震え
最後にシャーリーともえがこっちに走り寄ってきて、
「あんたなんかとは、二度と会いたくないんだからねっ……ていうのはウ・ソ! また来て欲しいんだからねっ!」
と、掌を返すもえ。
「さっきまでの私の態度は全部好きの裏返しよ! 本当は大大大好き。またきてね!」
と、掌を返すシャーリー。
「もう騙されるかー!」
そして、ハイデルキアに帰った。
[現在]
俺は山積みになった請求書の束から目を逸らした。現実は直視しなければいい。そうすれば、ただの虚構と同じだ。
視界の外で蠢くただの妄想の渦。俺の人生とは関係ない……わけあるかあああ! そんな都合よくなかったことにできるわけないだろー! どうすんだよ! 俺の人生! 詰んだ? ねえ、詰んだ?
「こんなのあんまりだ。俺だって必死にがんばったのに、一生懸命やったのに。膝枕すらもうない。あるのは莫大な借金だけ」
俺は泣きながら体育座りで言った。
「そんなに膝枕は楽しかったのか?」
「楽しかったですよ。ずっと殺し合いしかしてこなかったからね……水泳も温泉もデートも何もなし。俺には辛いイベントしかないんだ」
「そう落ち込むな」
「どうせ、これから先もずっと殺し合いだよ。ハイデルキアを火の海に変える奴らとの戦いしか待ってないんだろ? 言われなくてもわかっている」
「そ、そんなことない」
「どうせ切り刻まれて、踏み潰されて、噛み砕かれて、刺殺されて、焼き殺されて、ポエムを録音されて、ラブレターを回し読みされるんだろ?」
「書かなければいいだろ……」
「どうせ、どうせ、またみんなに笑われるんだろ。またみんなが俺の恥ずかしいエピソードで笑うんだろ?」
「それはそうだな」
「否定してくんないのかよっ! あーあ。この前なんて知らない人からいきなり笑われたよ。『あのラブレターの人だ!』ってな。俺はどんなにがんばっても最悪な人生を歩むんだろ?」
「はあー。いい加減落ち込むのをやめたらどうだ?」
「やだ」
「しょうがないな……」
アルは椅子から立ち上がった。
『そして、椅子の家から出て行った。一人になった俺は恥ずかしさやら、不安やらで潰されそうになった。どうせ、こんなことばかりが続くんだ。がんばってもいいことなんてなに一つない。辛いことはこんなに起こるのに、楽しいことなんて一つもない。そして、静かな部屋の中で一人ぼっちでシクシクと朝まで泣いた』
いつもみたいに、そんな風になると思っていた。だけど今回は違った。
アルは俺の隣に座ると、
「ほら」
俺の頭を義手で掴んで、自分の太腿に寝かせた。
「これって……ひざま……」
「恥ずかしいから言うな!」
「これって膝枕だ」
「言うなったら」
アルは月明かりの中で顔を少しだけ熱らせる。ほのかに桜に染まる頬は、夜桜よりも可憐で華やか。
月影が彼女の顔の凹凸を描く。蒼白い光は、夜空に走る月桂の足跡。
仄暗い部屋を月明かりだけが飛び交う。光のロンドは、俺たちを強く結びつける。
モノクロの世界に無色という色が色づいた。世界を飾る色のない絵具は、俺たちを孤独の海から両手で掬う。
二人分の呼吸音が、静寂を汚す。二人分の鼓動だけが、沈黙を遮る。それは、まるで世界中に二人しかいなくなってしまったかのようだ。
彼女の大腿部から伝わる微熱は、炎よりも熱く感じた。彼女の柔らかな白肌から俺の頬に熱が運ばれる。涙で濡れていた頬はすっかり干からびた。
苦痛しかなかった心の中に、優しさが注ぎ込まれる。
「お前ががんばっていることはよく知っている」
「え?」
「私たちが怪我をしないように、いつも率先して犠牲になっていることを知っている」
アルは俺の黒髪に義手を差し込んだ。
(これ真面目なやつだ……ふざけちゃいけない雰囲気だ)
「お前は本当によく頑張っているな……偉いと思うよ」
アルはそのまま、俺の頭を優しく撫でる。
「お前がいつも影で傷ついていることにもなんとなく気づいている。一人で背負い込んで、誰にも言わない。そうすれば傷つくのはお前一人で済むから……」
俺は“公平の国の殺人鬼赤ちゃん”と“エルジービーティーの国のクロコダイルの正体”を思い出した。俺はあいつらの正体を誰にも言わなかった。
「いつも辛かったな」
アルは俺の頭を愛おしく撫でる。俺の髪は手ぐしを受け入れて、さらさらと流れる。
「うん」
「“手の震えが止まらない”のはいつからだ?」
アルの義手の堅い指は、柔らかくて優しい。
「気づいていたのか?」
「ああ」
彼女の義手が、俺の頭皮を優しく洗う。
「先代の竜王と戦った時からだ」
みんなには隠してきたけど、あの時から俺の手は震えが止まらなくなった。
「もう治らないのか?」
「うん。精神病らしい。もう……治らない」
医者には、一生治らないと言われた。
俺はいつも顔に笑顔を貼り付けていた。笑って、冗談を言って、場を和ませる。だけどそれはただの仮初の笑顔なんだ。
本当は辛いのに、本当は苦しいのに、怖いのに、逃げるわけにはいかなかった。いつも戦うしかなかった。
「そうか……」
「辛くないふりをして、笑うのが、何よりも辛かった」
「そうだな……辛い思いをさせたな……」
アルは俺の頭を撫でる。冷たい義手は人肌のように温かい。
「俺は……もう戦いたくない……アリシアを、お前を、ハイデルキアを守れる自信がない」
俺は気付いたら泣いていた。胸の奥底に隠していた感情が顔を出す。
ずっと一人で抱えてきた苦痛は、こぼれてしまった。
「そうだな……私も戦いたくない」
世界から色が抜け落ちていく。白と黒だけになった淡白な世界は、俺の上にのしかかる。だけど、彼女の肌に触れている箇所だけに綺麗な色が灯っている。
夜の闇が弱い人間を包み隠す。抱いて、包んで、覆って、消す。だけど、帳の裏にはまだ震えている人間がいる。
例え、夜の闇に紛れたとしてもなかったことにはならない。目を瞑っても、恐怖も不幸も消えてはくれないのだ。
目を閉ざせば、より鮮明に、まぶたの裏に恐怖は浮かぶ。
心を閉じれば、より綺麗に、脳裏に不幸が浮かぶ。
人間は弱い虫のように身を寄せある。そうしなければ、有無を言わさず潰されてしまう。
アルと後ほんの五分だけでもいいからこうしていたい。一秒ごとに、不安は溶ける。一息ごとに、恐怖が薄れる。彼女といれば、少しだけ勇気が湧いてくる。
『もう少しこうしていたい』
そう言おうと思った矢先だった。
「もう少し――」
「もう後五分だけこうさせてくれ」
そして、そのまま朝まで眠った。
柔らかな日差しが顔にかかる。空から降ってきた光の束は、眠っている俺を夢から連れ帰る。
目を覚ますと、
「一晩中膝枕してくれたのか……」
アルは俺を膝に乗っける形でうとうと寝ていた。彼女の膝は血の巡りが悪くなって少し紫色になっていた。
「なんかありがたいような申し訳ないような……」
俺は彼女の隣に座った。彼女の顔は朝焼けの中で燃えている。整った顔立ちに、宝石のような金髪。白い肌は雪のように溶け出しそうだ。
「あれ?」
俺はアルの頬に涙の跡があることに気づいた。
(アルも泣いていたのか。アルも辛いことがたくさんあるんだろう)
すると――
「う……んん」
アルは、俺の方にもたれかかってきた。まだ起きてはいないようだ。
右から聞こえる寝息が、俺の心に直接触れる。やわっこくて、少しだけ熱い。
幸せな幸せな一瞬。人生の中で数回しか訪れない幸福。いつも目の前にあるのに気づくことなどできない。
気づいた時には、もう掌からこぼれ落ちてしまう。だけど、今回はうまく掬うことができたみたいだ。
胸の中に蔓延る黒いモヤはいつの間にか消えてなくなった。白い光の中で、白い炎が燃え上がる。心地の良い日差しが、少しだけ眩しかった。




