【九】授業参観
入学式から一週間が経った。
やっと給食が始まったので、お弁当は自分の分だけで済む。自分のお弁当だけなら、昨夜の残り物のおかずでも構わないから楽だ。そんなことより、毎日辟易としているのは、拓都のおしゃべりだ。仕事が終わって学童へ迎えに行き、帰りの車の中から、それは始まる。
「ねぇママ、今日守谷先生がね、今地球がどんどん暑くなって、寒い所の氷がどんどん溶けているんだって。それでね、氷が溶けるから、海の水が増えて、いつか学校も沈んじゃうかもしれないんだって。だから、守谷先生がね、無駄な電気は使わないようにしようって。ねぇママ、無駄な電気っていうのはね、誰もいない部屋の灯りを付けていたり、誰も見ていないテレビを付けていたりすることだって。それにね、守谷先生が、ゲームも長くしていたらダメだって。僕、学校が沈んじゃったら嫌だから、ゲームするのを止めようかな」
私は拓都のとりとめも無く延々と続く話を、小さく溜息を吐きながら、聞いていた。地球温暖化の意味、わかっているの? 学校が沈む話と無駄な電気の繋がりは、分かっているの?
私は、心の中で突っ込みたい思いをグッと噛みしめる。そして、また守谷先生の話かと、心の中で舌打ちをする。
拓都は、学校の帰りから寝るまで、ずっと守谷先生の話を続ける。何が悲しくて元カレの話を聞かされなければいけないのだ。これは一種の罰なのだろうか? と、嬉しそうに話し続ける拓都をチラリと見た。
自宅へ帰りつくと、私が食事の用意をする間、拓都は宿題をする。ここのところ毎日、平仮名の練習プリントと音読だ。音読は、必ずお家の人に聞いてもらうこととなっていて、聞いた感想を書くことになっている。親にまで宿題を出すのかと、担任教師が恨めしくなった。
毎日、上手に読めましたと音読カードに書き入れていく。たったそれだけのことなのに、なんとなく苦痛なのは、このカードを彼が見るのだと思うからだ。
小学校のことは、全て彼に繋がっていると思うと、なぜかこちらの私生活をさらしている様な気になって、気持ちが落ち着かない。いったい彼はどんな気持ちでいるのだろう。
今更だと思いながらも、酷く彼を意識してしまう、自分が嫌だった。
食事の後、拓都が持ち帰ったプリントを確認する。ちょうど一週間後の午後に、授業参観と学級懇談、そしてPTA総会が開催される案内のプリントだった。半日休まなきゃいけないなと、又溜息を吐いた。そして、それが、担任との初めての対峙であることを、しばらくしてから気付いた。
もう一つのプリントに、学級役員を学級懇談の時に決める旨が書かれていた。立候補用の欄もあり、立候補したい人は、その欄に名前を書いて切り取って提出する様だ。
学級役員って、何をするのだろう?
小学校のことに付いて、聞ける友達も無い。別の小学校も同じだろうかと、後で由香里さんに電話をしてみることにした。
「ああ、ウチも来週あるよ。授業参観と学級懇談と総会。学級役員ね、クラス行事の時にとりまとめをしたり、教育委員会なんかが主催する講演会を聞きに行ったり、かな? それからウチの小学校の場合は、学級役員になったら、もれなく小学校の委員会にはいらなきゃいけないのよ」
由香里さんは、上の子で小学校は何年か経験しているので、慣れたことの様に話す。
「委員会?」
「そう、広報とか福祉とか、いくつか委員会があって、一年間活動するの。役員と言えば他にも本部役員とか地区役員とかもあるわね。私は去年、上の子の時、学級役員をしたのよ。結構何度か学校へ足を運んで、忙しかった気がするなぁ。仕事を持っていると、そのやりくりに大変だった。ましてや美緒は、正職員だから、何度も学校のことで休むのは大変じゃない? でも、卒業までに一度は経験しないといけないと思うわよ」
由香里さんの話は、いまいち分からないところもあったけれど、役員になると何度も学校へ足を運ばなくては行けなくて、忙しい様だ。できれば、今年は避けたい。学校へ行けば必然的にあの担任と顔を合わさなければいけないのかと思うと、私の今の危うい心が、ますます疲弊していくような気がした。
「ねぇ、学級役員って、どうやって決めるの?」
「そうねぇ、ウチの小学校の場合だけど、まず、立候補や推薦を募るのよ。それで誰もいなければ、学級懇談の時に、ジャンケンかくじ引きね」
「ええっ? そんないい加減な決め方なの? 仕事があるからできませんって言うのはダメなの?」
「あのねぇ、美緒。今時仕事をしていない専業主婦の方が少ないのよ。ほとんどが仕事を持ったお母さんがしているわよ」
「そうなんだ。それじゃあ、運次第だね」
「そう、そう。まあ、今年役員するのは、ちょっと酷かもね。当たらないこと、祈っているわ」
由香里さんはそう言うと、電話を切った。何も言わなくても、私の今の心理状態は分かっていてくれるようだ。私は、一週間後に、彼の視界の中に入らなければいけないことを思うだけで、胸が震えそうになる現状で、役員の心配まで増えてしまい、もう一杯一杯の状態だった。
*****
心の準備なんてちっともできない内に、一週間は過ぎて行った。その日は、午後から休みを取り、自宅で簡単に昼食を済ますと、自転車で小学校へ向かった。駐車場が少ないので、できるだけ徒歩か自転車でとあったので、久々に自転車を引っ張り出した。
小学校が近づくにつれ、鼓動が速くなっていく様な気がする。小学校に着いたら、息絶えるのではないかと、本気で心配になる程、息切れが激しい。単に運動不足か。
ここ数年、運動らしい運動をしていない。拓都にせがまれて、遊具やアスレチックのある公園へ出かけたりもするが、子供の付き合いなので、知れている。慧と付き合っていた頃は、本当に良く体を動かした。ウォーキングにハイキングにサイクリング、テニスや卓球、そして、スキーにも連れて行ってくれた。私にとって、一番幸せだったあの数年間。宝物の様な時間だった。
はぁー、又思い出してしまった。もう本当に、自分のバカさ加減にうんざりする。又、由香里さんに叱ってもらわなきゃ。こういうのを、未練っていうのだろうな。こんな風に再会しなきゃ、一生思い出のままだったのに。
私は不幸体質の運命を呪うことしかできない。
学校に着くと、持参したスリッパに履き替える。スリッパを持参することは、拓都の保育園時代から身に付いている。沢山の保護者でざわつく校内を、一年三組の教室目指して歩いて行く。知っている人とは出会わない。同じ年の母親は、きっといないか少ないだろうから、昔の同級生と出会う確率はほとんどないだろう。ここで私が知っている顔は、たった一人、担任だけだ。
周りの友達同士で集まって楽しそうにお喋りしているお母さん達を見ていると、羨ましくなる。ママ友ってどうやって作るのだろう? 保育園の頃は、母子家庭の会の由香里さんに声をかけてもらったから、友達ができたけど。やはり、同じ保育園や幼稚園から来た母親同士が集まっているのだろうなと思うと、転勤希望を出したのは、他のことを含め、間違いだったと、改めて後悔した。
一年三組の教室へたどり着くと、ちょうど授業が始まる様で、チャイムが鳴り響いた。担任もすでに前に立ち、今から算数の授業を始めますと告げた。半数以上の人が、教室に入り、子供達の後ろに立っている。しかし私は、やっぱり教室に入ることができず、廊下から様子を窺っていた。そんな人のためか、廊下と教室を分ける壁にある窓は、開け放されていた。私は、開け放された窓から、拓都の様子を見つめた。拓都は嬉しそうな顔をして、一生懸命先生の話を聞いている。この担任は、母親達だけではなく、子供たちの心を掴むのも上手なようだ。見ているだけでひきつける要素は多分にある彼だから、あの楽しい話術も、屈託のない笑顔も、意図せずともひきつけてしまう要素なのだろう。
私はできるだけ、担任の姿を視界に入れない様にしながら、拓都だけを見つめ続けた。私の背後では、母親達のお喋りの声が聞こえる。授業中なのだから、静かにすればいいのに。そんなことを思いながら、私は教室の中を見ていた。
「守谷先生の……」と今一番気になる担任の名前が聞こえた途端、私の耳は背後の母親達のおしゃべりに集中した。
「ねぇ、守谷先生のファンクラブがあるって知っている?」
ファンクラブ?
「知っている、知っている。PTA会長でしょ? 始めたのは……」
「そうそう、なんだか本部役員の人達って、先生方と結構交流があって、飲みに行ったりするんだって。それで、ただでさえカッコイイ守谷先生と、プライベートでお近づきになると、みんな惚れちゃうらしいわよ。守谷先生のカラオケなんて、もう酔いしれるぐらい歌がうまくて、いい声なんだって。友達が去年と今年、本部役員なんだけど、すごく自慢してくるのよ。羨ましいよね」
惚れちゃう? それに、カラオケ……。確かに慧は、歌がうまくて声もいい。でも、私だって、一度しか聞いたことがない。彼はカラオケが嫌いだって、サークルのコンパの二次会で一度行ったきりで、二人では行ったことがなかった。あんなに上手なのにもったいないって言ったら、美緒にだけ歌ってやるよって、私の耳元でサビの部分を歌ってくれたことがあったっけ。
「えー! 私も本部役員になればよかった!! うらやましい!」
「でも、今年は、守谷先生が担当になるかどうか分からないわよ。まあ、どっちにしても、今年の本部役員はもう決まっているしね」
「でも、そのファンクラブって、誰でも入れるの?」
「おやおや、本気で言っているの? ダメよ。あのPTA会長の取り巻きだけみたいだから。他の人が守谷先生に近づくのを阻止しようとしているんじゃないかな?」
ええっ? 何それ? 守谷先生に近づくのを阻止している? 第一みんな、結婚しているわけでしょう? 何を考えているのだか。
それにしても、守谷人気は、大学の時と変わらない。いやそれ以上かも。
「ねぇ、それって、あの事件のせいかな?」
事件?
「そうそう、あの旦那怒鳴り込み事件! そうかも知れないね」
旦那怒鳴り込み事件?
「あの事件のせいで、今年から先生の携帯番号は公開しないことになったんでしょう?」
「そうらしいね。あれからすぐに、守谷先生も携帯番号を変えたらしいし。でも、PTA会長は知っているらしいよ。なんといっても、守谷先生の大学時代の恩師の奥さんだから、教えてって言われたら、嫌ですって言えないよね」
次々に出てくる、私の知らない守谷先生の話題に、ついて行けない。
PTA会長が、恩師の奥さんですって? その人がファンクラブを作っているって?
それに、旦那怒鳴り込み事件って、何? そのために先生の携帯番号を教え無くなったって。
いったい彼の周りで何が起きているのだろうか。
甘い記憶も、事件などという物騒な言葉で、霧散してしまった。やっぱり、小学校は鬼門だ。聞きたくも無い彼の情報に、必死で耳を傾ける自分の浅ましさを思い知らされて、嫌になる。
気付けばもう授業は終わろうとしていた。「この後、学級懇談がありますので、参加できる方は残ってください」と、保護者に向けて担任が言う。子供達は、図書室で待つか、学童の子たちは学童へ行くよう説明していた。明日の予定を書いたプリントとその他のプリント、それから宿題プリントを配り、子供達を立たせて、終わりの挨拶をする。子供達はロッカーからランドセルを出して来ると、教科書やプリントを入れ、帰る用意をしだした。それぞれの保護者が、自分の子供の所へ行き、この後図書室で待つように言っているようだった。
担任が「図書室へ行く人は廊下へ並んでください」と声をかけた。そうして、彼が廊下に出るのと入れ替わる様に、私は後ろのドアから教室の中へ入り、拓都に近づいた。「拓都」と声をかけると、「ママ」と嬉しそうに笑って拓都は振り返る。彼はいつでも機嫌がいい。小学校へ入ってからは特にそうだ。毎日が楽しそうで、安心する。担任教師の話題が無ければ、もっと喜べるのに。
「学童へ行って、待っていてくれる? ママはこの後、学級懇談とPTA総会に出なくちゃいけないから」
「うん。わかった」
拓都が可愛い笑顔で答えると、ランドセルと背負った。そして、元気に教室を出て行く後ろ姿を見送った。拓都が廊下に出たところで、「守谷先生、さようなら」と、廊下に居た担任教師に挨拶をする。「拓都は、学童だったか。気を付けて行けよ。さようなら」と答える、担任教師。「はーい」と答えて踵を返すと、拓都は校舎の出入口に向かって元気よく去って行った。
拓都と担任教師のやり取りを教室の中から聞いていた。若い担任は、子供達を名前の呼び捨てで呼んでいるらしい。「図書室へ行くのはこれで全部か?」と廊下で問いかけている担任の声を聞きながら、やがて訪れる彼との本当の再会の時に向けて、心の中で落ち着けと言い聞かせ続けた。