堪え難いほど苦しい真実
「これを見ろ!」
「それは鏡?」
俺が手にしていたのは一枚の鏡。手鏡よりは大きいが、洗面台にあるやつよりは小さい。人の首から上が正確に確認できるものだ。
「そうだ! よく自分の姿を見ろ! ここに写っているのがお前の姿だ! お前はただのロボット。人間ではない」
「そんな! 俺は人間だ。俺はロブだ。俺がローズを守るんだ」
「違う。お前は人間じゃない! お前は自分を人間だと思い込んでいるただのロボットだ!」
自分自身の正体がわかっていない者には、現実を突きつけるのが最も効果がある。かつて俺も“異世界からきた人間”だと思い込んでいたことがある。
辛い現実を認めなければ、前には進めないのだ。
「なら俺は今まで何をしていたんだ?」
ロボットは両手で自分の頭をわかりやすく抱え始めた。自分で自分のことを守ろうとしているみたいだ。眼窩にあるレンズは、チカチカと光を瞬き始めた。頭部では電気信号が嵐のように行き交っているに違いない。もうこのロボットに複雑な思考をする余裕などない。
「お前は人間の敵ではない。もう戦闘をやめろ!」
ロボットはしばらく、身を悶えさせた。次第にその動きはゆっくりになっていき、死んだように停止した。
ロボットは電源を落とされたかのように、沈黙している。
そんな俺たちの元に彼女は近寄ってきた。
そして、耳を疑うような台詞を口にした。
「ケン! あたいのカレピを探しに行こう!」
と、何事もなかったかのようなローズ。
「お前さっきまでこのロボットが自分の彼氏だって言っていただろ?」
アリシアとアルトリウスもこちらにきた。
「ううん! あたいそんなこと言ってないし!」
俺たちは大きく息を呑んだ。
俺は、アルトリウスとアリシアと目を合わせる。曇った瞳に映るのは、互いの曇った表情だけ。俺たちは、お互いに緊張感を交換し合った。
俺は最後ローズの方を向いて、
「ローズ。君に言わないといけないことがある」
「そんなことよりとりまあたいのピッピを探しにいくピ!」
ローズはノリノリでコギャルっぽいポーズを決める。
「ローズっ!」
俺は怒鳴り声をあげた。怒号が一瞬の沈黙を生み出す。
「な、なんだし? つーかいきなり怖い声あげないでほしいし」
「いつもここまでだ。なんどやってもここまでだ。これ以上先には進めない」
「な、なんの話だし?」
「ローズ。そのロボットは自分のことを人間だと思い込んでいた。自分自身のことを錯誤している人間を救うには現実を突きつけるのが一番なんだ」
「さっきから何の話をしているし? 意味不なんすけど」
「自分のことを錯誤しているのはそのロボットだけじゃないんだ! お前もなんだ! お前も自分自身のことを錯誤しているんだ!」
「はあ? 一体何の話だし? っていうか、もうあたいの手助けをしてくれないなら、一人でカレピを探しにいくよ!」
「その体で、そんなことできるわけないだろ!」
胸の中が軋む。痛む。苦しい。だけど伝えなければならない。不穏な影が俺の体の上を覆っていく。悲しくて切ないベール。舐めるように、抱くように、俺の体を締め付ける。
現実という名の最大の敵は、いつだって目に見えない。だけどすぐそばにいる。
それはまるで、水の中に突っ込んだガラスのよう。すごく視認しにくいが、確かにそこにある。
[ローズ視点]
ケンはいつになく真剣な表情を貼り付けて、あたいの顔を見る。
「その体で、そんなことできるわけないだろ!」
「その体? 何の話だし?」
だが、あたいの体に違和感があったのはまぎれも無い事実。今日一日やけに体が重かった。普段よりやけに疲労しやすかった。ケンの言い分が真実だと仮定すると、あたいは自分自身に関して、重大な思い違いをしているらしい。
その時、あたいの脳の中に嫌な考えが浮かんだ。水に無理やり沈めた発泡スチロールのように、勢いよく水面から飛び出してきた。
(あたいは、人間ではないのかもしれない)
もし、あたいが自分のことを人間だと思い込んでいるのなら、その説明がつく。
重たい機械でできた体でできているロボットなら、辻褄が合う。
あたいは今日一日で起きた数々の違和感を頭の中に並べた。
【ふーん。つーかあたい疲れたんですけど。ちょっと休んでから探索するぽよあげ!】
なんだかよくわからないが、今日はやけに疲れる。体力を何者かにむしりとられてみたいだ。まるで老婆の気分じゃん。
ロボットの重たい体ならそう感じるのも無理はない。
【あいったー! 何もないところで転ぶとかアリエンティー!】
【お! おい! 気をつけろよ! 大怪我したらどうするんだよ!】
【はあ? こんなんで怪我なんてしねーし!】
と言いつつも、いつもよりも痛みが引かない気がする。しかも体の動きもなんだか鈍いし、ついにあたいも歳か。
ロボットなら痛みの感じ方が人間とは違うだろう。
【おい。そんな硬いもの食べさせるなよ! 歯が取れたらどうするんだよ!】
と、ケン。お前は作っていないんだから偉そうにするなし。
あたいは、アルトリウスの言う通り、思いっきり奥歯で卵を噛み砕いてみた。すると、
ゴリっ。ガリッ。
歯の万力に潰されて卵が砕けた。卵で奥歯がもげそうだ。あたいの歯ってこんなに脆かったっけ? いや、卵が硬いせいだ。多分。
ロボットに何かを食べる構造なんて必要がない。歯などなかったんだ。
ケンは、
【その体で、そんなことできるわけないだろ!】
と、言った。不慣れなロボットの体で彼氏を探しにいくことなんてできるはずがない。
あたいは全てを理解した。
あたいはパワーワードの産物だったんだ。あの時、きっとロブの自爆に巻き込まれて、あたいは死んだんだ。
そして、ロボットとして蘇ったんだ。そうに違いない。
自分を人間だと勘違いしているロボットはあたいだったんだ。
あたいの機械のように冷たい心から、わずかな温もりが抜けていく。震える喉を震わせて、あたいはケンに尋ねた。
「まさかあたいもそいつと同じようにロボットなのか?」
そして、ケンは先ほどの鏡をあたいに見せる。
「いや、違う」
あたいは、鏡の中を覗き込んだ。そこには信じられないものが写っていた。あたいは目を疑った。
あたいは今日一日の全ての違和感を再び頭の中に描いた。
【じゃあなんでコケとかツタが生えているんよ? なんだか古いものと新しいものが錯誤しているパワーダンジョンみたいじゃん!】
その瞬間、ケンたちはハッと息を飲んだ。
【え? なに? あたいなんか変なこと言った?】
この時、ケンたちは息を飲むように驚いていた。それはあたいが思いがけずに、真相にたどり着きそうになってしまったからだったのだろう。あたいが言った通り、古いものと新しいものは錯誤していたんだ。
【わしは、ロイヤルミルクティーが飲みたい】
あたいたちの輪の中に、いつの間にかホームレスがいた。
【んなもんねーよ。つーか誰だあんた?】
【あなたもしかして老人ホームから逃げてきた老人?】
と、アリシア。
アリシアの言い分から、老人ホームからは老人が脱走していたらしい。
【ケン! おじいちゃんにも優しくしないとダメよ!】
このセリフは、アリシアが老人に冷たくするケンを叱った時のものだ。この時、アリシアは、おじいちゃん“にも”と言っている。ということは、あの場に、あの老人以外にもいたんだ、優しくすべき対象が。
あたいは全てのパズルのピースが埋め込まれた鏡を見つめた。そこに写っていたのは、全ての答えだ。
鏡に映っていたのは、元気な若いギャルではなかった。
鏡に映っていたのは、一人の老婆だった。
ケンが口を開き、あたいに向かって、真実を突きつける。
「ローズ。お前は自分のことをギャルだと思い込んでいる認知症の老婆だ」
あたいは今朝の出来事を思い出した。
【老人の脱走だー! また逃げたぞー!】
何やら看護師さんたちが慌てている。これはあたいを捕まえようとしていたんだ。
ケンはあたいの目を優しく見つめて、
「老人ホームから脱走した老人とは、お前のことだ」
現実は残酷だ。冷たくて、機械のよう。魂なんてない。あるのは、リズムよく進む時と、淡々と回り続ける歯車のような惑星だけだ。