透明な潮流が世界を洗う。揉んで、救って、空気を弄ぶ。時折強まる風は、俺の鼻腔に花の匂いを届ける。
第七章 ココ=クロコダイル
俺はもう一度クロコダイル(ココ)の全身を舐めるように見た。ドレッドヘアー。大きく開いた胸元。丸出しの太もも。汚らしいタトゥー。舌にあけられた痛々しいピアス。ヘソにも銀の蛇のどでかいピアスがある。
瞳の色だけはココと同じ流星のような赤色。
とてもじゃないが、あの温厚なココには見えない。
「お前がココだなんて信じられない……」
「ふふっ。でしょうね」
ココは笑ってみせた。
「私は変わったのよ。ケンに強くしてもらって、自分の中にいる強い存在を隠さないことにした。気づいていたでしょ? 私の口調が次第に乱暴なものになっていったことに」
確かにココの口調は一番最初に会った時より、随分と力強いものになっていた。
序盤のココの口調【ケン……庇ってくれてありがとう……】
終盤のココの口調【僕の目の前から消えろ!】
最初の大人しいココは後天的なものだったんだ。価値を否定され続け、気の弱い人格になっていただけなんだ。
俺は“オクトパスとの不自然なやりとり”を思い出した。
【お前は変身能力を持っている。その力を使ってココの家の生体認証をパスしたんだろ?】
【はて……なんの話かの?】
【この野郎。とぼけやがって!】
この時のオクトパスは、とぼけていたんだと思っていた。だけど、とぼけてなんていなかったんだ。
ごく普通にクロコダイル(ココ)が生体認証をパスしたんだ。この時代に“ココ”は二人いたんだ。
「ココの家の生体認証をパスしたのはお前だな?」
「ええ。オクトパスに狙われているから気になって様子を見に行っていたのよ。その結果、殺人鬼を招き入れてしまったけどね」
俺は続いて、クロコダイルとココの共通点を脳裏に描いた。
ココは俺とともに“花を操る”修行をした。だけどその成果は出なかった。その後、ココは努力を続けたんだ。そして、強くなったココは未来で、その能力を完成させた。
クロコダイルの能力は、ココと同じ “花を操る”力だ。
俺はクロコダイルのセリフを頭の中にもう一度描いた。
【花よ! 食い尽くせ!】
あれは、紛れもなくココのパワーワードだ。
「お前……修行を完成させたのか?」
「ええ。心の中にあなたがいてくれたからよ」
「どうやって過去に戻ってきたんだ? それになんでこの時代に二人もココがいる? それじゃ矛盾が生じてしまう!」
「そうよね。この時代に私は二人もいなかった。同じ人間が同時に二箇所にいる。それは矛盾ね」
「じゃあお前は存在できないはずだ!」
ココは息を大きく吸い込んで、
「確かに矛盾しているわ。だけど……この世界では、矛盾を有したまま物事は存在できる。そのことは……あなたが誰よりも、よくわかっているでしょ?」
その後、両者とも黙り込んでしまった。もう反論の余地など一切ない。目の前の女性は紛れもなくココなのだ。
時だけがするすると二人の体の上を滑る。そして――
「ココ。お前の手が透け始めている……」
ココの手は次第に揺らぎ、半透明になっていく。
「よかった。ならあの最悪な未来は消えるのね」
ココの顔には薄い笑顔が浮かぶ。口元の笑みは弱々しくて儚い。
「ココがクロコダイルになる未来がなくなるってことだな?」
「そーよ」
ココはぶっきらぼうに言った。
「ココ。一体お前に何があったんだ? どうしてこうなったんだ? ココは人を傷つけたりするやつじゃなかっただろ?」
未来ココは俺を助けてくれたとはいえ、現在ココをタコ殴りにしたのも事実だ。
「私は昔の弱かった自分がどうしても嫌いだから」
「でもあそこまでやるなんて……」
「ケン。私のこの歪んだ性格は、ブラックワードと薬物依存によるもの。闇の力の代償よ」
少し俯くココは切なそうに言った。
「なんだ? そのブラックワードっていうのは?」
ゴリアテもそんなことを言っていたな。
「ブラックワードというのは、パワーワードの禁じられた分類。正確には三つ目の分類の派生よ」
[パワーワードの分類]
一つ目は通常ありえない主語と述語の組み合わせ
二つ目は矛盾する一文
三つ目の分類は、その人の人生にとって意味のある一文。そして、それは嘘であってはいけない。
「人生にとって意味のある一文ってやつだな」
「そう。ブラックワードは、この三つ目の分類のワードを破棄することで生まれる言葉よ」
ココの体は徐々に透けていく。
「ワードを破棄?」
「ええ。例えば、ある少年がママから『あなたのことを愛しているわ』と言われてパワーアップしたとするでしょ。この場合は、『あなたのことはもう愛していないわ』がブラックワードに当たるわ」
「“嘘であってはいけない一言を嘘に変える”ってことか?」
「そう。ただし、一度は本当に愛していないとダメよ。愛が失われるときにブラックワードは人を強くするの。
そして、ブラックワードは言葉じゃなくて行動で示しても良いのよ。例えば、親を殺すとかね」
ココは今にも消えてしまいそうだ。辛うじて人の影だけがうっすらと見える。
「お前のブラックワードはなんだったんだ?」
「『俺がお前のことを死んでも守る』それが私があなたから言われた人“生を変える一言”よ。そして――」
その先は言わなくてもわかった。
「俺は未来で死ぬんだな?」
つまり、死んでもココを守ると約束して、その約束を破ったということだ。
「うん。無残に殺されるわ。そして私はそれがきっかけで闇に落ちた」
ココがこんな風になってしまったのは、“俺のせい”だったんだ。
「私はそれを止めにきたの。ケン。あなたはこれから何度も、何度も、打ちのめされる。何度も……何度も……叩きのめされて……引き裂かれて……潰されて……最後には惨たらしく殺される。幸せな未来なんて待っていない。でも……お願い……諦めないで」
彼女の不安そうな表情が、“未来で起こる生き地獄”を表す。
「一体未来で何が起きるんだ?」
俺は不安を言葉に変えて、吐き出した。ココは、
「あなたは……立ち上がるのが嫌になるくらい何度も打ちのめされる。努力を踏みにじられて、不運に叩き潰される。でも、私は信じている……あなたは絶対に諦めない……あなたなら勝てるわ」
そして、未来からきたココは消えてなくなった。花のしとねに風が吹く。透明な潮流が世界を洗う。揉んで、救って、空気を弄ぶ。時折強まる風は、俺の鼻腔に花の匂いを届ける。
様々な香りが混ざり合い、調和する。平定する世界が俺の感情を揺さぶって壊す。
爽やかな空の透明感が俺の心を締め付けるようにして、撫でてくれる。
それがほんの少しだけ心地よかった。
それがほんの少しだけ苦しかった。




