プロローグ
ドアの開く音は聞こえない。その代わり、ドアベルが微風に吹かれたように小さく鳴った。
チリン。
「いらっしゃいませ」と無意識に口を動かしながら振り返る。そこには、ドアの上枠に額をぶつけそうな程の背丈をした男が、静かに佇んでいた。
「空いてる席へどうぞ」と促す前に、その男は目の前のカウンターに座る。そしておもむろに懐から煙草を取り出すと、薄手の革手袋の黒い指で摘まんで、咥えた。日本人にしては、彫りの深い顔立ちをしていた。20代くらいの青年にも見えるし、壮年にも見える。
「申し訳ありませんが、お客さん。ここ禁煙でして」
メニュー表を差し出しながらそう言うと、あからさまに男は大きく舌を打ち鳴らした。
口が寂しいのか、男は火のついていない煙草は咥えたまま。それをプラプラと上下に揺らしている。その様子を視界の端に入れながら、グラスに氷を入れ、水を注ぐと、手早く男のもとに差し出した。
「ご注文がお決まり次第、お呼びください」
「なぁ」
男の気だるげな声に呼び止められ、再び振り返る。
男は右手で頬杖をつき、滑らかな黒革のデカい左手の中で煙草を弄りながら窓の外。その遠くを見ているようだった。
「このド田舎、大昔の落人共のー……〝隠れ里〟って呼ばれてんだっけ?」
〝落人〟とは、戦いに敗れ、逃げ落ちる者共の意──つまりは、落ち武者のことだ。
この辺りの田舎は、その大昔に敗走した落人共の雲隠れの地であったという昔話が、古くから伝承されていた。
「そうですよ。800年ほど前、とある一族との争乱に敗れた落人たちが追っ手を逃れて、各地の深い山奥へ。ここの盆地もそのうちの一つらしいです」
「あんた、ここの生まれか?」
「いえ。私は最近越してきたんです。……落人の新参者といったところでしょうか」
男は短く鼻で笑うと、目だけでこちらを見上げる。観光客にしてはずいぶんと、モノを知っていそうな顔をしていた。
「今の時代に落人とはなぁ。あんた、なにやらかしたんだ? フリン?」
「不倫で落人なんて……堕ちたものですね、今の人間も」
「今らしくていいじゃねぇか。ま、人間ってのはいつの時代でも汚ねぇ愛憎劇を繰り返してるけどなー。おれみたいに」
いや、テメェが堕ちてんのかよ。
顔になんとか笑みを浮かべながら、内心で思わずそう悪態をつく。観光客なのか、それとも愛憎劇の落人なのか。
「落人の隠れ里、ねぇ。おれにぴったりだな」
「不倫ですか」
「ちげーわ。まだしたことないし」
まだってなんだ。そういうのは一生やるな。内心で二度目の悪態を溢す。
おそらく人としてろくでもないのだろう。その男は笑いながら、人差し指と中指で煙草を挟んだ指をそのままに、グラスを持ち上げて冷水を口に含む。小さく喉を鳴らす音がやけに耳に入った。
「にしても、結構混じってんな。……人間以外の落人」
「人間以外?」
そう首を傾げて見せると、男は歪に口角を片方だけ吊り上げる。
「ああ。流石は隠れ里……いや、〝巣窟〟か」
不意に、男はこちらに軽く右手を伸ばしてくる。すると何もない、宙に向かって中指を弾いた。
ビュンッ。
たったそれだけで、背後で風を切るような音が聞こえた。振り返るのと同時に、棚に置いてあった調味料がカタンと音を立てて落ちる。
しかし、そこには何もないし──何も、いない。
目の前に座る男を顧みる。男は既に煙草を箱の中へと戻していた。そして、こちらの視線に気づくと、メニュー表を指してこう言った。
「注文、このホットサンド三つ」