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いつか見た虹の向こう側【改稿版】  作者: 宙埜ハルカ
番外編
93/98

【番外編十一】リベンジキャンプ(後編)

 キャンプ当日は快晴で、一年前と同じ七色峡キャンプ場。キャンプ場までの道中、去年の思い出と五年前に慧と来た時の思い出がごちゃ混ぜになって甦る。何とも言えない気持ちになって小さく溜息を吐いた。

 千裕さんがリベンジなんて言うから。

 余計に意識してしまうのは去年のキャンプ。あの時彼の隣にいたのは……。

 ダメだ。やっぱり塗り替えよう。キャンプの思い出ごと。

 そう思って運転をしている彼の方を見れば、こうしていることが夢のような気さえしてくる。まだこの幸せに慣れるには、もう少し時間がかかるかもしれない。


 このキャンプ場はバンガローとテントサイトがある。今時珍しいけれどオートキャンプ場のように車の乗り入れができないので、駐車場からテントサイトまで荷物を運ばなければいけない。

 現地集合した三家族は挨拶し合うと、先に千裕さんが受付をしてくれていたので、割り当てられたキャンプブースに荷物を運ぶことになった。


「美緒、荷物は俺と拓都が運ぶから」

 私は軽そうな荷物を運ぼうと手に持つと、すかさず慧の指導が入った。そんな私達を見て、千裕さんがクスクス笑っている。

「篠崎先生、あんまり過保護すぎると、妊婦さんはストレスが溜まって、お腹の子に良くないらしいですよ」

 千裕さんは先日の由香里さんの受け売りそのまま、からかい気味に彼に忠告している。彼は少しむっとした顔をして「あまり無理するなよ」と言うと、食材の入った大きめのクーラーボックスを持って行ってしまった。

「ママ、僕が運ぶよ」

 拓都がニコニコして、私の持っている荷物を持とうとするので、「これはママが持つから、拓都は別のを運んでね」とこちらも笑顔を返した。

 拓都は慧から言い含められているので、素直に私の荷物を持とうとする。私が断ると、ちょっと困った顔をして「赤ちゃんは大丈夫なの?」と首をかしげた。私は「大丈夫だよ」と拓都が安心するように笑いかけながらも、心の中には由香里さんのように慧の過保護っぷりを咎める言葉が沸き上がっていた。

 荷物を全部運び終わると三家族が協力してテント設営や食事や調理をするためのセッティング等が済み、女性三人は早速昼食の準備をすることにした。子供達とパパ達は準備ができるまでキャンプ場の散策に行ってしまった。

 私達は昼食の準備の前にトイレと手洗いを済ますために、管理棟近くのサニタリーブースへ向かった。三人でお喋りしながら歩いていると、歩道の横の背の高い植え込みの向うから、「守谷先生」と呼ぶ女性の声が聞こえて来た。

 思わず私達は足を止め、顔を見合わせた。そして視線を植木の方に向ける。植木の向こう側は見えないけれど、風向きのせいか声はよく聞こえて来た。

「守谷先生、お久しぶりです。クリスマスパーティー以来ですね」

 少し高めの女性の声が、嬉しそうに話しかけた。

「ああ、芳川先生、お久しぶりです。虹ヶ丘小学校へ来られたのですね」

 慧は先生モードのしゃべり方で、受け答えしている。

「そうなんですよ。守谷先生にお会いできると思って楽しみにしていたのに、転勤されていたので残念でした」

「芳川先生、もう守谷先生じゃなく、篠崎先生になられたんですよ」

 二人の会話に別の誰かが口を挟んだ。

「ああ、結婚されたのでしたね。でも、名字まで変えられるなんて思いませんでした。保護者の方と結婚されたというのは本当なのですか?」

 やけにストレートに問いかける女性の声に、私達三人はまた顔を見合わせた。それでも、誰も声を発することなくまた視線を植木の方に戻す。

「まあ、そうですね」

 慧が答える声には微妙に苛立ちが含まれていたけれど、それ以上の説明はしなかった。

「やっぱり、噂は本当だったんですね。でも、余程美人で魅力的な方なんでしょうね。おめでとうございます」

 彼女のどこか刺のある言葉に、私の中にも微妙な苛立ちが生まれた。でも、慧と一緒にいる限り、こんなことは納得済みだと自分に言い聞かせる。

 植木の向こう側から慧の「ありがとうございます」という言葉と、どこか聞き覚えのある別な女性の「芳川先生」という、咎めるような声が聞こえて来た。

「おー、篠崎先生。拓都達も来ていたんだ」

 近づく足音と共に、聞き覚えのある男性の声が聞こえて来た。

「広瀬先生、ご無沙汰しています。今年もまた下見のキャンプですか?」

 やっぱり広瀬先生だったと担任の顔を思い出しながら耳を澄ましていると、拓都の嬉しそうな「広瀬先生」という声も聞こえて来た。

「ああ、去年のキャンプが面白かったから、一応下見も兼ねて来たんだよ。今年も西森さん達も来ているんだね」

 下見のキャンプ。これって去年と同じシチュエーション。

 去年このキャンプ場で先生達と対面したシーンが頭の中に甦った。

 思わず千裕さんの方を見ると、意味深な笑みを見せた。

 どうやらリベンジの舞台が整ったようだった。

「ああ、西森さんと川北さんの家族と一緒に来たんですよ。でも、先生達と一緒になるなんて思っていなかったなぁ」

 慧はそう言うと、西森さんと川北さんを紹介した。お互いに挨拶をしている声が聞こえる。

「今年もキャンプファイヤーをするので、是非皆さんで来てください」

 キャンプファイヤーと聞いて、子供達が歓声を上げた。「こちらこそ是非参加させてください」と言う慧の声が聞こえ、その後パパと子供達はその場を離れたようだった。

「なんだか、去年とよく似た展開だね」

 千裕さんがポツリと言った。その言葉を合図に、私達は動き出した。

「まあ、美緒は気にすること無いよ。後ろ指さされる様なやましいことがある訳じゃないし。きちんと結婚して、お腹の中に赤ちゃんまでいるんだから、堂々としてなさいよ。それから、このことはパパ達には聞かなかったことにしておこうね」

 由香里さんに言われなくても分かっていることだけど、彼女達が私を気遣ってくれるのが分かる。

「ごめんね。気を遣わせて。私のことなら心配無いから、ねっ」

「美緒ちゃんの方こそ気を遣っていると、ストレスになるよ」

 千裕さんが私の心情を見透かして釘をさす。

 ううっ、この二人には敵わない。

 さっきのことは忘れるのが一番。彼がモテることは想定内なのだから。それでも、先生達と顔を合わせるのはやっぱり億劫だなと、私は二人に見つからないように小さく嘆息したのだった。


  ******


「ママ、広瀬先生も来ているよ。それでね、キャンプファイヤーに来てくださいって」

 嬉しそうに報告する拓都の顔を見下ろしながら、「ホント! 良かったね」と笑顔で返す。知っている情報をさも初めて聞いたように言うのには、まだまだ女優としての経験が足りない気がする。

「今年もキャンプの下見らしい。なんだか、去年のこと思い出すよ」

 拓都の後からゆっくりと近づいてきた慧が、拓都の報告を補完する。拓都にはなおざりな演技でも騙せるだろうけれど、慧には私の経験不足の演技ではどこまで通用することやら。

「あ、虹ヶ丘小学校の先生達、来ているんだ?」

 あえて去年のキャンプのことはスルーした。

「ああ、七人だったかな? 去年のメンバーの抜けたところに新しく来た先生が入ったって感じかな?」

 抜けたところというのが慧と愛先生な訳だ。

 私は担任以外あまり知らないので、去年の顔ぶれを思い出そうとしたが、うっすら顔は思い出せそうだったけれど、名前は思い出せなかった。

 やっぱり気が重いな。

 去年のキャンプを知っている人達だから、余計に。

 慧は送別会の時に、私のことを簡単に説明したと言っていたけど、さっき聞いた芳川先生という新しく転勤してきた先生は、私のことを保護者としか知らないみたいだ。

「美緒、美緒は気にすること無いからな。俺達の事情は分かって貰っているはずだから、大丈夫だよ」

 まるで私の心を読んだように、彼は優しく微笑んだ。

 まあ、今更ジタバタしたって、仕方ないよね。

「うん、分かっているよ。でも、挨拶に行ったほうがいい?」

「どちらにしろキャンプファイヤーには行くんだから、その時でいいだろ?」


      *****


 昼食の後、子供達とパパ達は川を一部堰き止めてできたプールで遊ぶため、水着に着替えた。私達母親は妊婦が二人もいるので、子供達の様子が見える木陰で見守ることにした。

「拓都君、去年より断然楽しそうだよ。やっぱりパパの存在が大きいんだね」

 千裕さんは目を細めて、はしゃぐ子供達を見つめながら言った。

「そうだね。篠崎先生のパパっぷりには感心するよ」

「そうそう、いいパパだよね」

 二人の会話を聞きながら、だんだんと親子らしくなってきた慧と拓都を見つめる。

 そう、彼は私が思っていた以上に良いパパだ。

 本当のところ、皆に自慢したいぐらい彼は父親としてよくやってくれていると思う。

「美緒、良かったね」

 私の方を見てニッコリと笑った由香里さんの脳裏には、K市での日々が浮かんでいるのだろうか?

 あの、拓都を抱えて必死で生きていた日々を、ずっと見守り支え続けてくれた由香里さんの言葉に、グッと込み上げるものを感じながら、私はそれを一生懸命抑え込んで笑顔を返した。

 あの頃のことを思い出すと、いいえ、去年のことを思い出しても、今ここでこうしていることは夢みたいだ。

 リベンジと言って、このキャンプに誘ってくれた千裕さんに、本当に感謝だった。

「二人とも、ありがとう」

 子供達の方を見ていた二人にそっと言うと、「何?」と振り返った二人に苦笑しながら首を横に振る。

「良い天気で良かったって言っただけ」

「本当に良い天気でよかったよねぇ。私、晴れ女だから心配してなかったけどねっ」

 ふふふっと笑う千裕さんの言葉に驚いた私は「千裕さんって、晴れ女だったの?」と尋ね返すと、悪戯っぽい目で「去年も晴れたでしょ?」と答えた。

 まあ確かに、去年のキャンプも快晴だったけれど。

「千裕ちゃんって、脳だけじゃなくて、お空まで晴れるのね」

 由香里さんがアハハと笑いながら言った。

 脳だけじゃなくって、脳(能)天気ってことか。

 千裕さんを形容するのにピッタリで、私も思わず噴出していた。

 いや、けして、悪い意味じゃなく!

「何よ、どうせ私は脳(能)天気ですよぉ」

 いじけたように口をとがらす千裕さんに、また笑いが込み上げた。

「バカにしたんじゃないのよ。何でもポジティブに考えられるところが能天気で、千裕ちゃんの良いところでしょ?」

 由香里さんの言葉はとても温かくて、私も同意のしるしにうんうんと頷いていた。


 目一杯川遊びをした後、スイカ割りを楽しんで、割れたスイカでおやつタイム。山の中のキャンプ場は日の入りが早くて、夕方の早い時間からバーベキューの用意を始めた。

 手馴れた様子で炭を熾す千裕さんのご主人と共に準備をするパパ達の周りではしゃぐ子供達に、自宅で用意して来たバーベキューの食材を運んでもらい、焼くのはパパ達の仕事。ビール片手にトングを持って、焼けたお肉や野菜をテーブルに着いた子供達のお皿に載せていく。

 昼間の日差しで赤くなったのか、ビールで赤くなったのか分からないパパ達の楽しげな笑顔に、こちらまで楽しくなる。

 私たち女性陣も用意が終わると座り込んで、焼いてもらったお肉や野菜を食べながら、お喋りに花を咲かせる。夕暮れの風が火照った体を冷ましていく。

「ああ、ビールが飲めないのが悔しいなぁ」

 由香里さんが本当に悔しそうに言う。私も心の中で頷く。去年のキャンプで飲んだビールの美味しさを思い出した。

「ずっとじゃないんだから、来年は乾杯しよ?」

 千裕さんは慰めるように言うけれど、美味しそうにビールを飲みながらでは、慰めにもならない。

「来年も授乳中だから、ダメ」

「ああ、そうだった。そんなこと、すっかり忘れていたよ」

 経産婦の二人の会話は、時には勉強にもなって、妊娠中にアルコールはダメだと分かっていても、出産後にも規制されるとは、考えもしなかった。そもそも出産後のことまで頭に無かったのだけれど。

 そんな会話も空気の澄んだ山の夜の闇に消えていく。


「そろそろ、キャンプファイヤーへ行こうか」

 その言葉を合図に皆が片づけ出す。大勢での片づけはあっという間に済み、子供達は気が急いて駆け出していく。

「おい、おまえら。暗いから足元気を付けろ」

 慧が叫びながら、懐中電灯を持って子供達の後を追っていく。

 残されたパパ二人は「やっぱり先生だな」と言いながら、その後を追いかけた。

 私達は、慌てず、カンテラの灯りで道を照らしながら、キャンプファイヤーへと向かった。

 子供達よりずいぶん遅れて到着すると、なぜだか子供達とパパ達と男の先生達で花火をしている。

 あれ? 女の先生達は?

 そう思ってキョロキョロしていると、すぐ横にあるバンガローの方からもめているような声が聞こえて来た。

「なによぉ、私、酔っ払ってなんかないわよぉ」

 一つのバンガローのドアが開いて、女性が飛び出して来た。その人を追いかけて来た二人の女性が、両側から飛び出してきた女性を押しとどめている。

「ほら、足元もふらふらしているから、危ないでしょう。ここで休んでいた方がいいよ」

 酔っぱらってしまったらしい女性を、二人の女性が説得しているようだ。

 私達はしばし唖然とそちらを見つめていた。

「嫌よ。キャンプファイヤーで守谷先生の奥さんに会うんだから」

 酔っ払っているらしい彼女の言葉に、私は固まった。由香里さんと千裕さんが唖然とした表情で私を振り返える。

 どうやらあの三人は、虹ヶ丘小学校の女性教諭のようだ。でも。

 彼のこと、まだ旧姓のままで……。それに、私に会うとはどういうことか?

 彼の奥さんだから興味があるとか?

 それとも、保護者のくせにと文句でも言いたいのだろうか?

「あの酔っ払っている人、芳川先生よ。それに、一緒にいるのは岡本先生と金子先生ね。それにしても、芳川先生は美緒ちゃんに何か言うつもりかしら?」

 千裕さんが私達だけに聞こえるようにぼそぼそと言うと、由香里さんが「あんな酔っ払いの言うこと、真に受けないの」と視線で千裕さんを制した。

 その時後ろの薄暗がりの中から近づいた足音が私達を追い越して、女性教諭三人に近づくと、それに気付いた岡本先生が、その足音の主の元へ走って来た。

「広瀬先生、すみません。計画通りに行かなくて」

 少し離れていたので、最初の方しか聞き取れなかったけれど、二人でぼそぼそと何か話し合っている。

 計画って、キャンプファイヤーのことか?

 キャンプファイヤーはもう止めておくのだろうか?

「美緒、来ていたんだ?」

 不意に背後から声がかかる。その声にビクリとして振り返ると、薄闇の中に昼間の太陽に焼かれて赤光りする笑った慧の顔が見えた。笑い返そうとした時、今は背を向けている背後の空気が動いたのに気付いた。

「あー、もりやせんせー」

 酔っ払い芳川先生は、押さえつけていた同僚の手を振り切ると、こちらへ向かって駆けて来た。

 さっきまでフラフラしていたのに、やけに力強く駆けて来る芳川先生にビックリだ。それに相変わらず旧姓のままだし。

 慧は何か危険を察したのか、私達の前に出て壁となった。

「芳川先生、大丈夫ですか? かなり飲まれたようですね?」

「大丈夫ですよぉ。それより、どの人が奥様ですか?」

 芳川先生が、慧の後ろにいた私達を覗きこんだ。

 私が名乗り出るべきかと思案していると、広瀬先生と岡本先生と金子先生が「芳川先生、ご迷惑をかけたらダメですよ」と駆け寄って、また芳川先生の両腕を拘束した。

 彼女が拘束されているのを確認したからか、慧は私達を紹介した。

「こちらが西森智也と翔也のお母さん。こちらが川北礼と陸のお母さん。そして、私の妻です」

 私達は紹介が終わると、「こんばんは、お世話になります」とやっと挨拶を交わした。

 大人しく拘束され、皆が和気あいあいと挨拶を交わして油断している隙に、芳川先生は動いた。

 それは一瞬の隙。

 拘束の手を振り解き、私に詰め寄った彼女は、いきなり私に抱きついたのだ。

「守谷先生と奥様の純愛に感動しましたぁ」

 抱きつかれた勢いで後ろへよろけた私を、咄嗟に支えたのは我が旦那様。その瞳には一瞬にして怒りが燃えたぎったが、彼女の言葉に肩すかしをくらったように、炎は一気に鎮火した。

 私はいったい何が起こっているかも分からず、抱きついたその人が顔だけ離してこちらを見たウルウルとした瞳とぶつかった。

「奥様が守谷先生のことを想って身を引いて、お姉さんの子供を引き取って子育てしていたとか、お互いにもう二度と会うこともないと思っていたのに、想い続けていたとか。もう、すごく感動しましたぁ。再会はやっぱり運命だったんですよねぇ。それで、想いを貫いて結婚するだなんて、なんて素敵なのぉ」

 一気にまくしたてるように言った芳川先生は、うっとりとした瞳で、それはまるで恋愛映画の感想を述べるように。

「どうして、そんなことまで知っているの?」

 そこまで言いかけて、自分が学級懇談で話したことを思い出した。

 あの時は保護者向けに話したが、先生たちの間にも噂は広まったのだろうか。自分から話したことだけに、その結果どうなろうと自己責任だ。

 後ろで私を支えている慧の方へ顔だけ向けると、仕方ないよなというように苦笑して見せた。

「ごめんなさい。芳川先生はお二人の結婚の経緯を余りご存知じゃなかったので、変に誤解されるといけないと思って、私が話したの。本郷先生からいろいろと聞いていたから」

 皆が唖然としている中、慌てて私から芳川先生を羽交い締めのように引き剝がした岡本先生が、申し訳なさそうに謝る。

 引き剝がされた芳川先生は、何やら言いながらしばらくもがいていたけれど、急に静かになった。

「あー、やっと寝てくれた」

 芳川先生を抱えながら、岡本先生は安堵の声をあげた。

 やっと? 寝てくれた?

「これで計画通りだな。でも、心配していた方向と真逆になってしまったな」

 広瀬先生が、芳川先生を支えるのに手を貸しながら、苦笑している。

 また、計画って?

 私達が不思議そうにしていると、岡本先生が説明してくれた。

 慧を目当てに虹ヶ丘小学校へ転勤してきた芳川先生は、結婚したと聞いてかなりショックだったらしい。彼は送別会で私との結婚について誤解の無いよう簡単に説明したらしいけれど、転勤してきた芳川先生は聞いておらず、また周りも他人のプライバシーなので、結婚した事実しか伝えなかったらしい。それでやっと諦めがついたようだったのに、ここで彼に再会してしまって、想いが再燃したようで、奥さん(私のこと)もいるのに何かあってはいけないと心配した岡本先生と金子先生が広瀬先生に相談して、お酒を飲むとすぐに眠ってしまう芳川先生を酔わせて眠らせようと計画したそうだ。

 その計画に沿って夕食時にビールを勧め、慧と私の結婚までのいきさつを肴に、どんどんと飲ませたらしいのだ。

「今回初めて篠崎先生と奥様の詳しい事情を聞きましたけど、芳川先生と同じく私も感動しました。篠崎先生って、ロマンチストなんですね」

 金子先生までが夢見るように語る。

 おそらく慧の説明では、私達の結婚の経緯がかなり端折られていたに違いない。そして、美鈴はその端折られた部分を誤解されないために補足してくれたのだろう。

 友の心遣いは有難いが、こんな風にロマンチックな恋愛物語にまで聞く側が妄想してしまうと、なんとも気恥ずかしさに居た堪れなくなった。

 私の背後で大きな溜息が聞こえ、「じゃあ、そろそろキャンプファイヤーをしませんか?」と、この騒動を締めくくったのは、酒の肴に語られた恋愛物語の主人公だった。


     *****


 目が覚めると隙間から光が漏れ、空気の冷たさが朝を告げている。冷たいといっても寒い程では無く、気持ちの良い冷たさだ。携帯電話で時間を確かめると、まだ五時前だった。

 昨日、一日外で遊んだせいか、ぐっすりと眠る拓都は、まだまだ目を覚まさないだろう。慧も昼間遊んだ上に遅くまでビールを飲んで西森さん、川北さんのご主人や先生達と語り合っていたから、まだまだぐっすりと眠っている。

 私は体を起こすとタオルや歯ブラシの入ったポーチを持って、テントからそっと抜け出した。山のキャンプ場の朝はひんやりとして朝靄がかかっている。私は伸びをすると、顔を洗うために水道のある場所へ向かって歩き出した。

 朝の身支度が済んでもまだ誰も起きてくる気配がないので、どうしようかと思案していると去年のことを思い出した。

 そうだ、リベンジするなら、あの場所へも行かなきゃね。

 私は携帯電話だけを持つと、川に沿って歩き出した。


 去年、私はこの道を彼と初めてキャンプに来た時のことを思い出しながら、その彼への想いを断ちきらなきゃと思い詰めて歩いたっけ。今でも思い出すと苦しくなる、再会する前の日々も、再会してからの日々も。でも、純愛だと誰かを感動させるような綺麗なものではなかった。

 昨夜の芳川先生の騒動の後、慧が「ずいぶん尾ひれが付いて誇張されているみたいだな」とポツリと言った。

 そう、当事者にとっては、苦しみや悲しみを伴う記憶。

 私はいつの間にか小さな滝のあるところまで来ていた。五年前も去年も訪れた場所。あの日のように傍の岩に座る。小さな滝の水の落ちる様を見つめながら、なぜだかフフフッと笑いが込み上げた。

 リベンジ、なんて、良く言ったものだ。

 さすがポジティブな千裕さん。

 でもね、と思う。

 苦しく辛い思い出を塗り替えて消してしまおうとは思わない。

 苦しい記憶も悲しい記憶も全て今のこの奇跡のような現実に辿りつくための必要な通過地点だったから。

 そして今もまだ途中。人生のゴールは遠い。

 私達はゴールに向かって、いろいろな思い出の上に、また新たな思い出を積み重ねていくだけ。

 その思い出が、少しでも幸せなものになる様、努力していくだけだ。彼と二人で。

「やっぱりここにいたな」

 思考の中に突然入りこんだ声に振り返ると、今では見慣れた彼の笑顔。

「お、おはよう」

 ぐっすりと眠っていたと思ったのに。でも、なぜだか彼が来るような気もしていた。

 私の詰まり気味の挨拶をクスリと笑うと、彼も「おはよう」と返してくれた。そして、去年のように、傍の岩に座り、小さな滝に目を向ける。

「思い出すな」

「え? 去年のこと? 五年前のこと?」

「両方。だけど、やっぱり去年のことかな。あの時、ここに美緒がいてとても驚いたよ」

「それは私も同じよ」

「あの時さ、俺が先生になった姿を見られて嬉しかったって言ってくれただろ? あの言葉だけで、再会したことも悪くなかったのかなって思えたよ」

 彼の言葉に胸が震える。

「私も慧の夢がかなった姿を見られて良かったって、ずっと思っていた。だからあの時、それを伝えられて嬉しかったの」

「あの時はまだ、美緒には旦那か付き合っている奴がいると思っていたから、あの後美緒に幸せかって訊いたら、幸せだって笑ってくれただろ? あの時、悲しいような安心したような気持ちになったけど、これでもう、今度こそ本当に美緒のこと諦めなきゃなって思っていたんだ」

 それまで川の方を向いて話していた彼が、急にこちらを振り返って私を見た。そして、ニッと笑うと「お互いにしつこい性格で良かったな」と言いながら立ち上がった。

 ああ、慧も同じことを考えていたんだ。

 あの時、私も彼が愛先生と付き合っていると思っていたから、これで本当に忘れなきゃって思っていた。

「美緒、冷たい岩の上に座っていたら冷えるから」

 彼はそう言うと右手を出した。私は手を引っ張ってもらって立ち上がると、そのまま彼の腕の中に引っ張り込まれた。そろそろと私も彼の背中に手を回す。お腹はまだ何の膨らみもないけれど、以前よりはずっと気を付けて抱きしめてくれる彼の腕。彼の胸に頭を付けると、確かな鼓動を感じた。

 お互いに今ここにいる奇跡のような現実を、言葉もなく確かめ合っていると、小さく私の名を呼ぶ声。その声に誘われて見上げると、重ねられる唇。

 私達はまだ途中。

 でも、もう二度とこの温もりを手放すことは無いだろうと思えるのは、あの辛かった日々があるから。

 私は彼の背中にまわした腕に力を入れて、彼をぎゅっと抱きしめながら、あの日の苦しんでいた私自身も抱きしめていた。


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