第7章
12月の初旬、冷たい北風が関東地方に吹き始める頃、新システムの導入がいよいよ目前に迫っていた。管制チームの忙しさは増す一方で、研修や準備に追われる日々が続いていた。そんな中、三津谷の携帯電話が鳴った。
電話の相手は長野に住む母からだった。電話越しの母の声には、いつもの元気がなかった。
「雄介、お父さんが倒れたの。さっき、病院に運ばれたのよ。」
突然の知らせに、三津谷は息を呑んだ。彼の父は昔から頑固で健康第一を掲げていた人だった。それだけに、病気で倒れたという知らせは彼にとって衝撃だった。
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翌朝、三津谷は佐藤と片山に事情を話し、父の元へ向かうための休暇を申し出た。
「部長、片山さん、申し訳ありませんが、お休みをもらえませんか。父に何かあったらと思うと、いてもたってもいられなくて。」
佐藤は三津谷の申し出をすぐに了承した。「もちろんだ。仕事のことは心配しなくていいから、しっかりお父さんに寄り添ってやれ。」
片山も頷いた。「俺たちのことは気にしなくていい。こっちはみんなでカバーするから。」
「ありがとうございます。」
三津谷は深々と頭を下げた。
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翌日、三津谷は早朝の新幹線で長野へ向かうこととなった。自宅を出る際、志帆が「私も行きたい」と訴えたが、三津谷は「今回はパパ一人で行くよ。ママと一緒に家で待っててくれ。」と説得した。
新幹線の窓から見える景色は次第に雪化粧を帯びていった。しかし、彼の心は重く、父の病状を思うと不安が募るばかりだった。
列車の車内は暖かく、窓外に広がる山々の白い峰を眺めながら、三津谷はふと自分が父と過ごした少年時代のことを思い出した。父は厳しい人だったが、休日になると一緒に畑仕事をしたり、近くの川で釣りを教えてくれたことを鮮明に覚えている。
「頑固だったけど、昔からずっと強い親父だったな。」
その思い出に支えられながらも、今は父の無事を祈るばかりだった。
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長野駅に到着すると、冷たい風が三津谷を出迎えた。重いコートの襟を立てながらタクシー乗り場へ向かう。冬の空はどんよりとしていたが、駅前のイルミネーションがわずかにその重苦しさを和らげていた。
タクシーに乗り込むと、三津谷はシートに深く座り、目を閉じた。幼少期に通った商店街や学校の景色が、窓の外にちらりと映るたびに心がざわつく。
やがてタクシーが実家の前で止まった。玄関の扉を開けると、母が小走りで出てきた。小柄で温厚な母は、目に見えて疲れている様子だった。
「おかえり。」
母の声を聞いた瞬間、三津谷は張り詰めていた心が少しだけほぐれるのを感じた。
「父さんのこと、詳しいことはまだわからないの?」
「うん。病院で検査をしてるみたいだけど、結果はこれからみたい。」
三津谷は母の肩をそっと叩き、「大丈夫だよ。俺がいるから。」と力強く言った。
玄関に入ると、幼い頃から見慣れた家具や壁の時計が目に入った。変わらない風景が、彼にとって少しだけ安心感を与えてくれた。
居間に座りながら、母が淹れてくれた温かい緑茶を飲む。母はゆっくりと話し始めた。
「お父さん、最近無理をしてたのよ。畑のことも、自分でやるって聞かなくてね。」
「昔からそうだったよな。体のことなんて二の次で、自分が頑張れば大丈夫だと思ってる。」
母は軽く微笑みながら「頑固なのはお父さん譲りよね。」と冗談めかして言った。
三津谷は苦笑しつつ、「そうかもしれない。でも、これからは俺ももっと帰ってくるよ。志帆もおじいちゃんに会いたがってるし。」と答えた。
その言葉に母は目を潤ませ、「そうしてくれると助かるわ。本当にありがとう。」と感謝の気持ちを伝えた。
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翌日、冷たい冬の空気が広がる長野の朝、三津谷は母と共に長野総合病院へと向かった。雪の残る道を進むタクシーの中、母は静かに口を開いた。
「実はね、お父さん、ここ数年ずっと胸が苦しいことがあったみたい。でも、病院に行こうと言っても『まだ大丈夫だ』って頑固で聞かなくて。」
三津谷は母の言葉に眉をひそめた。「どうしてもっと早く教えてくれなかったんだ。こうなる前に手を打てたかもしれないのに。」
母は肩を落とし、俯いた。「ごめんね。でも、お父さんの性格を知ってるでしょ。言うことを聞かないんだから。」
その言葉に、三津谷は何も言えなかった。父の頑固さも、母の気苦労も、彼には痛いほど分かっていた。
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長野総合病院に到着すると、院内は朝の忙しさで活気づいていた。三津谷と母は受付を済ませると、担当医の白川が迎えに来た。白川は白衣を整えながら、丁寧な口調で挨拶をした。
「三津谷さんのご家族ですね。担当医の白川です。お父様の状態について説明させていただきます。お父様は数年前から虚血性心疾患をお持ちで、それが今回の心筋梗塞の原因となった可能性が高いです。幸い、処置が早かったため、大事には至っておりませんが、今後はしっかりと治療を続ける必要があります。」
三津谷は眉をひそめながら質問した。「虚血性心疾患というのは、具体的にどのような状態なんでしょうか?」
白川は頷いて続けた。「簡単に言えば、心臓に酸素や栄養を送る血管が狭くなり、十分な血流が確保できない状態です。その結果、心筋がダメージを受ける可能性が高まります。特にストレスや過労が引き金になることが多いですね。」
母が不安そうに聞いた。「今後の治療はどのようなものになるんでしょうか?」
「まずは薬物療法で血管を広げる薬を使用します。そして生活習慣の改善が重要です。無理をせず、バランスの取れた食事や適度な運動を心がけていただく必要があります。」
三津谷は小さく頷いた。「分かりました。でもまさかこんなことになるなんて。」
白川は穏やかに、「何か不明な点があれば、いつでもご相談ください。」と話を締めくくった。
その後、三津谷と母は病室へと向かった。
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病室に入ると、父はベッドの上で目を閉じていたが、三津谷が声を掛けると、ゆっくりと目を開けた。
「父さん、調子はどう?」
父は弱々しく微笑んだ。「雄介か。大げさだな、こんなのただの疲れだよ。」
三津谷は椅子に座り、父の顔を見つめた。「医者には心筋梗塞だって言われたんだ。疲れなんかじゃ済まないよ。どうしてもっと早く病院に行かなかったんだ。」
父は視線を逸らしながら、「忙しかったんだよ。家のこともあるし、お前たちに余計な心配かけたくなかったんだ。」と呟いた。
「心配かけないどころか、余計に大事になったじゃないか。」三津谷の声には抑えきれない苛立ちが混じっていた。
母がそっと口を挟む。「まあまあ、今さら責めたって仕方ないでしょ。お父さんも反省してるはずよ。」
父は少しだけ笑って、「まあ、確かに無理がたたったかもしれん。でも、お前がわざわざ東京から来るとはな。」
三津谷は深く息を吐き、「これからは無理をしないでくれよ。家族みんなで支えるから。」と静かに言った。
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その頃、羽田空港の管制室では、三津谷の不在を埋めるために片山たちが忙しく働いていた。片山は管制席で状況を見守りながら、真奈美に指示を飛ばしていた。
「真奈美、34R滑走路への着陸機が増えてきている。優先順位を確認してくれ。」
「了解しました。確認して調整します。」と真奈美は冷静に応じた。
鈴木はヘッドセット越しに出発機とやり取りを続けていた。「ANA586便、こちら東京タワーです。滑走路05より離陸を許可します。」
その時、真奈美はふと片山に話しかけた。「片山さん、三津谷さん、大丈夫ですかね。」
片山は少し微笑んで、「彼なら大丈夫だ。責任感の強い男だから、きっと立て直してくるさ。でも、戻ってきたときに居場所があるよう、俺たちが頑張らないと。」
真奈美はその言葉に安心したように頷き、「そうですね。」と力強く答えた。
内田は篠田と共に着陸機の状況を整理していた。内田が篠田に声を掛ける。
「篠田、このデータ、三津谷さんが整理してた分なんだけど、こっちで続けるから、他のサポートに回れる?」
篠田は頷きながら「ありがとうございます。じゃあ、私は到着機の時間調整に入ります。」
佐藤は部屋全体を見渡しながら、「よし、みんな、三津谷の分までしっかり頼むぞ。新システム導入も間近だが、まずは日々の業務を確実にこなすことが最優先だ。」と声を掛けた。
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病室に戻った三津谷は、再び父の顔を見つめた。父は疲れた表情の中にも、どこか満足げな様子を見せていた。
「そういえば、志帆は元気か?」
「元気だよ。一緒に来たがってたけどな。今度は必ず連れてくる。」
父は微笑み、「そうか。志帆には、おじいちゃんは元気だから心配するなって伝えてくれ。」
三津谷はその言葉に安心しながら、「わかったよ。」と力強く言った。
窓の外には雪が舞い始め、冷たい空気が長野の街を包んでいた。三津谷の心には、家族への愛と責任感が新たに湧き上がっていた。
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冷たい風が吹きつける冬の朝、三津谷は長野駅から新幹線に乗り込み、東京へと向かった。実家での数日間、父との対話や家族の絆を改めて感じた彼は、少し穏やかな表情を浮かべていた。駅で見送る母に手を振りながら、心の中で誓った。「これからはもっと家族のために時間を作ろう。」
そして三津谷は車窓に映る雪景色をただ見つめていた。




