序章
神暦970年、北方の大国バルシャーン帝国軍、テガン王国との国境に侵攻す。テガン国王ジャヤチャンドラ4世、自ら4名の王子と6万人の討伐軍を率いて国境のカルガーイ河周辺にて帝国軍と対峙す……
(テガン王国史歴記)
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昨夜の雨によって大地は水を吸ってぬかるみ、河は水かさを増して泥色に流れている。河畔には雨上がりの朝特有の冷え込みと濃い霧が発生していた。
霧は河畔を覆い尽くし、河の対岸どころかすぐ近くすらも不鮮明である。
テガン王国第4王子ナクラは、白く覆われた対岸を見つめ、まだ見ぬ敵軍について考えていた。ナクラは白い布で頭を覆い、褐色の肌と翡翠色の瞳の美男である。この戦は16歳の彼にとってこれは初陣であった。不安を感じていたが、指揮官に任ぜられたという責任感によって、無理矢理不安を抑え込んだ。
(にしても、かなり霧が濃いな。これでは戦象は危なくて使い物にはならないだろうな)
「殿下、そろそろ軍議が始まります。どうか天幕へお入りくださいませ」
「わかった、今行く」
色々と思案していたが、伝令兵に呼ばれたため一旦天幕へ向かうことにした。
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天幕のに入ると鼻を刺激する酒の匂いが漂っている。戦場、しかも勝敗を分ける重要な軍議の場で酒を飲むような愚か者をナクラは一人しか知らない。自らの父にして、テガン王国第8代国王ジャヤチャンドラ4世その人である。
国王は金の杯を片手に褐色の肌で虚な表情をしており、その長く黒々とした髭は酒か本人の唾液で濡れており、それが明かりに照らされて煌めき、より一層不気味さを醸し出しているのだった。
王がこのような状態のため、軍議は宰相のパーニーという小太りの男が仕切っていた。そのため、歴史書では今回の総司令官は国王となっているが、実質はパーニーが指揮していたのである。
この男は妹が王妃になったことで今の地位に就任した男であり、王太子の伯父にあたる人物で、他の文官や将軍たちからもよく思われていなかった。
「3日前の偵察隊の報告によれば、バルシャーンの軍勢は騎兵5千と歩兵3万。対して我が軍は総勢6万に加えて戦象部隊もいる。この戦での我が軍の勝利は揺るぎないであろう」
パーニーはよく通る声でそう宣言した。
居並ぶ将軍たちと王子は国王に呆れ、文官のくせにこの場を取り仕切っているこの小太り男を白い目で見ていた。
ただこの楽観的な発言はこの軍議に参加していた者たちに、どこか共通意識となっていた。その後将軍たちの発言が続く。
「霧が濃く、象が敵と味方を間違えるかも知れん。象は前方に配置すべきだ」
「この水量の河だ。敵軍も渡ってくる頃には疲れ切っているはずだ、そこを一気に叩くのはどうか?」
「バルシャーン軍も流石にこの霧と河では攻めるのに躊躇するに違いない。やはり霧が晴れるまで待つつもりだろう」
「象は渡河に時間がかかる。それに敵も戦象部隊への対策をしているはずだ」
皆一通り発言をしたので、ナクラも発言しようとしたが
「卑しき奴隷の子は、黙っていろ!この場に参加させてもらえただけでもありがたく思え!」
と王太子で第2王子グナンダが怒鳴ったことで意見を言うことができなかった。グナンダは小麦色の肌で彫りの深い顔をした男で、母は王妃である。そのため第1王子を抑え王太子に定められていたが、その分気位が高く、豪華絢爛な物を好んでおり、今回もやたらと宝石や黄金で飾り立てた悪趣味な鎧を着込んでいた。
「卑しき奴隷の子」と呼ばれてしまえばナクラには否定できない。彼の母親は後宮の奴隷で、父王が気まぐれに手を付けた女だったからだ。そんな奴隷の子と宰相の妹を母に持つ自分が、肩を並べて軍議に参加しているのがグナンダにはどうにも面白くなかった。
将軍たちは宰相の手前で遠慮していたため、この言葉を嗜めるものは誰もいない。そのため、ナクラは黙ってこの侮辱に耐えなけばならなかった。
残りの王子たちは第1王子ウダイ、第3王子ヴィジャーズでこの2人は母が貴族で、やはりグナンダ同様ナクラのことを奴隷の子として蔑み、発言を許さなかった。
◆◆◆
小一時間ほどで軍議はまとまり、霧が晴れるまで待ち、渡河した敵を攻撃するということになった。戦象部隊は突撃した拍子に象が河中へ入ってしまうことが懸念され、後方にて温存されることとなった。
各将たちは持ち場につき、敵との開戦に備えている。霧はやはりまだ敵軍を覆い尽くしていた。