鈴木がそれぞれの役割を果たしていた。
「真奈美、到着予定のJAL127便だが、予定していた34Lがまだ使用できない。他に適した滑走路はあるか?」片山が的確に問いかける。
「34Rが使用可能です。ただ、現在も消防車両が滑走路付近を移動中なので、誘導経路に注意が必要です。」真奈美がモニターを見ながら答える。
鈴木がすぐに補足した。「22、23も引き続き使用可能です。ただ、貨物エリアに隣接する誘導路が部分的に封鎖されています。」
片山は状況を整理しながらうなずいた。「では、34Rを優先使用に設定し、誘導に注意を促してくれ。滑走路23と22をバックアップとして維持する。」
「了解しました!」真奈美と鈴木が声を揃えた。
片山は二人を見渡し、小さく微笑んだ。「よし、この調子で行こう。」
一方、レーダールームでは三津谷が空港全域の航空機の動きを監視していた。内田は到着予定機の状況を整理し、篠田が各航空会社との連絡を担当していた。
「滑走路34Lが完全に使用不可です。次に到着するANA202便を滑走路23に振り分けました。」内田が報告する。
三津谷は即座に反応した。「よし、ANA202便は滑走路23を使用。その後の予定機も確認しつつ、調整を続けよう。」
篠田が補足した。「到着機が増える時間帯ですので、航空会社には早めの調整を依頼しています。」
内田は、「よしよし、どんと行ってやるか。」と言いながらも、手際よく業務を進めていた。その飄々とした態度の裏には、確かなスキルと責任感が見え隠れしていた。
三津谷が篠田をちらりと見た。「篠田、無理するなよ。何かあれば言え。」
篠田は小さく息を吐きながら、「任務は全うします。それが私の仕事ですから。」と答えた。その声には覚悟と気丈さがにじんでいた。
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日付が深夜0時を回る頃、消防隊の懸命な消火活動が実を結び、ついに火災は鎮静化した。管制塔からも、燃え盛っていた炎が次第に小さくなり、黒煙が収まっていく様子が確認できた。
「火災鎮火の報告が入った。」佐藤が管制塔全員に伝えた。
片山は安堵の表情を浮かべたが、すぐに業務に意識を戻した。「全航空機に最新の情報を共有し、安全確認を徹底してください。」真奈美はすぐに通信を開始した。「こちら東京タワー。火災は鎮火しました。現在の滑走路使用状況を確認し、指示をお待ちください。」
鈴木も素早く動き、「誘導路封鎖の解除手続きを始めます。」と報告した。
レーダールームでも、火災鎮火の情報が共有された。
「やっとか。」内田が深く息を吐いた。
「気を抜くな。これからが重要だぞ。」三津谷が冷静に返す。
篠田も「到着予定機の再調整を進めます。」と声を上げ、迅速に作業を開始した。
三津谷は再び画面に目を戻しつつ、「引き続き正確な情報共有を頼むぞ。」と全員に声をかけた。
内田は短くうなずき、篠田も真剣な表情で画面に向き直った。
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その夜、片山たち管制官の迅速で的確な対応により、航空機の運航への影響は最小限に抑えられた。火災という突発的な事態を乗り越えた彼らには、達成感と疲労が入り混じった感情が広がっていた。
片山は最後に管制塔全員に向けて言葉をかけた。「みんな、お疲れ様。この状況でここまで対応できたのは、全員の協力のおかげだ。」
その言葉に、真奈美たちは小さく頷き、笑顔を見せた。
羽田空港の長い夜がようやく終わりを迎えつつあった。
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火災発生から一夜明けた翌朝、羽田空港はいつもの喧騒を取り戻しつつあった。空港内の大型スクリーンやテレビのニュースでは、昨夜の火災の詳細が大々的に報じられていた。
「昨夜発生した羽田空港での火災において、迅速な対応を見せた消防隊や管制官を始めとした空港スタッフの行動が被害を最小限に食い止めました。」テレビの画面に映るアナウンサーは、冷静な口調でそう伝えた。画面には、煙の上がる現場の映像が流れている。「この対応は、まさにプロフェッショナルと言えるものです。」
朝のミーティングで佐藤は開口一番、彼らの働きを称賛した。その背景では、壁に設置されたテレビが引き続き昨夜のニュースを流していた。
「みんな、本当にご苦労だった。昨夜の状況でここまで迅速かつ正確に対応できたのは、君たち全員の努力に感謝する。」
部長の温かい言葉に、チーム全員が少しだけ表情を緩めた。しかし、その中で篠田だけはどこか上の空な様子だった。椅子に座りながらも、どこか気もそぞろで、目の前の資料にもほとんど目を通していない。
内田が、彼女の様子に気づき、いつもの陽気な調子で声をかけた。「おい篠田、大丈夫か? 全然元気ないじゃん。何かあったら遠慮せず相談しなって。」
真奈美もその言葉に続けた。「そうですよ、篠田さん。私たちチームなんですから、一人で抱え込む必要ないですよ。」
しかし、篠田は深いため息をついてからぽつりとつぶやいた。「私の気持ちなんて、わかるわけないじゃないですか。」
その言葉に、一瞬場の空気が凍りついた。片山が冷静に間を取りながら、穏やかな声で語りかけた。「話してみな。どんなことでもいい。こういうのは、みんなで解決していくものだ。」
篠田はしばらく黙り込んでいたが、やがて意を決したように口を開いた。「……推しが、結婚したんです。」
「え?」と声をそろえる一同。真奈美が思い出したように、「もしかして……片思いの人ですか?」と尋ねた。
篠田は肩を落としながら続けた。「カイトが結婚して、しかもグループを脱退するって……。もう立ち直れません。」
その名前に、内田がピンときた。「カイトって、あの『BELIEVERS』のメンバーの?」
「そうです!」篠田は力強く答えた。そして、自分がどれだけ熱心なファンだったか、カイトの追っかけとして地方遠征もしていたことを滔々と語り始めた。
真奈美がふと思い出したように質問した。「そういえば篠田さん、前に早退したり、クリスマスの直前にすごい勢いで帰ってたことありましたよね。」
内田も頷きながら続けた。「あ!あの時も、もしかしてイベントがあったから急いでたんだな?」
篠田は少し恥ずかしそうに笑いながら答えた。「そうです。ライブは絶対に見逃せないので、スケジュール調整して頑張って行ってました。」
他のメンバーは唖然としながらも、次第にその熱量に圧倒されていった。内田が励ましのつもりで口を開いた。「気持ちはわかるよ。俺だって先週、彼女にふられたばっかだし。」
しかし、その言葉はすぐさま三津谷に突っ込まれた。「お前、またコロコロ相手変わってるじゃないか。篠田の話とは次元が違うだろ。」
篠田も、「本当ですよ。一緒にしないでください!」と呆れたように返す。そのやりとりに、張り詰めていた空気が少しずつ和らいでいった。
その様子を見ていた佐藤が提案した。「よし、今夜は夜間チームと交代だし、みんなで慰労会をやろう。美味いものでも食べて、ゆっくりしよう。」
「賛成!」と真奈美が即答し、他のメンバーも次々に賛同した。
その時、鈴木が片山に問いかけた。「片山さんも来ますよね?」
片山は一瞬考えた後、佐藤に5000円を手渡しながら答えた。「すみません。自分は業務の後に片付けたい仕事があるので、残ります。その分みなさんで楽しんでください。」
その言葉に、一同は片山の真面目な性格を改めて感じ取った。
その後、三津谷が申し訳なさそうに言った。「すみません、私も今日は娘の誕生日なんです。プレゼントを買って早く帰らないといけなくて……。」
その言葉に、他のメンバーは一瞬驚いたがすぐに理解を示した。
「志帆ちゃん、良いお誕生日を迎えられるといいですね。」真奈美が優しく続けた。
三津谷は少し照れくさそうにしながらも、「すまないな、ありがとう。」と頭を下げた。
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羽田空港近くの居酒屋では、真奈美、鈴木、内田、篠田、そして佐藤がテーブルを囲み、酒を酌み交わしていた。暖かい照明の下、皆がリラックスした様子で談笑している。店内は賑やかで、遠くから聞こえる他の客の笑い声とともに、仲間たちの声が響いていた。
篠田はグラスを片手に、少し頬を赤らめながら熱弁を振るっていた。「やっぱりカイトは最高だったんですよ! BELIEVERSの曲もダンスも完璧で…。彼がグループを脱退するなんて信じられません!」
「篠田、分かったから少し落ち着こう。」鈴木が微笑みながらフォローする。「それにしても、篠田の推し活の熱意には頭が下がるよ。」
内田がそれに続けて口を開いた。「そうそう。でも、推しがいるっていいよな。俺なんか、推しどころか彼女にも振られちまうし。」
「それ、何回目だっけ?」と三津谷に突っ込まれ、テーブルは笑いに包まれた。
佐藤はグラスを手にして乾杯を提案した。「まあまあ、今日はみんなで楽しむ日だ。乾杯しよう!」
「乾杯!」と声を合わせてグラスを鳴らす。その瞬間、日々の業務での緊張感が一気にほぐれた。
その後も話題は尽きず、内田が最近読んだ小説の話を熱心に語ると、真奈美は「内田さんって意外とロマンチストなんですね」と感心した様子を見せた。
「そう見えるか? 実は結構涙もろいんだぜ。」内田が茶化すように言うと、篠田が笑いながら「それでまた彼女に振られたんですか?」と突っ込んだ。場の雰囲気はますます和やかになり、佐藤も楽しげに皆のやり取りを見守っていた。
真奈美は片山が来なかったことを思い出しながら、「片山さんもたまにはこういう場に来ればいいのに」とぼそっと言った。佐藤は微笑みながら「片山は、片山なりにやることがあるんだろう」と答え、皆が軽く頷いた。
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その頃、三津谷はプレゼントとケーキを手に、足早に家路を急いでいた。川崎駅から徒歩で自宅のマンションへ向かう道すがら、彼は娘の志帆の喜ぶ顔を思い浮かべていた。
自宅のドアを開けると、志帆が走り寄ってきた。「パパ! おかえり!」
「ただいま、志帆。誕生日おめでとう。」三津谷は笑顔で娘の頭を撫でながら、小さな箱に入ったプレゼントを手渡した。
リビングには妻の典子が準備したカラフルな飾り付けが施されており、テーブルの上には手作りの料理と三津谷が持ち帰ったケーキが並んでいた。
「パパ、これなあに?」志帆がプレゼントの包装を開けながら聞く。
「それはね、志帆がずっと欲しいって言ってた人形だよ。」
箱から取り出された人形を見て、志帆は声を上げて喜んだ。「やったー! パパありがとう!」
典子も微笑みながら三津谷に声をかける。「家族の時間も大切にしてくれて、本当にありがとう。」
三津谷は少し照れたように笑いながら答えた。「いや、典子がいつも支えてくれているからこそ、こうして頑張れるんだ。これからもよろしく頼むよ。」
家族三人でケーキを囲み、笑顔の絶えないひとときを過ごした。
その後、志帆が人形を手に持ちながら「これ、おじいちゃんにも見せたいな」と言った。それを聞いた三津谷は一瞬考え込み、「そうだな。次に長野に行ったときに持って行こう」と優しく答えた。
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一方、片山は羽田空港のオフィスに残り、自分のデスクで仕事を続けていた。薄暗い室内には蛍光灯の明かりだけが灯り、静かな空間が広がっている。彼の机には資料やフライトプランが積み重なり、片山は真剣な表情でそれらをチェックしていた。
仕事の合間、片山は管制塔の窓へと向かった。外は静けさを取り戻した夜の空港が広がり、滑走路の誘導灯が点滅している。航空機が整然と並ぶその光景に、片山は一瞬目を細めた。
「静かだな…。」
彼は独り言のように呟くと、深呼吸をして再びデスクへ戻った。片山にとって、この静寂の中でのひとときは、自分の使命を見つめ直す時間でもあった。
そしてまた一つの書類に目を通し始めた。目の前には、終わりのない管制官としての使命が広がっていた。
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それぞれの場所で過ごす管制官たち。仲間たちとの笑い声、家族との温かな団らん、そして静かに職務を全うする姿。その全てが羽田空港という舞台の一部であり、空の安全を支える柱であった。
夜が深まり、また新たな一日の始まりを告げる気配が漂い始めていた。