【一】噂対策
四月、新学期が始まる。
春休みの間に、人生に関わる大きな出来事が起こった拓都は、今どんな気持ちでいるのだろうか?
私は、拓都の新学期を思って、嘆息した。
拓都の担任だった彼が父親になったことを、拓都の同級生やその保護者達が知った時、どんな反応が返ってくるだろうか、と想像するだけで頭が痛い気がした。
私と慧は自分達が選んだことだし、非難されるようなことは何も無いのだから、どんな噂をされようが、堂々としていればいいと思える。
だけど、拓都の場合は?
拓都が望んだわけじゃない。そりゃぁ、慧のことは好きだろうし、家族になって喜んでいるとは思う。だけど、そのことが原因でいじめられるとは思わないけど、何か酷い言葉をぶつけられたり、他人から好奇心で歪んだ噂を聞かされたりはしないだろうかと不安になる。
それというのも、慧と再会してからの一年間、彼の噂を聞かされ続け、そして保護者達がどれ程彼に興味を持っているかを知っているからだ。
それに、もう一つ心配なのは、まだ二年生になったばかりの拓都が、嬉しさのあまり元担任がパパになったと自慢しないかということ。
「ねぇ、やっぱり、拓都には口止めしておいた方がいいんじゃないかな?」
慧が我が家に本格的に引っ越した夜、私は拓都が寝た後にリビングでこの話題を持ち出した。慧は又かと言わんばかりに溜息を吐いて、私の方を見た。
「美緒、前にも話したけど、俺達は誰に対しても疾しいことも恥ずかしいこともしていない。だから堂々としていたらいいんだよ。拓都だってそう、いきなりパパが出来て戸惑いがあるかも分からないけど、別に人に隠すようなことじゃないだろ? 周りのほとんどの子達はパパがいるんだから、拓都にパパが出来たって普通のことだと思うんじゃないか?」
そう、慧のいうことは正論だと思う。ただパパが出来たと言うだけなら。だけど、そのパパが、元担任で、おまけにあの守谷先生だよ。そのことは分かっているのだろうか?
「でもね、皆の大好きな守谷先生が拓都だけのパパになったって知ったら、一人占めしているなんて思われて、いじめられたり、嫌なこと言われたりしないかな?」
私が真剣に話しているのに、彼はぷっと吹き出した。
「美緒、何が大好きな守谷先生だよ。皆は教師としては慕ってくれているかも知れないけど、家に帰れば本当の大好きなパパがいるんだから、俺が拓都のパパになったとしても、一人占めしているなんて思わないって。ちょっとは驚くだろうけど、そんなことでいじめられないよ」
慧とこのことを話すと、どこか温度差を感じてしまう。
「でも、でも、拓都が嬉しくて、皆に自慢のように話したら、面白くないと思う子もいるんじゃないかな? それとも誰も信じてくれなくて、嘘つきって言われないかな」
「みーお、おまえドラマとかの見すぎじゃないのか? それに、拓都は自慢なんかするような子じゃないだろ?」
いやいやいや、拓都はいつも私に担任自慢をしていましたから!!
慧は私のこの不安を杞憂だと言うのだろうか?
「拓都は自分のことは恥ずかしいからあまり言わないけど、担任自慢とか友達自慢とかはよくしていたよ」
「じゃあ、今回は自分のことだから、言わないんじゃないか? それに、下手に口止めしたら、何か悪いことみたいじゃないか。自然でいいと思う。拓都が言いたければ言えばいいんだよ」
慧の話を聞いていると、私はモヤモヤとしてしまう。
「でも、結婚したことを知った保護者達が、勝手な憶測をして噂することはありえるでしょう? 担任と保護者っていうだけで、いろいろと想像してしまうと思うの。私達の結婚に至るいきさつを知らない訳だから、勝手な噂話を子供達が聞いて、拓都に言うっていうこともあるかもしれないよ」
そう、私はこちらの方があり得ると思う。あんなに慧のことは噂になっているんだもの。愛先生とだって付き合っていることになっていたし。
「もしかして、おまえはまだ、不倫なんていう噂が流れるとか思っているんじゃないだろうな?」
「やっぱりそれは、有ると思うの」
「あー、俺が不倫なんかするように思われるって?」
私は思ってないけど、周りはね。
「でも、噂にはなったことあるでしょう?」
「あれは俺が被害者だって! それに写真の方も、相手はおまえだったし」
「私は分かっているわよ。だけど、噂する人達はいろいろと憶測で言ったりするから」
「だから、PTA会長にもお願いしたんだし、先生達にも頼んでおいたから、そんなに心配する事無いよ」
わかっているのよ。
彼にしてみれば、自分のことでどうしてこんなに周りに気を使って振りまわされなきゃいけないのか、理不尽に感じていること。
でもね、学校へ行くたび、慧の噂ばかり聞かされていた私としては、やはり皆がどう思うかは気になってしまう。それが拓都に何らかの影響を与えるかもしれないと思うと余計に。
「みーお」
ソファーの前のローテーブルの角を挟んで、彼と座布団に座り込んでいた私は、しばし考えことをしていて、彼の呼ぶ声で我に返った。頬杖をついたまま彼の方を向くと、少し身を乗り出すようにこちらへ近づいた彼が、私の頭の後ろへ手をやり引き寄せ、額と額をくっつけた。
「美緒、大丈夫だよ。俺達が堂々としていたら、拓都も安心していられるよ。美緒がいろいろ考え過ぎて不安になると、拓都にもその不安が伝染してしまうから、美緒はどっしりと構えていたらいいんだよ。心配しなくても、なるようになるから。だって、俺達は悪いことなんて何もしてないだろ?」
こんな甘い声で、こんなシチュエーションで言われたら、頷くことしかできないじゃない。
彼にそんな風に言われてしまうと、それが全ての答えの様な気がして、大丈夫な気がしてしまう。
「うん。そうだね」
私が小さく頷いてそう答えると、彼は蕩ける様な笑顔を見せて、私の唇に小さなキスを落とした。
私はその夜、なかなか寝付けなかった。彼に言われたように大丈夫だとは思っているけれど、彼の実家で早々に入籍をすることを決めた後、その報告をした人々の反応を思い出すと、また心配が呼び覚まされた。
時は遡って、拓都が私達の結婚を受け入れ、彼の実家で泊まった翌日、私達三人は彼の恩師である大学教授に転勤と結婚の報告をするため、恩師のご自宅を訪問した。それは、恩師への報告だけでなく、恩師の妻である虹ヶ丘小学校のPTA会長へ、今までのお礼と報告を兼ねたものだった。
しかし彼は、事前に結婚のことは何も言っていなかったらしく、三人での訪問はとても驚かれてしまった。
「いらっしゃい。慧君、こちらは?」
玄関に出迎えた美しい奥様は、実際の年齢は三十代半ばらしいけれど、二十代にしか見えなかった。
役員をしているといっても、PTA会長は雲の上の人なので、面識はなかった。ただこちらが一方的に見たことがあるという程度の認識。
それにしても「慧君」って。
彼の横で、拓都の手を握り締めて、彼と同じように頭を下げると、その美しいPTA会長は、怪訝な顔をして彼にそんな風に尋ねた。
「私の婚約者の篠崎美緒と彼女の息子の拓都です」
彼の紹介にもう一度頭を下げると、奥様はあんぐりと開けた口を手で隠しながら「まあ!」と一声あげ、「何も聞いてないわよ」と彼を睨んだ。
そして、彼が「教授の奥様の優香さん」と紹介してくれたので「よろしくお願いします」ともう一度頭を下げた。
私達は応接室へ通され、高級そうなソファーに居心地悪く座っていると、程無く大学教授が現れた。
「やあ、守谷君、いらっしゃい」
そう言いながら私達に近づいて来た大学教授は、すらりと背の高い紳士で、さぞかし女子学生の人気を集めるだろうと思える美丈夫だった。すでに奥様から私と拓都のことを聞いていたのか、驚いた顔をせず、私達の前まで来ると「守谷君、婚約者の方だって? 初めまして、折原と申します」と、挨拶するために立ちあがっていた私達に、柔らかい笑顔を見せた。
「初めまして、篠崎美緒と申します。それから、息子の拓都です。よろしくお願いします」
私は自己紹介をして、頭を下げた。拓都も緊張しながら頭を下げている。
「拓都君と言うのかい? こんにちは」
「こんにちは」
拓都は驚きながらも挨拶を返している。そんな拓都を優しい眼差しで見つめ頷いている教授は、「まあ、座ってください」と私達に勧めた。
しばらくすると、ドアが開いて先程の奥様が、お茶とお菓子をのせたワゴンを押して入って来た。そして、私達の前のテーブルに優雅な手さばきでサーブし終えると、奥様も教授の隣に座り、しばし和やかな歓談となった。
「そういえば、慧君、私に相談もなく転勤されるのね。三年で異動するのは早すぎるんじゃないの?」
奥様が急に責めるような口調で、核心を突くように切り出した。
「今までいろいろとお世話になり、本当に感謝しています。お世話になっておきながら、相談もなく申し訳なかったのですが、結婚するに当たり、転勤を希望したのですよ」
彼女のそんな物言いに慣れているのか、彼は平然と答えている。
「まあ、結婚するのに転勤までしなくてもいいんじゃなくて?」
彼女は全て分かっているかのようにニッコリと微笑んで、切り込んでくる。
その時、「ママ」という呼び声と共に応接室のドアが開き、一人の男の子が入って来た。
「健人、お客様なのよ。ごあいさつしなさい」
「こんにちは。あれ? 拓都じゃないか。それに、守谷先生も。どうしたの?」
その健人と呼ばれた男の子は、挨拶をすると、拓都と慧を見て驚いた顔をした。
「あっ、健人君」
拓都は見知った顔を見て安心したのか、ホッとした顔をした。
健人君の説明によると、この春から五年生になる健人君は、拓都と同じ掃除班だったらしい。虹ヶ丘小学校では、学年の縦割りで掃除班を作っているので、同じ掃除班の別の学年の子たちとも仲良くなれる。
「健人、知っているのなら拓都君と向うで遊んでいてくれる? ママ達は大切なお話があるから。おやつは台所に置いてあるから、拓都君にもあげてね」
「はい。拓都、おいで。向うへ行って遊ぼう」
拓都は行っていいかどうか分からず、私の顔を見上げて来たので「行っておいで」と言うと、嬉しそうに「うん」と言って健人君の後を付いて行った。二人の後姿を見送り、ドアが閉まるのを見届けると、PTA会長が綺麗な笑顔のまま、また鋭い突っ込みを始めた。
「拓都君も虹ヶ丘小学校なのね。それで、どうして虹ヶ丘小学校の保護者の方が、慧君の婚約者なのかしら?」
美人の微笑みを怖いと思ったのは初めてだった。他の二人は平然としているので、おそらく彼女はいつもこんなもの言いなのだろうけれど、私は何を言われるかとビクビクしてしまう。
「優香、そんな言い方したら、責めているみたいだろう? ほら、美緒さんが怯えているじゃないか」
私の怯えに気付いたのか、教授が妻を諌めるように言った。
「美緒さん、ごめんなさいね。でも、慧君ったら、そんなこと何も言っていなかったくせに、いきなり婚約者を連れて来るんだもの、驚かされたから仕返しよ」
さっきまで女王様のようなオーラを放っていた奥様が、ご主人の一言で急に子供のように拗ねた口ぶりになり、私は驚いてしまった。謝られたことに対して「いいえ」と首を振ったが、隣の慧は彼女のそんな性格に慣れているのか、急に笑い出した。
「優香さん、いきなり驚かせて、すみません。始めから説明しますので、聞いてください」
それから慧は、私達が大学時代に付き合っていたこと、姉の子である拓都を引き取った経緯、私から彼に別れを告げた理由、そして、私達が再会してから結婚を決めるまでのことをかいつまんで話した。
彼が話している間、教授ご夫婦は驚いた表情の連続で、その内奥様はハンカチを取り出すと目元を抑え始めた。そんな彼女を見て、私も苦しかったころのことを思い出し、目頭が熱くなって来た。
「慧君も美緒さんもずっと思い続けて……。これこそ純愛ね。それで二人は運命の再会をしたのね。ああ、もう、なんだか映画か小説みたいで、感動しちゃったわ。ねぇ、あなた」
「そうだねぇ。守谷君って、意外と一途なんだねぇ」
教授はそう言うと、又優しい微笑みを浮かべた。慧が少し照れながら「先生には負けますよ」と言い返すと、教授は声を出して笑った。
「それにしても、守谷先生が結婚すると知ったら、皆驚くでしょうね。それも、自分のクラスの保護者だなんて。慧君、またいろいろ言われると思うわよ」
奥様は急に真面目な顔をして、私達に釘を刺した。
「わかっています。でも私達は別に疾しいことをしている訳ではないから、堂々としていればいいと思っているんです。そうは思っていても、噂に傷つくのは美緒の方だから、少しでも噂が和らぐよう、PTA会長にお願いできないかと思って」
「慧君、あなたは学習能力がないの? 以前の不倫騒動の時だって、私がいろいろと手を尽くしたから、あなたの方が被害者だと噂は広まったけれど、中には今でもあなたの方が誘惑したんじゃないかって言う人もいるのよ。人の口には戸は立てられないの。私もできるだけのことはしてみるけど。結婚を機に校区外へ引っ越しするのは考えていないの?」
ああ、誰もが同じように思うのだろうか? 美鈴にもそう言われたことを思い出した。
「それは考えていません。美緒の自宅は拓都が継ぐべき家だから、私の方が篠崎の姓にするつもりなんです。噂のために引っ越しするなんて、本末転倒です」
慧の力強い言葉は嬉しかったけれど、以前の不倫騒動の時にそんなに大変だったのかと思うと、喜んでもいられない。
「ええっ? 慧君が名字を変えるの?」
教授夫婦が驚いた顔をしているのを見て、私は居た堪れなくなった。やはり結婚すると言えば女性の方が姓を変えると思うのが普通なのだろう。
「別に彼女に言われたからじゃないですよ。私が拓都のためにそうしたいと申し出たんです」
「そうなんだ。ということは、美緒さんも拓都君も姓が変わる訳じゃないのね? だったら、新学期が始まってもすぐにはバレ無いわね。その間にできるだけのことはしてみるわ」
彼女は綺麗に微笑んでそう言った。
でも、以前も大変な思いをさせたらしいのに、また、こんなことをお願いするなんて、やはりいい訳ない。
「あ、あの、私達の問題なのに、そんなご迷惑をかける訳には……。私は何を言われても覚悟は出来ているんです。彼の言うように疾しいことは無いのだし。だから、無理なさらないでください」
慧がお願いしていることを、私が一方的に拒否することも出来ず、やんわりと断りの気持ちを表した。けれど、目の前の美しい奥様は、一笑すると気にするなというように話し出した。
「何言っているのよ。美緒さんは気にしなくていいの。慧君はね、弟の様に思っているのよ。姉が弟のために協力しなくてどうするの。といっても私がどこまで力になれるかは分からないんだけどね。だから、美緒さんにも覚悟はしておいてほしいの。あなたも小学校で慧君の噂はいろいろ聞いていると思うけど、とにかくみなさん興味津々なのよ。慧君のことがね」
私は彼女の微笑みに圧倒されてしまって、それ以上何も云えず、ただ頷いただけだった。
結局こうして流されていくだけの自分に、歯がゆい思いをしながらも、私も私のできる方法で、慧と拓都を守ろうと改めて決意したのだった。




