月にほえるオオカミ
殺人鬼は、まだ被害者の血で濡れている刃渡り五十センチほどの肉切り包丁で斬りかかってきた。
「ゴリラの鳴き声は、ふふふふふふふほっほだ」
殺人鬼の動きはそんなに速くない。筋力、瞬発力も大して強くなさそうだ。プロファイリングの結果と照らし合わせても、こいつはそんなに強くないはずだ。こいつは、寝込みを襲うタイプの戦闘方法ばかりだ。まず負けないだろう。
命のやり取りを実際に行う戦闘は、闇討ちとは全く違う。バケツをひっくり返したような大量の緊張感を浴びるはずだ。命がけの戦闘で重要なのは、努力でも、筋力でもない。戦闘経験だ。
幾度となく死地を切り抜けてきた俺が、卑怯者に負けるはずなどない。
俺は水の剣で、カウンターを狙う。透明な水のヤイバが肉切り包丁に向かって走る。
そして、
『バトルルーレットスタート!』
いつも見たルーレットが俺と殺人鬼のそばの空中に表示された。
「何っ!」
しまった! 完全にこの国のルールのことを忘れていた。そして、ルーレットは自動で止まる。
『ピロリロリロリロピピピピピ! ピーン! 攻撃力小』
だが、俺の攻撃はもう止まらない。肉切り包丁と水の剣が激しい音を立ててぶつかり合った。
そして、俺は肩からバックりと大怪我を負った。肩の肉が大きくえぐれて大量の血液を地べたに垂れ流す。先ほど路地裏で足を突っ込んだ水溜りのようになった。
地面に生まれた血の水溜りは、月明かりを反射して、赤黒く光る。鉄と錆のような血の香りが路地を濁す。
俺は振り返り、殺人鬼の方を見た。殺人鬼のそばの空中には例のルーレットが表示されている。その出目は、
『攻撃力大』
だった。
そう、この国での殺し合いで最も重要なのは、研ぎ澄まされた反射神経でも、鍛え上げた筋力でも、死地を切り抜けた戦闘経験でもない。もっと単純でもっと重要なもの。
この世界では、運で全てが決まる。
この国に入ってから、俺が何を食うか、どこで寝るか、いくら支払うか、全て運で決まった。そして、今からは、運で生きるか死ぬかが決まる。
「ヴっヴヴヴヴヴヴ。アオーーーーーーン!」
狼の遠吠えが月に溶ける。満月にぶっ刺さる高い音は、実に狼の生態を如実に表している。
遠吠えは、俺の傷口にまで届いた。それがほんの少しだけ痛かった。