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苦手な方はご注意ください。

妖隠録シリーズ

妖隠録 弐 ~ 殺生石

作者: 香津宮裕介


 ち、り――ん。

 と、鈴が鳴る。

 ち、りーん、ち、りーん――と。

 ずっと聞こえてくる赤ん坊の泣き声には、もう耳慣れた私にそれは新鮮で、思わず耳を傾けてしまった。

 とても懐かしい、心残る物悲しい音色には不思議と憶えがあった。

 ち、りぃぃぃいいいいいぃぃん。

 ち、りぃぃぃいいいいいぃぃん。

 金属特有の硬質な冷たい響きで、音は弾むようによく伸びる。鼓膜の奥、脳で広がりながら震える。だから、ずっと聞いていると頭が痛くなる。

 ち、りぃぃぃいいいいいぃぃん。

 ち、りぃぃぃいりりいいいいぃぃん。

 りぃぃぃいいいいいぃぃんりぃぃぃいいいいいぃぃんりぃぃぃいいいいいぃぃん。

 ああ、頭が割れそうだった。

(いや、あれは……)

 そう、たしか。私は思い出す。

風鈴だったな、と。

 いまではガラスやまがい物に取って代わられてしまったが、昔はどこの家でも見られ、軒先で涼を呼んでいた、釣鐘型の鉄器だ。

 だが、そんなものどこから……?

 顔をあげる。

 ずっと下を向いていたせいで、軽い眩暈とともに、一面の飛蚊症が視界を覆う。私は血圧が低い。

 空はずっとおかしな色で、不穏な雲が垂れ下がっている。

 視線を落とせば、海のように広がる巨大な川。その対岸は霞んで、こちら側からではとても見通すことができない。

 風鈴が鳴るのだから、風が吹いているのだろう。岸にはずらりと色とりどりの風車が回っている。やまぬ赤ん坊の泣き声、心の慰めになっているのだろうか。

 いつからだろう。

 私はずっと、あの向こう岸を見てすごしてきた。その先になにがあるとも知らずに。

 だからそれは、憧憬ではなかったのかもしれない。郷愁とも違う。

 ならば、なんだというのだろう。

 行きたい、という強い意志もなく、行かねば、という使命感もない。私はただ眺めているだけだ。

 それは未知への(おそ)れなのか、単なる現状への満足なのか、わからない。

 だから私は、今日も河原で石を積む。いつもと変わらず、どこかで覚えた歌を口ずさんでは石を積む。


 ひとつ積んでは、父のため。

 ふたつ積んでは、母のため。

 みっつ積んでは


 突然横から伸びてきた足が、容赦なく私の目の前を乱す。せっかく積みあげた石は、ばらばらに四散した。

 蹂躙者をにらみつけると、とても愉しそうに(わら)っている。なにが楽しいのか。理解できない。とても(いや)な笑いかただと思った。

 私は立ち上がって、無言でその脇をすり抜ける。

 また新しい石を探さなければ。積みやすい、平たくて大きな石を。

 ここには、石だけは無数にある。

 気がつけば、風鈴の音はもうしない。子どもの泣き声が大きくて、聞こえなくなっただけかもしれない。

 離れた場所で屈んで、私はまた石を積む。少し大きい方がいいだろう。このあたりは小さい子が多いから、取り合わなくてすむように。


 ひとつ積んでは、父のため。


 そもそも石を重ねるという行為に、はたしてどんな意味があるのか、私はいまさら疑問に持たない。

 他の子どもたちと同じように、毎日飽きることなくくり返す単調な作業。積んでは崩れ、崩れては積み、積んでは崩される。


 ふたつ積んでは、母のため。


 そこまで数えて、ゆっくり首をめぐらせる。周囲に誰もいないことを確認して。

 だいたい三つ積みあげたらどうなるのか、ここにいる誰かはそれを知っているのだろうか。


 みっつ積んでは


 にゅっと黒い手が伸びてきて、いままさに完成するはずの石の山を払いのける。

 また無遠慮なやつらかと思ったが、違った。

 黒。

 それはただの影。

 真っ黒なマントに真っ黒なフード。影になって見えないはずなのに、その表情は憐れんでいるようにも見えた。

 仕方なく私は、手にした三つめの石を次のひとつめにする。

(……あれ?)

 この石、なにか――

 自分の手を見る。()()

 目を落とす。()()()()

 べったりと。毛髪も付いているこの石は、たしかにどこかで見覚えがあった。

(でもどこで……?)

 ち、りぃぃぃいいいいいぃぃん。

 風鈴が鳴る。

 ち、りぃぃぃいいいいいぃぃんりぃぃぃいいいいいぃぃんりぃぃぃいいいいいぃぃんりぃぃぃいいいいいぃぃんりぃぃぃいいいいいぃぃんりぃぃぃいいいいいぃぃいいいいぃぃぃん!

 頭が割れそうだった。

 影が落ちる。石だらけの地面に。

 うつむいた私は、その影が、腕を振りかぶるのを知る。あの男なのかは知りようがない。

 そうして、私の頭めがけて振り下ろす。その手に大きな石を持って。

 がッ! と強い衝撃とともに、目の前が真っ赤に染まった。


       *


 桶の水はどす黒い錆色に染まっていた。

 私は立ち眩みにも似た白さのなかで、かろうじて意識を保った。急激な息苦しさに支配されていた。

 井戸の縁に手をかけ、真夏にも係わらず寒さに震えた。

 蝉の声。蝉の声。

 ちりーん、とどこかで風鈴が鳴った。

 私はひっそりと首をすくめ、見られてはいまいかと恐る恐るあたりを見回す。

 しかしこの屋敷には、猫の子一匹いないのはすでに確認済みだ。すでにあばら家となって久しいそこは、このまま時の流れとともに朽ちていくだろう。

 私は毛髪のこびりついた漬物石を井戸に放ると、桶の手洗い水も流してしまった。

 ち、りーん、と風鈴。その音も、まだ私の心を落ち着けてはくれない。

 ああ、こうしてはいられない。一刻も早くこの屋敷から逃げなければ……!

 ――私が実の娘を殺して井戸に捨てた一切を、知られてはならない。

 娘は生まれつき体が弱かった。十までは生きれぬだろうと言われた。

 丈夫な子に産んでやれなかったのは親の責任である。不遇ではあったが、それでも生きている間は幸福だったと思えるよう、決して裕福ではなかったが、身を粉にして働き、そのなかでも娘との時間を作ってやり、身の丈に余る精一杯の、望むかぎり愛情をかけて育ててきた。

 私が娘と過ごせるのは、わずか十年でしかないのだから!

 それを思うたびに申し訳なくなり、だがその悲しみは憐れみに似て、知らずに娘を傷つけるのではと必死に胸の内に押しとどめた。

 母ひとり娘ひとり、たった二人きりの家族であった。だから本当は幸福など、お互いが手を伸ばしてつかめるほどで充分だったのだと、いまになって思う。

 それでも娘が、他の子らと比べ、何十年分も幸福が不足するのは、やはりあまりに不憫で、せめてそのぶんを生あるうちに与えてやるのが、親としての責務ではないかと、私にそのような過剰な愛情に走らせたのだった。

 しかし娘は、十五になっても死ななかった。

 十六、十七と、虚弱な体で生きながらえた。

 年頃になると娘は見目麗しく、はかなげな容姿でひとの口に上った。生来の青白き肌は透きとおってかえって生々しいほどで、時折頬に差す血色には母親の私から見ても、ぞっとするほどの艶めかしさがあった。

 どこで噂を聞きつけたか、嫁に欲しいという申し出が後を絶たなかった。

 いつ死ぬとも知れぬ娘を嫁に欲しがるというのも、はなはだ理解に苦しむ。男どものよこしまな下心を邪推して、やがて身を隠すように私たちは世間から身を引いたのだった。

 それが、この人里離れた山奥の廃屋である。

 母ひとり子ひとり、生活していくには広すぎたが、質素ながら自給自足の生活で賄うには充分の田畑がついていた。

 その頃には二十年――私の二十年は娘のためだけにあった。世間の母親であるならば、そろそろひとり立ちの後押しをしてやり、そうして己の余生について考えはじめる頃。

 娘は相変わらず病弱で、私の介助なしにはなにもできず、しかし若く美しく、当然のごとく我儘であった。

 なにをするにも母親である私を呼びつけ、怒鳴ったり叱ったり泣いたりしながら、従えた。我が子可愛さに私も、怒鳴られ叱られ宥められながら、従った。

 気がつけば私は、己の病にも気づかずにいたのだ。しかしすべては娘のため。私は無理を押して、ただただ仕えたのだ。苦しんでもひとり。血を吐いてもひとり。

 そうしてあるとき思いがけずに、娘が三十に差しかかろうというほどの、熟れた女の持て余したような色香のようなものを垣間見、なんとも言えないほの暗いような気持ちになったのだった。

 十年が気づけば三倍である。その間、私が注いだ愛情はきっと三倍ではきくまい。

 その途端、急にどうしようもない虚しさに襲われて、私はわけもわからず飛び出してしまった。

 縁側では風鈴が鳴っていた。

 あれは娘のお気に入りだ。昔、ねだられて買った物だ。その清廉な音色は心慰めるのであろう。

 五十を過ぎた私は生活と世話に疲れ果て、みすぼらしい老人の(てい)でふらふらと、野山を徘徊する狂人のようである。

 それに引き替え、娘は三十を手前に、手塩をかけて育てたおかげでいまだ無垢なる乙女であるとともに、傍若無人な姫君でさえある。

 娘が生まれた時、二十代の私はまだやり直せた。三十代で、十になった娘が亡くなってしまってからでもやり直せると思っていた。四十代になり、娘を嫁にやってから余生を楽しむこともできた。五十になり、それまでの娘のためだけの生活に疲弊衰弱し、そうしていま病に体を蝕まれた。

 己の老後を考える余地があろうか。

 なによりも、やはりそうして、母親なくして生きていけぬように育ってしまった我が娘の、その行くすえこそが心残りである。

 ならばせめて、産んでしまった私の責任とするならば、共に死んでやることがその責任のとりかたではあるまいか。

 ひとしきり苦悩を吐き出した後、屋敷に取って返し、台所の漬物石を持ちだしたのだ。

 暑い夏のことだった。

 蝉の声。蝉の声。

 うるさい。

(暑いだろう。どれ、母さん汗拭いたげるよ。こっちおいで)

 自分の髪が額に張りついて不快だ。私の笑顔もきっとぎこちない。

 井戸まで連れ出して、油断したすきにそこに置いた漬物石でガツンと。

 桶の水はどす黒い錆色に染まっていた。

 私は立ち眩みにも似た白さのなかで、かろうじて意識を保った。急激な息苦しさに支配されていた。

 私は泣きながら、何度も謝りながら、娘の体を井戸に突き落とした。あとで母さんも行くからと詫びた。

 井戸の縁に手をかけ、真夏にも係わらず寒さに震えた。

 その冷たさは残酷だった。

 蝉の声。蝉の声。

 ちりーん、とどこかで風鈴が鳴った。

 私はひっそりと首をすくめ、見られてはいまいかと恐る恐るあたりを見回す。

 しかしこの屋敷には、猫の子一匹いないのはすでに確認済みだ。すでにあばら家となって久しいそこは、このまま時の流れとともに朽ちていくだろう。

 私は毛髪のこびりついた漬物石を井戸に放ると、桶の手洗い水も流してしまった。井戸の縁がぬるりと滑った。

 ち、りーん、と風鈴。その音も、まだ私の心を落ち着けてはくれない。

 ああ、こうしてはいられない。一刻も早くこの屋敷から逃げなければ……!

 ――私が実の娘を殺して井戸に捨てた一切を、知られてはならない。

 簡単なことだったんだ。

 考えてみたら。

 娘さえいなければ。

 やっと、自分の、人生が。

 ……なんだ。初めからそうしていれば――

 ち、りぃぃぃいいいいいぃぃん。

 鈴が、鳴る。

 風もないのに風鈴が。

 ち、りぃぃぃいいいいいぃぃん。

 私ははっと縁側を見る。見なくてもわかるのに、そこに風鈴がないことぐらい。だって……だって、音が聞こえてくるのは――

 井戸に飛びつく。

 暗くて見えない。目を凝らす。耳を澄ます。

 りぃぃぃいいいいいぃぃんりぃぃぃいいいいいぃぃんりぃぃぃいいいいいぃぃん。

 ち、りぃぃぃいいいいいぃぃんりぃぃぃいいいいいぃぃんりぃぃぃいいいいいぃぃんりぃぃぃいいいいいぃぃんりぃぃぃいいいいいぃぃんりぃぃぃいいいいいぃぃいいいいぃぃぃん!


       *


「あなたが――」

 黒衣の死神は首を振った。

「誰かのために石を積む必要はない」

 私は笑う。

「ここには望まれず産まれなかった子、産まれたけどその後すぐに殺された子もいます。――ほら、あの子たちは人の形をしていない。だから石を積めません」

「子は親より先に死んだ親不孝の業を背負う。それがこの河原」

「殺された子は誰が救済するんです?」

「…………」

 死神は答えなかった。ただ視線だけを対岸に送ると、あきらめたように背を向けた。

「娘さんは先に行きました」

 ふり返る。川の中ほどに舟が見える。

言伝(ことづて)を預かっています。『来世でもあなたの娘でいたい』と。『ありがとう。そしてごめんなさい』」

 私は手を止め、その舟がゆっくり、ゆっくり対岸の霧に消えていくのを見送った。

「どうせあの川を渡っても、娘にはもう会えない。だったらここで、残された子の代わりに、私が積もうと思うのです。ここにいる子は親の罪。それが慰めになるかどうかわかりませんが……」

 すでに死神の姿はなかった。


 ひとつ積んでは、父のため。

 ふたつ積んでは、母のため。

 みっつ積んでは


 築いた石の塔を崩そうと、嬉々とした顔で鬼が寄ってくる。

 ああ、また子供の泣き声が。

 ああ、あっちからもこっちからも。

 頭が割れそうだ。


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