スパイ
「一旦引くぞ!」
そして、俺たちは尻尾を巻いて逃げ出した。走って、走って、走り抜いた。血中の酸素が足りなくなる。犬のように激しく息を出し入れしながら、体を動かす。全身全霊の全力疾走でなんとか街までたどり着いた。
「一旦噴水広場まで逃げよう! 街の中ならモンスターも襲ってこないだろう!」
街の入り口付近にある噴水広場まで走った。美しい噴水が空に向かって、水の礫を打ち上げる。精錬されていて、美しい。アリシアたちを見ると、全員虫の息だった。
「ぜーはーぜーはー」
と、激しく喘ぐアリシア。
「なんだかこちらの動きを対策されていたみたいだっきゅっきゅきゅ」
と、萌。
「うげっ。おえっ」
吐きそうになる俺。
それと対照的に、一切汗をかかないジミー。無表情で俺たちを見ている。いくら地味キャラだからってこれはおかしいだろ。つーかこいつ怖いな。
「みんな大丈夫か?」
俺の愉快な仲間たちは、返事をせずに、頷いた。俺は、噴水のそばまで行くと、
「ここまでくれば大丈夫だろ!」
その瞬間、待ち伏せしていたモンスターに襲われた。噴水の中から飛び出してきたのは三匹の人面食パンだった。
「くそっ! 待ち伏せか! 逃げるぞ!」
振り返ると、もう三人は地平線の彼方だった。
「ここはケンに任せて逃げるわよ!」
ガゼルのように逃げるアリシアたちに、
「ちょ待てよー!」
なんとか三人に追いつくと、次は、地下街に逃げ込んだ。
地下街の一角で壁に手をついて、肩で息をする。そして、
「ここまでくれば大丈夫だろ!」
その瞬間、待ち伏せしていたモンスターに襲われた。地下街の排水溝から飛び出してきたのはカニカマでできた蟹だった。紛らわしい。
「くそっ! なんでいく先々で待ち伏せしているんだ! 逃げるぞ!」
俺が振り返ると、三人はもうとっくに逃げていた。というか、確信犯だぞ。俺を囮に使っていやがる!
「ちょまー!」
なんとか三人に追いつくと、次は、商店街に逃げ込んだ。
商店街のパワーワードアパレル空気屋さんの空気できたタキシードに手をかけながら、
「ここまでくれば大丈夫だろ!」
その瞬間、待ち伏せしていたモンスターに襲われた。タキシードの陰から飛び出してきたのは、やる気満々のナマケモノだ。普通のナマケモノはなんかだらだらしてそうなイメージがあるけど、こいつは目に炎が滾って見える。
「くそ! またかよ!」
そして、俺はまた当然のように俺を見捨てていった仲間の元へ駆けた。
「なあ! なんで俺のこと置き去りにするんだよ!」
「ケン! あなたの屋敷の中に逃げましょう! そうすれば流石にもう追ってこれないはず!」
「おい! なんで俺のこと置いていったんだよ!」
「ごめんなさい」
と、消え入りそうな声でジミーが言った。
「早く屋敷に行くでちゅ! 反省はそこでするできゅ!」
「いや、お前が反省するんだよ!」
そして、命からがら屋敷の中に飛び込んだ。アリシアはまるで自分の家のようにソファーでくつろいでいる。
ジミーは虚ろな目でただ壁を見つめている。こいつ怖いな。
萌は勝手に冷蔵庫からプリンを取ってきて、
「危なかったでちゅね。はい! どうぞ!」
「いや、これ俺のプリンなんだけど」
俺はプリンを受け取ると、それをそのまま側のテーブルに置き、地べたに座った。
体内の全ての毛細血管がはちきれそうだ。酸素が完全に不足している。飲み込むようにして息を吸い込み、嘔吐するように二酸化炭素を吐き出す。肺はメトロノームのようなペースで激しく動く。そして、
「ここまでくれば大丈夫だろ!」
その瞬間、待ち伏せしていたモンスターに襲われた。
モンスターとの戦闘の最中、ジミーが聞こえるか聞こえないくらいの音量で舌打ちをした。
「チッ。しぶといな」
ジミーの地味な台詞はトゲを孕んでいた。まるで腹の底にある黒い沈殿物が吐息とともに溢れたかのようだった。
モンスターとの戦闘を終えて、
「だーやっと終わった」
屋敷はめちゃくちゃになった。壁はあちこちにヒビが入り、今にも崩れそうだ。まるで屋敷が老け込んだみたいだ。
地面にはモンスターが垂れ流した体液があちこちに水溜りを生み出している。
アリシアはぐでっとだらけている。ジミーは相変わらず、地味地味している。萌は萌え萌えしている。
俺はアリシアと萌に、
「アリ! 萌!」
と呼びかけた。いつもとトーンの違う声はまるでナイフのように尖っている。
「やるのね?」
と、アリシア。目が真剣だ。
「わかったできゅ!」
と、萌。声色がさっきとは打って変わったように真剣なものになる。空気がその身の温度を幾度か下げる。冷たい風が吹き抜ける。まるで今、俺がいるこの部屋に液体窒素が流し込まれたみたいだ。
俺たちは三人でジミーの元に行くと、
「なあジミー。お前が俺たちの仲間になったのって数週間前だよな?」
ジミーはこちらを振り返り、
「ごめんなさい」
「いやいや。なんで謝るんだよ! ただ聞いているだけだろ?」
「はい。それくらいです」
「その頃から俺たちは頻繁にモンスターに待ち伏せされるようになったよな?」
「え?」
「もう一度聞くぜ。お前が加入してから俺たちは待ち伏せされるようになった」
「私をスパイか何かだと疑っているのですか?」
「いいや」
「じゃあ、一体なんですかっ?」
控えめな女の子ジミーは、体を震わせて大声を上げる。
「俺はお前がスパイだと疑っているんじゃない。確信しているんだ!」
「どういうことです?」
「今回の依頼は“街の外でカレーライスが暴れているから退治してくれ”というものだったろ?」
「ええ」
「あの依頼は俺が出したんだ」
その瞬間、空気の狭間に亀裂が走る。緊張感が足元から背中に飛び乗った。
「え?」
ジミーは完全に表情をむき出しにしている。“驚愕という単語”をそのまま顔で表現しているみたいだ。
「誰がスパイかを確かめるための作戦だったんだ。アリシアと萌もそのことは承知だ」
「事前に打ち合わせして、私がジミーちゃんにだけ逃げ先を伝えたのよ!」
「そしたら逃げる先々でモンスターに襲われたでちゅ」
「ということはお前が誰かに俺たちの情報を売っているスパイだということだ! 観念しろ!」
俺の声が空気の中を泳いでいく。透明な空気は引き裂かれてその身をよじる。砕けた平和の破片が地べたに落ちて、沈黙する。
まるでサスペンス小説のラストシーンみたいだ。犯人に全てを突きつけて、とどめをさす。一番盛り上がる最高の場面。ジミーの曇った表情と裏腹に俺たちは、顔の中に勇気を閉じ込める。
そして、
「くそっ! ばれたか。その通り、私がお前たちのスパイだ! それでどうする? 私を殺すのか?」
「いや、猿轡して逮捕だ」
そして、ジミーは無事に警察に引き渡された。特に抵抗するわけでもなく、地味なラストだった。
猿轡をするのは、パワーワード対策だ。パワーワード使いなら、言葉一つで逆転できてしまうからな。
しばらくして、ボロボロになった屋敷で盛大にパーティーを開いた。参加者は俺とアリと萌だけだ。
「いやー! 上手くいったな! アリも萌もなかなかの演技だったぞ!」
「どやあああああ」
と、アリシア。
「これでもういちいち依頼のたびに危険な目に遭うこともないでちゅでちゅー!」
「でも一体誰が私たちの殺害を目論んでいたのかしらね? それにカレーライスから私を守ってくれた影は一体なんだったのかしら?」
「さあ。っていうかカレーライスに負けそうになっただろ! あれ本当にびっくりしたぞ!」
「まあまあ。今日はたくさん食べていっぱい飲むでちゅ!」
と言いながら、俺の冷蔵庫からつまみと飲み物を勝手に持ってきた。『たくさん食べて』ってそれ俺の食糧なんだけど。
「まあ! 美味しそう! 全部ケンの好物じゃない!」
そりゃそうだろ。
「はい! ケンちゃんも飲んで!」
萌が俺のコップを勝手に持ってきて、俺のとっておきのジュースを勝手に注いだ。
「ま、何はともあれ、よかったな! これでスパイのあぶり出しには成功したし、一件らくちゃーくっ!」
グラスのぶつかる音とともに、みんなで一斉に飲み食いした。宴は最高潮の盛り上がりを見せた。一仕事終えた後の宴会は至高。これのために働いていると言っても過言ではない。華やかな空間に、幸福感が飛び交う。
疲れが吹き飛び、身体中に元気と活気がみなぎる。まるで、最高に最高を重ねているみたいだ。つまり最高だ。
俺は目の前のステーキにかぶりついた。血の滴るステーキは俺の喉を潤した。噛めば噛むほど肉汁が飛び出てきて、喉の奥にぶっ刺さる。美味い。美味い。美味すぎる。
砕けたステーキの肉片は、存在感を放ちながら口腔内を踊る。舌の上で快感が踊っているみたいだ。柔らかい肉は、まるで快楽の塊。噛めば噛むほど、脳に快楽を送り込む。
俺は皿に顔を突っ込んで食いまくった。
「犬みたいに食べてー。ウルフみたい!」
「そ、そだね」
「なんでテンション下がってんのよ! まさかボッコボコにされたの思い出しだの? ケンはウルフに生きたまま食べられたもんね!」
「ち、ちげーよ!」
アリシアと言い争っていると、
「ケンちゃん! 萌、お電話かけてくるでちゅ」
「あ、ほーか。ほーか。夜だし気をつけてな!」
「もうスパイもいなくなったし大丈夫でちゅ! ケンちゃんはいつも萌のこと過保護できゅ!」
「だって萌はこの中で一番年下だからな。電話終わったらすぐ帰ってくるんだぞ」
萌とアリシアはこの屋敷に住んでいる。とっとこみんなの依頼をやる屋さんのメンバーはホームレスとか金がないやつばっかりだ。みんな俺の冷蔵庫から何か勝手にとっていく。勝手に俺のソファーに座る。
「子供扱いしないでくだちゅい!」
そして、萌は屋敷を後にした。
[萌視点]
夜の闇の中を飛んでいく。スキップするたびに心が揺れる。グラグラと音を立てて左右に揺れる。地面に足がつくたびに、振動が心に触れる。
「おっでんわ! おっでんわ! 楽しいおっでんわ!」
静寂を萌の楽しそうな声が砕く。静まり返って凍りついた街に、火が灯ったみたいだ。
「つながらないお電話がつっながっるよっ!」
萌は浮かれて浮かれてスキップする。飛び跳ねるごとに、闇の飛沫が顔にかかる。わずかに地面にぶつかる月の光は、今にも闇に飲まれそうなほど弱々しい。
萌のなんだかよくわからないオリジナル歌は沈黙を砕く。
「でんでんでんわ。楽しいおっでんわ!」
そして、萌は暗い路地裏に入ると、ピタリと歌うのをやめた。ゆっくりと確かな足取りで路地裏を縫っていく。細い道を幾度か曲がると、
「パワーワード電話発動。つながらない電話がつながる」
誰にも聞かれないような暗がりに、萌の声が響く。
プルルルルルルル
プルルルルルルル
プルルルルルルル
三度目のコール音の後、彼が電話に出た。
「首尾よくいったか?」
電話に出た彼の声はくぐもっている。まるで夜の闇のように掴み所がない。萌は、猫をかぶるのをやめると、
「ええ。全員騙されています」
「よくやった。例の作戦は、時期を見計らってやれ!」
「はい。喜んで! 皆殺しにします」
通話を切ると、夜の闇はより一層その色を濃厚なものにした。まるで地上に存在する全てのものを太陽から隠そうとしているようだ。
「くっくっくっく」
裏切り者の萌のいやらしい笑い声が、空気を割る。
「あーはっはっはっは!」
その声は、凍てつく冷気よりも冷たくて、暗い夜空より真っ暗だった。
「みんな殺してやる! はらわたを全部出してやる! 十二指腸を全部引きずり出してやる! 臓器という臓器をぶちまけさせてやるっ!」
萌は、脳内にケンの姿を映し出す。
『いやー! 上手くいったな!』
ケンは、お日様みたいな笑顔を振り撒く。
「ぶっ殺してやる! 背骨を引きずり出してやる! 頭蓋骨を抉り出してやる! 骨という骨を全部床に撒いてやる!」
萌は、脳内にアリシアの姿を映し出す。
『どやあああああ』
アリシアは、いつも元気で楽しそうだ。
「殺す殺す殺す殺す殺す! 絶対に殺す! ぶっ殺すっ!」
雲ひとつない夜空には、星が瞬いている。溢れて溢れそうなほどの星の海は、暗くて、重たくて、美しかった。
輝く星々は、まるで夜空を天蓋に貼り付けるピンのよう。星が消えてしまったのなら、もう夜空を支えるものなどない。天井から地面に向かってあの大空が落ちてきそうだ。
大きな大きな空は、今にも崩れ落ちそうだった。