アルトリウス
第三章 アルトリウス
[アルトリウスの過去]
私は王の娘、つまり姫だ。私以外の兄弟は全員男で、騎士だ。王様も昔は騎士だった。
私は生まれつき手と足がなかった。両手と両足がないのだ。
だから“歩く”がなんなのかわからない。“立つ”こともできなかった。そんな私に周囲の人々は優しかった。
「お前は強い子だ」、「お前は優しい子だ」、「手足なんかなくてもお前にはその優しい心がある」、「お前ならできる」、「お前は世界一の娘だ」
十一人いるお兄様たちも優しかった。お兄様たちは、私に義手と義足を作ってくれた。
私は嬉しかった。歩けない私が歩けるようになる気がした。私は一生懸命頑張った。両足についた異物を一生懸命動かそうとした。だけど、努力の甲斐もなく私は歩けないままだった。
そんな私に、周囲の人は優しい声をかけてくれた。
「アルトリウス。お前ならできるよ!」、「兄さんに歩いている姿を見せてくれ」、「もっと頑張れ!」、「絶対にできるよ」、「アルトリウス! 頑張れ!」、「もう一回だけ頑張れ!」、「うまくいくさ!」、「自分の力を信じるんだ!」、「負けるな!」
「うん! 私頑張る!」
私は精一杯の笑顔を顔に貼り付けた。そして、もっともっと一生懸命頑張った。
この時は、“これが私の生まれてきた意味だ”と思った。
そして、なぜか手足のある五体満足の私が脳裏に浮かんだ。脳の中の私は笑って自分の手足を切り落とした。
この時の私は、この映像が何の意味を持つのかわからなかった。笑いながら自分の手足を切り落とすなんて頭がおかしいとしか思えない。
私はそんな意味不明な映像を脳の隅に追いやった。
そして、土と砂に頬を擦り付けながら歩く練習した。土砂降りの雨の日は泥のなかを這うようにして練習した。必死で手足をばたつかせて地べたを這いずった。何度も何度も、幾度も幾度も、繰り返した。まるで水に落ちた虫のようだった。
本当に一生懸命頑張った。誰よりも頑張った。もうこれ以上頑張ることなどできなかった。
そして、なんの成果もできないまま五年が過ぎた。
その日の私は、いつも通り歩く練習をしていた。前日が雨だったためか、中庭にはいくつもの泥溜まりがあった。私はうまく歩けずにそこに突っ込んだ。泥が跳ねて顔にかかる。
私は少し休憩するために寝転がって、空を見上げた。
すると、裏庭の方からいつものように兄さんたちの楽しそうな笑い声が聞こえてきた。いつか私もあの輪の中に入りたい。みんなと一緒に普通に談笑できたらどれだけ幸せなのだろうか?
いつかみんなと一緒に食事をとりたい。いつかみんなと一緒に笑いたい。いつか私も普通になりたい。
私は裏庭まで行くことができないから、地べたに寝転んだまま耳を傾けた。兄さんたちが話していたのは、
「あいつまだやっているぜ」、「頑張ればどうにかなると思っているのかよ」、「あいつの地べたを這いずっている姿を見たか? 虫みたいで笑えるぜ」、「なあ、またみんなで励ましに行こう!」、「“頑張れ”って励ますと、“うん! 私頑張る!”って言うんだ」、「最高に笑えるよな」、「できるわけねーのにな」、「あの義足には細工してあるんだ。最初からあんな義足で歩けるようになるわけないんだ!」、「あいつのやっていたことは最初から不可能なことだったんだよ! あっはっはっはっはー!」
兄さんたちがいつも楽しそうに笑っていたのは、無駄な努力をする私のこの姿を見てのことだった。
私は絶望した。胸の中を埋め尽くしたのは、怒りの炎じゃない。ただの惨めな白い灰だった。消えてなくなりたかった。復讐なんてしなくていいから、ただただ今すぐ消えていなくなってしまいたい。
そうすればもう苦しまなくていいから。そうすればもう努力しなくていいから。
「おい! お前たち! またアルトリウスをバカにしているのか!」
王様、つまり父の声がする。
「あなたたち!」
女王さま、つまり母の声もする。
「お前たちは、ああいう風になるなよ」
そこから先は聞くに耐えない罵詈雑言の雨だった。私はただの笑いものだった。
なぜ手がないのに耳はあるんだろう? 耳なんかなければこんな声聞こえてこなかったのに。
なぜ足がないのに目はあるんだろう? 目なんかなければこんな惨めな自分を見なくて済んだのに。
暗い闇の中でずっと自分の不幸に気づかずに生きていけたら、どれだけ楽だっただろうか。
私は努力することをやめた。
すると今度は、
『かわいそうだ』、『不憫だ』、『気の毒に』、『不幸だ』
周囲の人々は同情してくれた。その同情の言葉は、私を不幸だと自覚させた。より強く自分が劣っていると感じた。
苦しかった。辛かった。生き地獄だった。両手に加えて両足もない。歩くことも立つこともできない。
努力をやめた私は、窓の外を眺め続けた。毎日毎日、来る日も来る日も、ずっとずっと外を見ていた。
ただそこに存在している。それだけで罪の意識を感じた。地獄のような日々は、螺旋の時の中に私を閉じ込める。永遠に抜け出せない地獄の味は、無味乾燥なものだった。
そんな私にも楽しみはあった。絵を描くのだけが私の楽しみだった。手が使えないから口で筆をくわえて絵を描いた。その絵は、まるで子供が書き殴ったような絵。ぐにゃぐにゃに歪んた線は、ところどころほつれていて歪だ。
私はたくさん絵を描いた。絵の中に出てくる私は、両手があって両足もある。楽しそうに野原をかけていく。金髪を揺らしながら、力強く走っている。
現実には叶わない夢は、絵の中で命を吹き込まれた。私はその絵を見て、『この絵の中にいるのが本当の私なんだ』と、思うことにした。現実のこの手足のない体こそが夢だ。そう思うと楽になった。
本当に幸せそうな絵だ。絵の中に封じ込められた、私の夢の塊。
だけど、どうしても一点だけおかしな絵になる。私の絵には顔がない。どれだけ頑張っても笑顔を描くことができなかった。人間の顔の部分だけがいつも空欄になってしまう。のっぺらぼうのようだ。
絵に描いた私を覗き込むと、真っ白の顔が私のことを見つめ返す。目も耳も何もない。ただの虚無。
歩く努力をやめた私に両親は、わずかに残っていた愛想までも尽かせた。
「なぜ人より劣っているのに、努力しないんだ!」、「お前みたいな不良品、努力しないのならなんの価値もない!」、「前はあれだけ頑張っていただろ! お前ならできる!」、「負けるな!」、「頑張れ!」
私を励ます言葉はまるで鞭のように私の体を締め付けた。見えない鉄の鎖が常に私を地べたに縛り付ける。ぐるぐる巻きにされて体を動かせない。指一本すら動かせないほど息苦しい。
そんな地獄の中で、私にパワーワード能力が目覚めた。
パワーワードは強烈なトラウマを植え付けるような一言とともに宿る。私に強烈なトラウマを植え付けたのは、耳を覆いたくなるような罵詈雑言ではなかった。
『頑張れ』
その言葉は、頑張ることすらできない私にとっては、辛いものだった。
そして、パワーワード能力が宿った。まず最初に、歩けるはずのない壊れた義足で歩けるようになった。物理的に不可能だった。だからこそ、私は歩けるようになった。パワーワードは不可能を可能にするのだ。
次に、動かないはずの両手が動いた。義手には、物をつかむことができるような設計などない。
ただ手の形をした金属。その金属を私の意思で動かせるようになった。曲がるはずのない金属がなぜか関節のように動くようになったのだ。
そして、最も強いパワーワードが宿る。私は描いた絵を現実のものにすることができるようになった。“動くはずのない絵が動く”のだ。
だけど、パワーワードの力をもってしても、絵の中の私に顔はないままだった。
私は辛い時、いつも空想の世界に逃げる。地獄のような現実に耐えられないから。
空想の世界には、いつだって絵に描いたような幸せそうな笑顔を浮かべた私がいるんだ。
私はそれを何度も描こうとする。何度も絵にしようとした。そうなりたい。絵を描いていれば辛い現実など忘れてしまえるから。
私の能力は絵を現実にする力。だけど、その願いだけは現実にはならなかった。
私は城を飛び出した。野をかけて、街を塗って、世界に踏み出した。生まれて初めて立った。生まれて初めて走った。ずっとずっと思い描いていた私の幸せは、それほどいいものではなかった。
立てば勇気を取り戻せると思っていた。
歩けば希望を取り戻せると思っていた。
走れば笑顔を取り戻せると思っていた。だけど、手足と引き換えに、私は顔と表情を失った。
気づけば、私は自分で書いた絵の、のっぺらぼうみたいになっていた。
私は絶望した。今度は、怒りの炎だけが、胸の中を埋め尽くした。私は復讐の十字架を胸の中に突き刺した。胸の中心の臓器に、深々と“復讐”の二文字が突き刺さる。
「復讐してやる! 一人残らず殺してやる! 円卓を囲む騎士などいらない。この世に必要のない不良品はどっちか教えてやる!」
怒りに身を任せて思考を停止した。そしたら苦しくなくなった。
そうすればもう苦しまなくていいから。




