第7話 花落つること知る多少
烈圭が生まれて初めて鬼の姿となった日から、四日目の朝。
目覚めると、烈圭は慣れ親しんだ人間の姿へと戻っていた。
千草が言うには、まだ体内の妖気は安定しておらず、いつ鬼の姿に変化してもおかしくない状態だという。
しかし、現在の烈圭は鬼の妖気が体外に溢れる様子は見られないため、一度帰宅しても良いという許可が下りた。
そうして烈圭は数日ぶりに、町外れの山麓にある自宅へと帰ってきていた。
「ありがとう、水流さん。わざわざこんな山の中まで、車で送ってもらっちゃって」
「お気になさらないでください。それと、どうか私めのことは水流とお呼びくださいませ、烈圭様」
烈圭と共に車から降りてきたのは、一人の女性。名は水流といい、千草の経営する喫茶〝六花〟の従業員である。
目元が覆われ、腰に届くほどに長い薄水色の髪が特徴的で一見すると烈圭よりも年下の小柄な少女にも見えるが、水流は今年で二十歳を迎える。
そして水流は本来、天鬼本家に仕える水鬼の女性であり、現在は天鬼兄弟3人の護衛としてこの町に滞在している。
烈圭が男所帯の天鬼兄弟のもとで過ごせたのも、水流の助けがあってこそであった。
「じゃあ、水流。私も烈圭でいいよ、かたっ苦しいし」
「それはなりませぬ。水流は八代目より、天鬼本家……9名のご兄弟を護衛せよとの任を与っております。さすれば、烈圭様も私めの主様。主様にそのような無礼は働けませぬ」
水流はそう言うと烈圭が持っていた荷物をするりと奪い取って、玄関の方へと向かう。
烈圭は思わず苦笑しながら、その背中を追った。
「それでは、もし。お身体に何か異常がありましたら直ぐに私か、千草様にご連絡下さい。ただちに駆け付けます」
「わかった。今日まで色々ありがとう、水流。といっても、またすぐに世話になるかもしれんけど」
荷物を運び終え、水流を見送った烈圭はだらしなく玄関に寝転んで大きく息を吐いた。
古い天井を仰ぐと、片腕で目を覆う。静かな空間で感覚を研ぎ澄ますと、確かに自分の中で僅かな妖気が渦巻いているのを感じた。
改めてみると、何とも妙な感覚だった。
ああ、夢ではなかったのだと。今更ながらに今日までの怒涛の日々を痛感して、思わず笑ってしまう。
コン。
不意に。足元から聞きなれた不愛想な声が聞こえて、烈圭は素早く上体を起こす。
そこには烈圭の足を長くしなやかな尻尾で軽く叩きながらこちらを見上げる、白藍色のまん丸な目をした白狐がいた。
「お……っまえ! 伊吹!」
ナン、ナン、と短い鳴き声を上げながら。両の頬を指で軽く摘まれているその白狐の名は伊吹という。烈圭との付き合いは、すでに一年ほど経つ。
烈圭は不満そうな声を上げる伊吹にも構わず、その可愛らしい小さな顔を両手で揉み続けていた。
「今の今までどこほっつき歩いてた? ったく、肝心な時に行方不明にならんでくれませんかね……え、私? 私の方はほんっと、色々あったんだって……つーか、知ってた? 伊吹。私、鬼らしいよ」
ナゥ。
「はああ? 私が鬼臭かったから、暫く家出してたぁ? じゃあ、伊吹は私が鬼だって気づいてたわけ? おいおい、ふざけんな。そういうことはちゃんと話せ……あと臭いとか言わない。人によっては傷つきます」
烈圭の手の中からするりと抜け出し、伊吹は家の中に上がると緩慢な足取りで廊下の奥へと消えていく。
烈圭は薄暗くなっていくその後ろ姿に、慎重な声で問いかけた。
「私が鬼だってこと、あの伯父知ってたと思う?」
淡い闇の中から──コン、と短い声が返ってくる。それを聴いて、烈圭は軽く苦笑しながら詰めていた息を吐き出した。
「そっか──まぁ、そうなるか」
◇ ◇ ◇
翌々日、烈圭はおよそ一週間ぶりに学校へと登校した。一日自宅で様子を見た所、妖気もある程度安定し鬼に変化することもなかったため、千草も学校へ行くことを了承してくれた。
学校に登校して早々、担任に呼び出され何と誤魔化そうか悩んだが、同じクラスメイトである夜鷹が上手く説明してくれたらしい。
烈圭は食あたりで念のために連日休んでいたということにされており、身体の心配をされた。そして夜鷹とは親戚で、しばらく親戚家である夜鷹の家で世話になっていた、という話にまとまっていた。
烈圭は教室に入って、すぐに隣席である夜鷹に礼を言おうと声を掛けるが、逆に何冊かのノートを急に押し付けられて遮られる。
「お、わっと……って、あれ? 夜鷹……サン? これは」
「休んだ分の授業のノート。まとめておくと言っておいただろ。何かわからないところがあれば、言ってくれ。解説する」
そう短く言うと、夜鷹は前に向き直って読書を再開した。烈圭は呆然と口を軽く開けたまま、押し付けられたノートの一冊をパラリと捲る。丁寧に手書きでまとめられた、非常に見やすいノートだった。
再び夜鷹を見ると、彼はすました顔で相変わらず目の前の本に夢中だ。その横顔を見ていると、また腹の底から知らない何かが込み上げてくる。
「ええ……なんこれ、ありがとう……結婚する?」
「……いや、何で結婚になる。死んでもしない」
「あ、ごめん。今時のJKは感情が昂ると求婚する習性があると聞いて、つい。とにかく物凄くありがとうって激情を夜鷹サマにお伝えしたく」
「どんな習性だ……あと、それくらいでそう大袈裟になるな。正直面倒この上ない。これでも一応、おれはお前の弟になるわけで」
「オトウト」
「ああ。だから、いちいち気にするなって話だ。いいな?」
夜鷹は何やら、呆れたように息をつく。
そして「早く座れ、HR始まる」と煩わしそうに片手を振った。
烈圭は促されるままに席につくと、やはり呆然としたまま、鎖骨の下辺りを軽く握った拳で打つ。
千草や夜鷹と話していると胃の腑よりも、もっと深い腹の奥底から何かを吐き出しそうになる。この感覚には覚えがあった。伯父と暮らしていた時にもよくあった感覚だ。
烈圭は右手の甲を包むように左手の掌で擦りながら、代わりに深く息を吐いた。
◇ ◇ ◇
気が付けば、三限目の授業が終わっていた。
烈圭は腹の虫を小さく鳴らしながら、机上に暫く突っ伏す。すると、後頭部を軽く叩かれた。思わず低い声を漏らして、重い頭を持ち上げる。
「あ゛-? ……って夜鷹サマじゃありませんか。何用で? パシリなら喜んで走りますぜ」
「そのふざけた態度いい加減やめろ……次、生物だから移動教室。行くぞ」
「うぇ、マジすか。何階?」
「4階」
「嗚呼……なんてことだ……私のことはいい、お前だけでも先に行けっ、夜鷹サン……」
「この階のすぐ上だろうが、さっさとしろ。でないとお前、サボるだろうからな。それに、今のお前の状態は監視していないと危なっかしい」
烈圭の演技がかった声に眉を顰めながら、夜鷹は再び烈圭の後頭部を軽く叩く。
烈圭はバレたか、とカラカラ笑いながらようやく準備を始めた。
「お前、不良なのか」
夜鷹の静かな声に、烈圭は相変わらず軽い調子の声で笑いながら、目だけで夜鷹を見上げる。
「ひどいな? 誰、そんなこと言ったの」
「知らない生徒。朝霧烈圭は、よく暴力沙汰の問題起こす不良だから関わらない方がいいと、注意された。授業もよくサボるらしいな」
「暴力沙汰は一回だけなんだけどな~。あと、サボってるんじゃなくて呼び出されるんだよ、先生に。何故か知らんけど。こんなにも善良そうなJKの皮を被ってるってのに」
烈圭は準備を終え、教材とペンケースを持って立ち上がる。
烈圭は双子の実の弟である藍之仁とはまた違った、得体の知れないような。恐ろしい顔をしていると夜鷹は思った。
藍之仁は幼い顔立ちには似合わない、強い気迫が表情に現れるため少々近づきがたい印象がある。
それに対して烈圭は、時によって色々な顔をするのだ。その顔によって、幼くも大人びているようにも見えるし、男にも女にも見える。声色もコロコロと低くなったり、高くなったりと頻繁に様変わりするため、偶に誰の声なのかわからなくなるほどだ。
夜鷹は烈圭の視線から思わず顔を背けると、細く息を吐き出す。
「人は見かけによらない……千草がそのいい例だ」
「ぶはは! 言うじゃん」
「それと善良な女子高生は、暴力沙汰とは一切無縁だ。普通」
「私の中の善良なJKは人一倍アグレッシブだから」
烈圭と夜鷹は並んで、教室を出た。
烈圭は少年のように笑っている。その横顔を密かに眺めながら、夜鷹は長く双子の兄弟として過ごしてきた兄のことを思い出す。
(やっぱり似るもんだな、双子ってのは)
◇ ◇ ◇
「ねえ、知っとる? 新しく来た生物の先生、なんかヤバいらしーよ」
「あ、ウチも見たよその先生。眼鏡かけてて胡散臭そうな、めちゃデカい人よね」
「そーそー! 何でも、ミカちゃん家のママがさ、その人をいきなり連れてきて家に泊めたんだって! そんで、いたたまれないからって急遽ミカちゃん、この間うちに泊めたんやけど」
「はぁ!? なんそれ! もうそれ不倫じゃ!?」
「いや、ミカちゃん家、ママ一人だから不倫ではない。相手の方はわからんけど。それにその人と出くわした時、ミカちゃん制服着とったらしいけんさ……」
「確信犯じゃん!」
「ヤバいよね」
前の席に座る二人の女子生徒の会話が嫌でも耳に入る。どうやら、今から来るであろう新任の生物教師についての話をしているらしい。烈圭がふと時計を見上げると、授業開始の時刻からもうすぐ10分を過ぎようとしている頃だった。
「聞いた? 夜鷹サン」
「何を」
烈圭は頬杖をつきながら、熱心に本の中の文字列を目で追う夜鷹を眺める。
窓から差し込む、淡い光に溶けた夜鷹が眩しくて、烈圭は目を細めた。
「こんな田舎で生徒の母親とワンナイトする教師だよ? 絶対ド田舎初心者だって。田舎はいつだってカゲキな噂を求めてる。すーぐあることないこと噂が広まって、一口味見したつもりが、逆に田舎に骨までしゃぶりつくされる運命に陥った教師なんて、ちょっとぐらしくない? 現に私の餌食になってるワンナイト教師(仮)サンを労わって、一緒に手を合わせてあげよう」
「確かにお前の餌食になるのは少し同情する……あと、〝ぐらしい〟って何だ?」
「可哀そう、みたいな」
リン。
不意に聞き覚えのある鈴の音が聞こえた気がして、烈圭は顔を上げる。隣の夜鷹も同時に、釘付けだった本から目を離して視線を前に向けた。
すると、そこにはいつの間にか一人の長身の男が静かに佇んでいた。どうやらあの男が件のワンナイト生物教師らしい。
「んあー……じゃ、始めんぞ」
細いグラスコードが垂れ、淡いカラーレンズの大きな丸眼鏡が、一番に目を引いた。今の今まで寝ていたのか。少し癖のある髪の毛は所々跳ねて、乱れている。
男は黒い薄手の革手袋で白いチョークを摘まみ、少し掠れた気怠げな声で淡々と授業を始める。まるで遅刻したことは無かったことのようだ。
リン。
「!」
男が黒板の方に身体を向けた瞬間、今度は確かに鈴の音が聞こえた。
しかも、これは普通の鈴の音ではない。
(邪除けの鈴……?)
邪除けの鈴は烈圭が先日、鬼堕ちと対峙した際に持っていた鈴と同じ物。水流に聞いたところ、あの鈴は異形殺しの者が必ず携帯している必需品だという。
烈圭の場合は、伯父から護身のためにと譲り受けたものであった。
リン。
「! ……あー」
鈴の音が気紛れに小さく鳴る度、烈圭は唇を噛んだ。
烈圭の中の鬼の妖気が鈴の音によって乱され、冷たい汗が浮いてくる。未だ妖気を完全に抑制できていない烈圭には、強い刺激であった。
「! ……おい」
「ん、やばいかも」
小声で話しかけてくる夜鷹に、烈圭は小さく頷いた。──このままでは、再び鬼の姿になってしまう。それが確実にわかって、烈圭は夜鷹に耳打ちした。
「私一人でだいじょぶ。このまま授業受けてて」
「な……おい!」
烈圭は夜鷹の声を遮るように、わざと音をたてて立ち上がる。そして、軽く片手を上げて黒板の前にいる男を真っ直ぐ見た。
「お花摘み、行ってもいいですか」
「……おー、いいよ。いけ」
もったいぶるような間を空けて、男はこちらを振り返った。それに舌打ちするのを堪えながら烈圭は小さく会釈し、早足で生物室を出る。その後ろ姿を男は、丸眼鏡の奥にある目を細めながら見送った。
◇ ◇ ◇
「おい、天鬼! ちゃんと聞いてるか!?」
「……」
「おい! 天鬼!!」
「あ」
数学教師の説教を無視し、窓の外をなんとなしに眺めていた藍之仁は、ふと隣の管理棟校舎の4階。生物室から見知った顔が出てきたのを偶然目にして声を上げた。
何やら険しい顔をして廊下を走る見知った顔に、藍之仁は半眼になって一つ大袈裟な溜息を吐く。その溜め息に過剰に反応して、唾を飛ばしながら怒鳴り散らす数学教師にも構わず。藍之仁は大きく手を上げて立ち上がった。
「はーいセンセー。お花畑行ってきてもいいデスカ」
「なっ、は? ……お、花畑……??」
「そ、お花畑。んじゃ、もう行きますねー」
そうして藍之仁は、呆然とする数学教師とクラスメイトたちにひらりと片手を振って、颯爽と教室を後にした。
さて、何話ぶりかにサブタイトルの紹介を。
今回は〝花落つること知る多少〟ですね。
これも、多くの方が聞き覚えのあるフレーズではないでしょうか?
ご察しの通り、第3話「春眠暁を覚えず」と同様、孟浩然の「春暁」より引用しております。
意味は「花はどのくらい散ったのかどうかわからないが、さぞ多く散ったことだろう」と言うような感じです。
このタイトルは少しディープな意味を含めました。
今回、チラッと登場したあの妖しい人物に関するタイトルやも……?
このタイトルの意味も是非、考えて頂けましたら幸いです。