第40話 炎
時間は少し遡る。
「これは……いえ……ですが……」
そうして五月が手に取ったのは忠一が占いで使うコインだった。そこに書かれていた文字を二人とも読む。
「すぐに裏口から逃げろ……行くわよ、さつま、五月、アポロちゃん」
「信じていいんですか?」
「いいわよ。ただの勘だけど」
根拠はないが、この忠告が正しければ迅速に行動しないとまずい。そして。
ずがんと、隕石でも衝突したかのような衝撃。
「うっわ。マジで危なかったわね。狙撃手を警戒させてから家ごと潰すとか……ん? あ、いいもんあるわね」
裏口に隣接していた納屋の横に積まれていた缶ジュース詰め合わせの段ボールからいくつか缶を取り出す。
「トマトジュース? 何をするつもりですか?」
「あれよ。証拠偽造? おっと。生ごみもあるわね」
「私たちが死んだと誤認させたいわけですね。協力しましょう」
適当にトマトジュースを流し、生ごみを見えない位置にばらまいてから再び裏口から逃げ出す。
「顔を見なくてよいの……いえ、私が確認します」
「頼むわ」
相貌失認である葵は他人を見ても服装やアクセサリーしか正確に認識できない。
「とはいえ。相手は人よりも鋭敏な感覚を持ったギフテッドです。慎重に隠れなが……ら……」
五月は古民家の玄関の方角を凝視していた。
そこでは炎と煙が上がっている。
「火をつけたの? さつまやアポロちゃんのギフトを知っているならそういうこともあるか……ねえ、五月?」
五月は息を大きく荒げ、汗が吹き出している。葵でさえも尋常ならざる様子だとわかった。
「ちょっと。どうしたのよ」
「へ、へいき」
平気だ、と言おうとして失敗したのか。五月はついに膝から崩れ落ちた。
「いや、平気なわけないでしょ」
返答も聞かず強引に肩を貸す。その腕はかたかたと震えていた。
ぽつりと降り出した雨に五月は手をかざす。
「この雨ではアポロの鼻も有効ではないかもしれませんね。……すみません。私のせいで」
さっきよりはましだが幾分声に力がなかった。
「別にいいわよ。でもさ、あんたもしかして火が苦手?」
「そうですね。火だけではなくて熱いもの全般が苦手です。……祖父と母が亡くなった時のことを思い出すので」
葵は五月がアイスティーを飲んでいたり、みそ汁が冷めるまで待っていたことを思い出した。
さらに言えばミツバチを追い払うために使ったハーブティーも温めていなかった。火が使えなかったのだろう。
口ぶりからすると炎を使うギフテッドに家族が殺されたということなのかもしれない。
「しかもあんた、左手まで怪我してるじゃない」
ふとそう言われて初めて五月も自分の左手をみると、つうっと血が流れた。今の今まで怪我をしていること自体に気が付いてなかったらしい。
「ほら。左手貸しなさい」
葵は五月の左手にくるりと自分の青いハンカチを巻いていく。
「器用ですね」
「ちょっと前に学校で救命訓練をやったのよ。それで覚えてただけ」
ハンカチは緩すぎず、きつすぎず、ちょうどよい力加減で巻かれていた。
「ちゃんと洗って返します」
「別にいいわよ。この事件が終わったらまた敵同士じゃない」
「それは……いえ、そうですね」
五月は表情こそ変わらないが、うつむきや視線、瞬きなどでその感情を表すこともある。
残念ながら葵にはそれらの機微を察することができなかった。
「さて。さっきの襲ってきた奴はどこに行ったのかしらね。んー、笑い声は聞こえた気がするし……でもあの声どっかで……」
ぶつぶつと呟き、やがて。
「あ」
「皆本さん?」
「ねえ。この辺りって野良猫がいるわよね」
「たしか黒井さんがそんなことを言っていた気がします」
「じゃあ、駅の周辺にも猫はいるわよね」
「餌を与えてくれる人がいるのならいてもおかしくはないでしょうが……それがどうかしましたか」
「あの店の店員……多分おばあさんの八村さんだっけ。あの人、さつまが店内をうろついていても気にしてなかったのよ」
「別におかしな……いえ、少しおかしいですね。もしも駅に猫が入り浸っているなら店の中に入ってくることもあるはずです」
「ええ。もしも視界に入っていたなら可愛い可愛いさつまに目を向けないなんてありえないわ」
「そういう問題ではありませんが……でももしわざとさつまを見ていなかったとしたら……」
「八村さんはオーナーってことよね」
「グレーというところですね」
その後、近くを通りかかったこのあたりの住人に八村の住まいを聞き、すぐにそこに向かった。田舎の良いところだ。知り合いが多いせいで誰がどこに住んでいるのか簡単にわかるのだ。




