人間が敗北の思い出をなかなか忘れられないのは、勝つためだ。
俺は、自分を助けてくれたのがクロコダイルだと気づくと、
「なにをするんだよ! 離せっ!」
彼女のことを突き飛ばした。
「きゃっ!」
「お前が俺を殺そうとしてきたんだろ! なに考えている?」
「私がケンを殺そうとした? 何のはな……」
その時だった。クロコダイルは突然頭を抑え始めた。
「うがあああ。頭が割れるぅうう。痛い」
クロコダイルは蹲って頭をかきむしり出した。彼女の手は酷く震えている。
「何だこいつ? 頭がおかしいのか?」
そして、
「アチョー!」
アリシアが炎の剣でクロコダイルを弾き飛ばした。
「大丈夫? ケンがこんなにやられるなんて」
はじき飛ばされたクロコダイルは起き上がると、
「私に一体なにが起きたんだ?」
周囲をキョロキョロと見渡し始めた。
ゴリアテが駆け寄ってきて、
「クロコダイルの能力は、ブラックワードによるものでしゅ。デソモルヒネの改悪版“クロコダイル”という薬物を自身と相手に注入する能力でしゅ!」
(クロコダイルって薬物の名前かよ。ワニにでも変身するのかと思っていた)
「ならクロコダイルの挙動が変だったのは薬物のせいだったのか」
クロコダイルはおそらく薬物中毒者。日常的にそのクロコダイルってヤクを打っているに違いない。記憶の混濁。意識の不鮮明。手の震え。それらは薬物中毒者の症状だ。
「ボス! またあの力を使ったんですか? 早く帰りましょう。治療しないと」
そして、クロコダイルは、取り巻きどもと共に足早に帰っていった。
俺たちはココの家に行って治療を済ませた。
「お兄ちゃんとココちゃんはここで休んでいてくだしゃい! 差別主義者はあたちとアリちゃんで探すでしゅ!」
「差別主義者を探す? もうわかっているだろ! あのクロコダイルっていうクソ女がそうに決まっている!」
「あいつは嫌なやつでしゅけど、人殺しをするほどではないでしゅ。大体人殺しをするならあんな目立つことはしないで影で暗殺するはずでちょ?」
「それはそうだけど……」
「とにかく、ココちゃんの家には生体認証システムが付いているから安心してくだちゃい!」
生体認証システムか、殺人鬼を確実に退けるにはそれしかないな。この国ではそこまでしないと少数派は安心して眠れないのだろう。
「わかった。でも差別主義者の殺人鬼を見つけても、手を出すなよ!」
「わかったわ! 薬が抜けるまで大人しくしてなさいな!」
アリシアが俺の頭を子供みたいによしよししてくれた。ちょっと恥ずかしいけど嬉しい。
アリゴリコンビが去ってからしばらくがたった。
俺はベッドに背中を預け、視界に天井だけを写した。白い天井だけが視神経を通ってくる。網膜に映った淡白な世界は、頭にまとわりつくゴタゴタをスッと忘れさせてくれる。
余計な情報が脳からシャットアウトされて、落ち着くことができる。
まるで目を通して、俺の心が天井に映写されているみたいだ。無地の空は、空虚で少し寂しい。
俺は大きく息を吐き出した。肺から放射される二酸化炭素は、熱を孕みながら周囲を焦がす。
息を吐き出すたびに、胸の底に溜まった毒が溢れて消える。
幾度が深呼吸をすると、すっかり心が軽くなった。副交感神経が刺激されたみたいだ。気持ちがいい。
クロコダイルに勝てなかった。もしあいつが差別主義者なら俺は殺されていた。俺だけじゃない。ココやゴリアテ、ひょっとしたらアリシアまでも殺されていたかもしれない。
透明な心に、憎しみだけを流し込む。脳から伸びる管を通って心の中に炎のような憎しみを注ぎ込む。夕日のように燃える感情が俺の体を動かす原動力。
悔しい思いをガソリンにしろ! 憎しみを糧にしろ!
敗北という嫌な思い出は、ウィルスのように脳にこびりつく。いつまでもまとわりついて離れない。まるで体に絡みつく風のようだ。
辛い思い出や、悔しい思いなんて何の役に立つのか? こんなものがあっても嫌な気持ちになるだけなんじゃないのか?
いや違う。人間が敗北の思い出をなかなか忘れられないのは、勝つためだ。
勝利以外では敗北は塗りつぶせない。
だからいつまでも忘れられないようにできているんだ。勝つこと以外で前に進むことはできない。
負けるから、悔しい。悔しいから、勝ちたい。勝ちたいから、もう一度頑張れる。