第4話 ラプラス
逃げ出したはいいが、あてはない。
だからこそ、凡庸な一市民らしく他人に助けを求める。
「すみません! そこの犬と女性を止めてもらえますか?」
近くのジョギング中の男性の声をかける。
見知らぬ人にいきなり犬をけしかけるイカレ女の相手をさせるのは気が咎めるけれどそんなことを言っていられる状況じゃない。
が、声をかけた男性は完全な無反応で通り過ぎただけだった。
かなり大声で叫んだので聞こえなかったはずはない。頭をぐるぐる回すとこれだけ叫んでも、ドーベルマンが唸っていても誰も私たちに注目していない。自分が幽霊にでもなった気分だ。
その間にも女とアポロは追ってくる。
走りながら今度は頭を精神的に回転させる。
「こういう時こそ国家権力に頼らなきゃ意味ないわよね!」
ポケットの中にあったスマホを人生で最も早く取り出し、今まで一度しかかけたことがない番号に電話をかける。
110番だ。
「すみません! 警察ですか!?」
『ぎゃーははははは! 通報なんかしても無駄だぜ!』
しかし聞こえてきたのは汚いだみ声だった。
ぎょっとしてスマホを耳から離して画面を見る。するとねじくれた角が生えたつぶれたカエルのような顔がドアップで映り込んでいた。
「何よあんた!?」
『俺かあ!? 俺、ラプラス! ……いや、お前オーナーだろ? なんで俺のこと知らねえんだよ』
「はあ!? 確かに私はさつまの飼い主だけど……」
画面の中のラプラスと名乗った何者かはぎろりと私に向かって歩いてくる女性に向かって叫んだ。
『おい、五月。こいつ、戦いについて何も知らねえのか』
さつき? 五月かな? そういえばさっきも犬がそう言ってたような。……さつまとちょっと名前が似ててむかつく。
その五月はあくまでも冷静に答える。
「そのようですね。問題はありますか?」
『いいや? 俺は運営側だ。質問に答えるだけだよ』
「そうですか。では、『ベット』」
五月がそう宣言すると、私の前にトランプのカードのようなものが浮かんだ。くるくると空中で回るそれの裏面には白黒の貝のような模様が描かれており、やがて回転は止まった。そこには数字や絵柄ではなく関連する植物とかかれていた。
「何よこれ……」
さらにそのカードの上にはカウントダウンらしき数字が宙に浮かんでいる。困惑している間にその数字はゼロになった。
『無回答により、『フォールド』として扱う。情報を開示したのちアクションした親側がスキルを一つ使用可能にする』
ラプラスの説明するような言葉が終わるとぱっとカードにとうもろこしという文字が浮かぶ。何を意味するかは分からない。
そしてラプラスの発言内容もせいぜいポーカー用語だというくらいしか理解できないが、それが危険であることは直感で理解できる。
「『ルーガム』」
そう五月がつぶやいたが、なにも変化はない。しかし嫌な予感は止まらない。
「三十六計逃げるに如かず、よね!」
そうしてまた逃げようとした瞬間、地面が動いた。局地的に地震でも起こったかのように地面がひび割れ、隆起し、間違った方法で洗濯した服のようにぐちゃぐちゃになっている。
おもわずつんのめるが、何とかバランスを保つ。
そんな葵とは対照的に不安定な地面で足が傷つくことを気にせず、アポロは驀進し、それどころか足が傷つくごとに足が増殖し、最後には八本脚の異形となった。
地球上のどの生物と似ても似つかない姿のアポロはそれでも減速するどころか加速して葵の服のすそにかみついた。
葵はすさまじい力で引っ張られ、視界が暗転し、ごろごろと地面を転がる。それだけならともかく、手の中に握っていた感触が消えている。
「さつま!」
さつまはアポロの口の間でもがいていた。痛々しい悲鳴が辺りに木霊する。
思わず怒りで頭が破裂しそうになった。私の愛猫を傷つけようとしているアポロではなく、たかが振り回されただけでさつまのリードを離してしまった自分に怒りを覚えた。
「ありがとうございます、アポロ。一応、言い残すことがあれば聞いておきましょう」
「どういう意味よ……」
「あなたは知らないようですが、ギフテッド……つまり特殊な力を持ったペットを殺された場合、そのオーナーはペットの記憶を失います」
「……」
その言葉に血が凍ったような恐怖を……かつてのあの時のような恐怖を思い出した。
「冗談じゃないわよ……」
腹から出た声は……自分のものとは思えないほど低かった。一方で冷静に、相手から見えないように手袋を外す。
「そんなことになるくらいなら、死んだほうがましよ!」
その啖呵を聞いて五月は何を思ったのか。
ぎりっと歯を鳴らしてから激しい怒りを声に宿らせた。
「死んだほうがましだなんて……簡単に言わないでください! アポロ!」
ドーベルマンの顎に力がこめられる。
それよりも一瞬だけ早く、私は親指にかみついた。ジワリと血がにじむ。
それと同時にアポロの口に液体が飛び散る。ただしそれは血の赤ではなく。
半透明の水。それに猫の顔のパーツらしきものが浮かんでいる。
「にゃあ!」
健在を知らせるように、さつまは元気良く鳴く。
「ごあいにく様。私の猫は、液体になれるみたいよ?」