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うちの猫は液体です  作者: 秋葉夕雲
第一章
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第1話 猫は液体

 田舎というには垢ぬけすぎ、都会と呼ぶには緑が濃い。

 そんな大水市にある大水北高校の白い校舎は夕焼けに照らされて赤みを帯びていた。

 校門には帰路につく生徒がぱらぱらと現れている。校舎内に残っているのは部活や掃除などを行っている生徒であり、彼女たちは後者だった。

「葵ちゃーん。ごみ捨てありがとねー」

 葵と呼ばれた女生徒に快活そうな生徒が礼を述べる。

 声の方向に首を向けた彼女は右側に編まれたやや長い髪と赤いリボンを揺らし、きりりとした目を女生徒に向ける。

だがその目はすぐに細められた。

「……名札はどこにやったの?」

「へ? ああ、名札? あ、校則でしなきゃいけないんだっけ。でもいいじゃん。もうあたしら一年生からの付き合いでしょ? 一年あれば顔と名前くらい覚えるでしょ。あたしはちゃんと覚えてるよ? 皆本葵(みなもとあおい)ちゃん?」

 笑顔に対しても動じず葵はぴしゃりと言い放つ。

「でも校則は校則よ」

 もー、厳しいなあと言いながら快活そうな女生徒は名札をつけた。

 その間にもう一人、眼鏡をかけた生徒が職員室から戻ってきて声をかけた。

「先生が鍵閉めるからもう帰っていいってさ」

「そう。ありがとう」

 葵は学校指定の鞄を掴むと、足早に教室を去ろうとする。その背後に。

「まった、明日ねー」

「ええ。また明日」

 かけられた声にもやはり、礼は失さず、しかしあまり温かみの無い返答だった。

 姿が見えなくなってから快活な女生徒は眼鏡の女生徒に話しかける。

「葵ちゃんはいつも通りだねー。名札のこと注意されたの何回目だっけ。あれかな。厳しくしつけられたのかな?」

 快活な女生徒は軽い世間話のつもりだったのだろうが、眼鏡の女生徒は顔色を変えた。

「ちょっと……それ、本人の前で言わない方がいいわよ」

「へ? なんで?」

「この前聞いちゃったんだけど、皆本さんのご両親、亡くなってるらしいわよ」

「うそ? マジ?」

「こんなこと冗談で言わないわよ。最初は親戚の人と暮らしてたけど上手くいかなくて後見人? なんかそういう人と一緒に暮らしてて……その人も亡くなって今は一人暮らしなんだって」

「あー、そういえば去年何日か休んでた時あったっけ。お葬式とかそんなんだったのかな? はー……そりゃ人生観あたしらとは違うわよね。てか詳しすぎなんだけど」

「たまたま先生と話してるとこ聞いちゃったのよ」

 趣味悪いんだあ、と気軽にちゃかす。

 確かに葵の身の上は不幸だったが、他人にとってはせいぜい心の片隅にとどめておく程度のもの。結局のところ赤の他人に親身になれる人間などそうはいない。

 そんな世間の冷たさに彼女は心を痛めているのだろうか。それとも。




 葵は部活動に所属していないため、学校から直接帰宅することが多い。

 今日も同じように……あるいは普段よりも急いで自転車をこぎ、庭先に止め、玄関の引き戸の鍵を開けて家の中に飛び込む。

 勢いのまま早足で迷うことなくその場所を目指し、ばっと扉を開け放つ。するとそこには。

「にゃあ」

 茶トラの猫がいた。

 金色のくりっとした瞳にふわふわの毛並み。赤い首輪が鮮やかに映える。

それを見た葵はさらに急加速してひもが伸びる猫じゃらしをひっつかみ、愛猫の前に突き出し、猫もそれにじゃれ付いた。

「はああああああ! さつま!さつま! かわいいいいいいいいいい! スーパーかコンビニで買い物してから家に帰るつもりだったけど我慢できずに帰ってきちゃったあああああああ!」

 飼い主の奇声を気にした様子もなく、猫じゃらしに飛びつき続けているさつまと呼ばれた猫。

 その様子におもわず顔を近づけるが直前で急停止した。

「だめだめ。猫吸いは猫アレルギーになる可能性があるわ。どんなに可愛くても猫を真に愛するなら我慢よ」

 思わず爪先が白くなるほど強く手を握りしめ、立ち上がり、猫部屋から出る。

 とことことその後につづく愛猫さつまを満面の笑みで見ていた。

 彼女が帰宅してからいつも二番目に向かう場所へと歩む。

 埃一つない和室の仏壇の前に正座し、手を合わせ、おりんを鳴らす。拝んでからすぐに立ち上がる。

「よし。それじゃあスーパーに行ってくるわね」

 さつまの顔回りを撫でる。ぴんと立った尻尾を見て葵も満足そうに笑った。

 しかし急に耳を横に倒し、ふんふんと鼻を手に近づけた。

「さつま? どうかした……あれ?」

 葵が自分の手をよく見ると指先から血がにじんでいた。

「紙か何かで切ったのかしら。心配してくれるのね。ありがとう」

 愛し気にさつまを撫で、未練を振り切るように立ち上がると今度こそスーパーに向かった。




 葵の自宅は駅からはやや遠く、そのせいで駅前のスーパーに行きたければ多少は歩かなければならない。晴れていれば自転車で行けるが、雨ではさてどうするかと悩んでしまう距離だった。

 快晴だったので、ありがたく自転車でぱっと用を済ませて再び帰宅したのだった。

 購入品を棚にしまいつつ、夕飯の準備を整えるが……ふと異変に気付いた。

「さつま? いないの?」

 レジ袋がカサカサなる音が何かを買ってきたと理解しているのか、はたまたは戸棚の開け閉めの音で判断しているのか、台所で何かをしていると猫が寄ってくることが多い。

 おそらく何かをもらえると期待してのことであり、実際にそうしてしまうことも多々あった。

 とはいえこないこともある、と気にしていなかったのだが。

「……やっぱりちょっと顔見ておこうかしら」

 夕飯の準備を中断し、猫を探し始めた。

「さつまー? どこー?」

 猫は自由を求める生き物で呼びかけても応えないことは珍しくもない。しかし、猫部屋や応接間、和室と順番に見回っても全く見つからないと徐々に焦りだした。

「さつまー? ほら、チュールあるわよ?」

 好物のチュールを持ち出しても全く反応がない。いよいよ焦りは混乱になりつつあった。

「どうしよう。どうしよう。猫部屋に入れておくべきだった。さつまは私の最後の家族なのに。あの子がいなくなったら、私は……」

 片側に編んだ髪を無意識にいじり、あてもなく歩き回り、お気に入りの場所を確認し、戸締りを確かめ、家具をひっくり返す。しかしそれでも見つからない。

 ぎゅっと目をつぶり、祈るように耳を澄ます。


 に、あ。


 かすかな鳴き声。

 何万回と聞いてきたその声を聴き間違えるはずもない。

「この方向は……お風呂場? あれ? 私……お風呂の栓、抜いたっけ?」

 葵は風呂の残り湯を洗濯に利用しており、その後で風呂栓を抜くようにしているが、たまにそれを忘れることがあった。

「まさかさつま……溺れてる?」

 あまり水が好きな方でもないので風呂に近づくことはあまりないが、それでも万が一ということはあり得る。

「さ」

 床を踏み抜かんばかりに足に力を込める。

「つ」

 それよりもさらに強く二歩目を踏み出す。

「まあああああああああ!!!!!!」

 家の中を叫びながら全力疾走する。この家のかつての家主や両親が見れば間違いなく叱っていただろうが、彼女はそんなことを気にしている余裕はなかった。

 もはや妖怪じみた動きと表情をしながら、風呂場に向かう。わずかながら浴室の扉が開いていた。

(猫は液体なんて言われるくらい体が柔らかい! あれじゃあ入れちゃう!)

 浴室の扉をぎりぎりさつまが内側にいても避けられるくらいの速度で開け放つ。しかしそこには誰もいない。

 今度は浴槽のふたを開ける。

「さつま!」

 最悪の予想をしたが、しかし、誰もいない。ただ、いつもつけているはずの首輪が浮いていた。思わず血の気が引く。

「さつま……どこ?」

 喉から絞るような声にこたえたのか。


 にゃあ。


 どこかから、いや、かなり近くから声が聞こえた。

「さつま? ここにいるの? どこ!?」

 必死で浴室を見回すが、やはりどこにもいない。


 にゃあ。


 声は聞こえる。しかしそこには水の入ったふろおけがあるだけだ。

「あれ? なんでふろおけに水が入ってるの?」

 風呂を入り終わった後なら普通ふろおけに水が入っているはずがない。おそるおそるふろおけ、正確にはその中に入っている水を覗く。

「にゃあ」

 その声は間違いなく、ふろおけから発せられていた。そればかりか、ふろおけには目や口らしきものが現れた。

「え、あ、ちょ、え?」

 ありえない事態に思わず後ずさり、ついには尻もちをついた。

「にゃあ」

 するとふろおけの中から水が意志を持つように抜け出すと、この世で一番愛している猫の姿をかたどり、ちょこんとエジプト座りになった。

「にー」

 甘えるような鳴き声。普段なら泣き出すほど嬉しかっただろうが、葵はそれどころではなかった。

「何がどうなってるのよ……」

 茫然と呟いてから、心の中で独語した。

(お父さん、お母さん、アワビ、先生。うちの猫が液体になりました)

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