あぶあぶキャッキャ
俺は赤ちゃんの全身に刻まれた生々しい傷跡を、目で確かめた。細かい擦り傷や切り傷が無数にある。痛かっただろうに。
「ばぶー」
「虐待が起きていたって聞くとさ、普通は親が子供を虐待するもんだって先入観があるよな」
俺は、今までの数々のヒントをもう一度鮮明に頭の中に描いた。これらは虐待被害者の声にならないメッセージだったのだ。
一番最初にニコニコおじさんに会った時、
【殺人鬼を殺して欲しいんです】
と、言った。
だが、二度目の依頼確認の時は、
【そうじゃ。ここ最近、この街では凄惨な殺人事件がいくつも起こっての。その犯人を捕まえて欲しいのじゃ】
と、言っていた。討伐から逮捕に依頼内容が変わっているのだ。
“説明が曖昧でコロコロ変わる”ことは虐待が起こっている兆候の一つだ。
ニコニコおじさんの家に向かうときも不自然だった。
【俺たちはしばらく無言で、街を歩いた。ニコニコおじさんの家はすごくすごく遠かった。ほとんど街中歩いた気がする。というか、同じところを何度も歩いていないかこれ?】
あれは、本当に同じところを何度も歩いていたんだ。
“家に帰りたがらない”のも虐待の兆候の一つだ。
最後に、ニコニコおじさんは、家に着くなりオドオドし始めて、異様な様子だった。
【ニコニコおじさんは、黙って茶を口に運ぶ。ティーカップを持つその手は、ひどく震えていた。なんだ? 様子が変だ】
“家に着いた瞬間にオドオドする”のも虐待の兆候の一つだ。
俺は赤ちゃんに話しかける。赤ちゃんは俺の台詞なんて知ったこっちゃないのだろう。いつものようにニコニコしている。とても可愛くて癒される。
「あぶばぶうぅ」
「お前のとーちゃんはいつもニコニコしていたから、明るい人なんだと勝手に思い込んでいた。でもいつもニコニコしている人間こそ、自分の感情を隠しているんだ」
「あぶぅ」
「お前のとーちゃんは常に感情を押し殺していたはずだ。本当は傷ついて壊れそうになっていて、それを隠そうとしていたんだ」
赤ちゃんは楽しそうに笑っている。心まで溶かされそうだ。
「お前のとーちゃんは殺人鬼じゃない。本物の殺人鬼にずっと脅されていたんだ。本物の殺人鬼は今もこの街に野放しになっている」
「あばあば」
「本物の殺人鬼は、お前のとーちゃんを自分の身代わりに差し出して、まんまと逃げおおせた」
「あば。きゃっきゃ」
「人間は誰しもが仮面を被っている。心を隠し、表情を押し込む。殺人鬼の分類の中で最も恐ろしいのは、一見普通のやつだ。一番イかれた殺人鬼は、一番仮面を深くかぶっている人物だ」
「きゃっ。きゃ」
「普通の格好で普通に人間社会に溶け込んでいる。そして、そいつが捕まった時に、みんな口を揃えてこういう『まさか。あの人が』ってな」
「あぶあぶー」
そして、俺は、目を覆いたくなるような悲しい真実を口に出した。
「この国では、どんなに非力でもルーレットの出目さえ良ければ誰でも殺人を犯すことができる」
俺はベビーベッドの赤ちゃんの目を見て、
「お前が本物の殺人鬼だろ?」
背筋を続々と何かが這い回る。まるで背中に直接ムカデを這わせているみたいだ。たくさん足のある気持ちの悪い昆虫が、無数にある足で背中をくすぐる。ぞわぞわとした感覚だけがやけに背中に残っていた。
悲しい真実だけが頭の中で、幾度も反響して溶けた。




