戦いの終結?
「やっぱりだ! 絵が動いている!」
アルトリウスの絵は、さっきよりも俺の近くに移動した。もうすぐ目の前。触れれば届くほどの距離に絵がある。
そして、俺がいる長方形の空間の中に音の濁流が流れ込む。突然波の音が部屋中を埋め尽くしたのだ。もちろん波なんて発生のしようがない。だが、波の音だけが部屋を覆う。
「な、なんだ?」
上、下、右、左、前、後ろ、全方向から波の音が聞こえてくる。俺は地面に描かれた絵をじっくりと見つめた。
「絵が動いている!」
地面に描かれた海の絵は、テレビアニメのように激しく踊り始めた。次々とコマ送りになって絵が動く。事前に似たような絵を何枚も描いて、それを次々に表示しているみたいだ。
足元に広がる大海原の絵は、次第に嵐の海になった。荒れ狂う海からは、轟音が聞こえる。さっきまで水色だった絵空は、黒雲の絵に切り替わった。
黒雲の隙間からは黄色クレヨンで描いたギザギザの線が地面に落ちる。
「なんだあれ? 雷か?」
太い黄色い線は、枝分かれしながら地面にぶつかる。空からは、ゴロゴロと雷音が聞こえる。轟く雷の声は、俺の体を震わせる。
そして、いよいよ絵はうねり始めた。地面の絵はもう原型をとどめていない。完全に波打ち、床の形を変え始めた。
「くそっ! 立っていられない!」
まるで地面が波のように揺れているみたいだ。地震よりも激しい津波は、絵でできていた。
俺は波に体を弄ばれる。まるでウルフに生きたまま踊り食いをされた時のようだ。波に転がされ、体は床の上をきりもみする。回転する俺の体には、打撲痕が刻み込まれた。
「水よ! ぐあっ!」
パワーワードを言う前に、顔を思いっきり地面に叩きつけた。その瞬間、口の中と鼻の中に大量の海水が流れ込む。地面の上で溺れそうだ。
「水よ! 俺の、ぐっ!」
また言い切れなかった。今度は後頭部を波に打ち付けた。
そして、抵抗などほとんどできるはずもなく、ボロ切れのようになった。自然の力の前では、人間など虫けら以下なのだ。
揺らぐ視界で、もう一度アルトリウスの絵を見ると、今度は絵に漫画の吹き出しのようなものが見える。そして、そこに独りでに文字が浮かび上がる。
『どうやら私の勝ちのようだな』
絵状態のアルトリウスの台詞ということなのだろう。
「ゲホっ! ごほっ!」
俺は肺を濡らす海水を、吐き出した。髪は海水でめちゃくちゃに乱れ、衣服もびしょ濡れだ。まるで室内で通り雨に遭ったみたいだ。
『もうお前に動く力はないだろう。トドメだ』
そして、アルトリウスは絵状態を解除した。絵で描かれていたアルトリウスはゆっくりと現実の世界に帰ってくる。まず右手を絵から突き出し、ゾンビのように這い上がる。次に、頭を絵の水面から引きずり出し、左手も出した。
そして、完全に絵の海から立ち上がる。
「私の勝ちだ!」
その瞬間、俺の勝利が確定した。
アルトリウスの体に血液が絡みつく。
「一体なんだこの血は? なんで質量を持っているのだっ?」
ロープのような血は質量を孕みながら、アルトリウスを縛った。巻きつかれた血は彼女の動きを完封。口も手も足も完全に覆い尽くした。
俺はゾンビの死体のように、ゆっくりと立ち上がる。
「げぼっ。グッ。ハアハア」
正直危なかった。ただの姫様がこんなに強いなんて思っていなかった。この女性には過去で一体何があったのだろうか? おそらく俺とアリシアと同じように、パワーワードの分類の三つ目『その人の人生において意味のある一文』で強化したに違いない。
「むぐぐぐぐー」
アルトリウスが口を塞がれたまま何かを言おうとする。きっと、『一体何をした?』、『どう言うことだっ!』とかそんなことだろう。
「なんて言っているのか知らんが、どうやって勝ったか解説してやる。まずお前を縛り付けるその血はお前の能力だ」
「むぐっ(なにっ)?」
「俺に血を具現化させる能力はない」
「むぐぐぐぐ(どう言うことだ)?」
「お前が『私は、絵の中を泳ぐ』と言った後、地面にはさっきまでなかったお前の絵が描かれていた」
俺は、警戒を怠らずにアルトリウスに言葉をぶつける。
「そして、その絵は、俺が見ていない隙に、俺にちょっとずつ近寄ってきていた。まるでだるまさんがころんだをしている時みたいにな」
「むぐ(くそ)!」
「だから俺は、二回目に振り返った時に、自分の手を切ってお前の体に血で縄の絵を描いたんだ」
「むぐぐ、ぐぐぐ(そんなバカな)!」
「お前はいずれ絵の中に閉じ込めた自分を再び元に戻すと踏んだ。事前に絵で拘束しておけば、その瞬間俺の勝ちが確定する」
「むぐー(むぐー)!」
「お前の自画像には顔が描かれていなかったから、上手くいった。顔を描かなかったのがあだになったな」
アルトリウスは何かを思い出したように、黙り込んだ。
「でも、どうして顔を描かなかった? 描いていればお前の勝ちだったかもしれないのに」
アルトリウスは、自動で敵を追い詰めるような能力に設定しておいたのだろう。そうすれば絵に顔がなくても戦える。
アルトリウスは黙りこくって俯いている。
遠くからアリシアたちがやってくる。洗脳されていた騎士たちも全員無事なようだ。
「ケン! お疲れ!」
「がるるるる! わんわん!」
「ケンどの。感謝いたしますぞ!」
「どうやら洗脳も解除されたみたいだな」
けが人は大勢いるが、死人は一人もいない。
「ガルガル。今回の作戦は成功でしょ?」
「ああ。切りつけたりしてごめんな。俺に切られた箇所は、切られていなかっただろ?」
その瞬間、パワーワードによってウルフの傷が完治した。
「うおっ! 治ったわん!」
「なんであの時、ウルフのことを攻撃したのよ! 私のことも拳骨でコッツンしたし!」
「悪かったよ! 騎士殺しの能力は、忠誠心を操る能力だから、お前たちのことを攻撃せざるを得なかったんだよ!」
「ふーん。なら私にあれ奢ってよ!」
「あれってなんだよ?」
「内緒よ!」
「なんでだよ」
こいつ一旦俺に奢る宣言をさせてから、高いものたかる気だな。くそ、おバカキャラだったのに知恵をつけやがった。
「俺にもなんかおごれ! ぐるぐる!」
と、ウルフ。
「拙者にも奢ってくれるのでござるか?」
「いや、ござらん」
お前関係ないだろ。
「ところでこいつはどうしましょうか?」
騎士のうちの一人が言った。こいつとはアルトリウスのことだ。
「拙者は、この場で処刑すべきだと思うでござる」
「処刑って! ちょっと待ってよ!」
と、アリシア。
「私もこの女はこの場で首を切り落とすべきかと」
「そうだ! そうだ!」
「殺しちまえ! 自分の国を襲う姫なんて聞いたことがない!」
「ぶっ殺せ!」
「首を切り落として見世物にしてやる!」
騎士たちの怒りは収まるところを知らない。どんどんヒートアップし、広い部屋の中を殺意でぎゅうぎゅうにした。まるで、殺意がすし詰めにされているみたいだ。気体になった殺人欲求は、暴発寸前。触れれば弾けそうな勢いだ。
「殺すことはないでしょう! ケンもなんとか言ってよ!」
このまま俺が何も言わなければ、この女はまず殺される。この女の命綱は俺が握っている状態だ。
「ケン殿が殺すなといえばそれに従うでござる」
そして、
「俺は、この女をこの場で殺すべきだと思う」
辛い決断をした。
「ケンっ!」
アリシアが声を張り上げる。ぴしゃりと水を打ったように静まり返る。静寂が俺たちの体表を滑る。重たい沈黙のベールを割いて、
「この女は強すぎる。万が一、口が自由になったらすぐにでもパワーワードで逆転される。パワーワード使いにとって、不利な状況は有利な状況なんだ」
俺は群衆を見つめて、
「今この場で殺さずに、万が一、街や王宮で猿轡が外れたら、大惨事だ。小さい子供や、妊婦、病人、赤ん坊なんて、一捻りで殺されてしまう」
アリシアは黙り込んだ。
「パワーワードは、正しく使えば、誰かを守る盾になる。だけどそれと同時に、誰かを殺すつるぎにもなるんだ。王様からの捜索依頼は“生死問わず”になっている。だから、俺はこの女を今ここで処刑すべきだと思う」
俺が言い終わると、部屋は大歓喜に包まれた。
「よっしゃー!」、「やったぜ!」、「自分がこの女のいいなりになっていたと思うと虫唾が走る」、「こんな危険なやつ生かしておいたらだめだ!」、「さすがはケンだ! 俺たちのリーダーだ!」、「早く殺しちまおう! んで一ヶ月ぶりに家に帰ろう」、「俺の娘と妻が待っているんだ!」
アリシアは曇った表情を顔にぴったりと貼り付けている。俺のことを見る目は寂しげだった。
俺はアルトリウスの方に向き直り、
「俺はお前のことを今この場で処刑することにする。最後に何か言い残したことはあるか? 口を縛ったまま喋れ!」
そして、アルトリウスは俺に心で語りかけてきた(俺のパワーワードがそうさせた)。
『ない』
だがそれと同時に、見えるはずのない彼女の過去も、俺の心の中に流れ込んできた。それはただの偶然だった。
ただの運命のイタズラだった。
[アルトリウス視点]
ケンは私の喉笛に水でできた剣先を触れさせる。私の柔らかいのどに、冷たい感触が刺さる。唾を飲み込み、喉が動いただけで、少し肌が切れた。垂れた血は、ケンの水の剣に混ざり、色を与える。
「アリシア! 先に騎士たちを連れて帰っていてくれ! 俺はこいつを殺してから行く」
ケンが冷たく言い放つ。彼の言葉はヤイバのように尖っている。
(そうか私はもう死ぬのか。手足のない私にふさわしい惨めな末路だ)
「ケン。でも」
アリシアと呼ばれた女性が、心配そうにケンを見つめる。震える瞳は何かを訴えかけている。
「早く行けっ!」
ケンは彼女に怒号を飛ばす。私を殺す瞬間を見せたくないのだろう。
洗脳が解けた騎士たちは、
「くたばれ!」、「死んじまえ!」、「お前なんかこの世に生まれてこなければよかったんだ!」、「誰もがお前の死を望んでいる」、「一秒でも早く死んでくれ!」、「お前なんかただのゴミだ」、「生きている意味なんてない」
罵詈雑言を浴びせてくる。それもそうだ。数ヶ月もの間、ずっと使役していたんだ。私の命令で、騎士をさらう手伝いをさせた。忠誠を誓った王を裏切らせて、家族を捨てさせた。怒り狂って当然だ。
ボロボロに軋んだ心は、さらに小さく、矮小なものになった。
私は、目の前にいるケンを見つめた。彼の黒い瞳は赤かった。怒りに燃えて、炎がみなぎっている。殺意だけが火炎のようにひしめいている。
私は心の中で、
『殺せ。そうすればこの人生が終わる』
ケンは右手を頭上に高く上げる。
「今からお前を殺す」
そして、騎士たちが全員部屋から出て行った。
『私はもう頑張らなくても済むんだ』
私は両の目から涙がこぼれたことに気づいた。頬を切る水滴は、空よりも透き通っていた。
『こんなに辛いなら生まれて来たくなかった』
そして、二人きりになったことを確認すると、ケンは水でできた剣を放り投げて、私に手を差し伸べる。
「協力してやる。今からお前の国を滅ぼそう」