【二十八】未来に続く虹(後編)
慧は拓都に受け入れてもらえたことを喜んで、私の両親と拓都の両親の仏壇に向かって頭を下げてお礼を言った。そして、私の方へ向き直ると安堵の微笑を浮かべた。
「美緒、ありがとう。拓都が受け入れてくれたのは、美緒が先に拓都に話してくれたおかげだよ」
彼に相談もせず、おまけに拓都に先に話したとは言え、相手が守谷先生だと言わなかったために、余計な誤解も生んだのに、彼は私を責めないどころか、お礼まで言ってくれた。
彼のその言葉で、私なりの覚悟が報われたのだと、やっと心から安堵できた。
「さあ、次は俺の家族に会いに行くぞ」
「え? 今から?」
驚いた。
確かに結婚の話ならば、慧の家族に会うことは当たり前だろうけれど、たった今拓都が受け入れてくれたばかりで、今後のことを何も話し合わない内にご両親に挨拶をすることが先決なのだろうか。
そんな疑問が脳裏をよぎったが、彼の余りの上機嫌に水を差す気にもなれず、とりあえず今後のことは後でも良いかと思った私も、どこか浮かれていたのかもしれない。
「そうだよ。クリスマスに話してから、ずっと待っていてくれたんだ。それから、泊まりの用意もな」
「え? 泊まりの用意?」
「ああ、皆がお祝いしてくれるらしいから。さあさあ、急いで用意して」
私と拓都を受け入れてくれているとは聞いていたが、いきなりお邪魔してお泊りだなんて良いのだろうか。でも、お祝いをしてくれるって、拓都に話した後に電話したわけじゃないから事前に決まっていたということだ。
どうなるかわからない状態でも、私達を受け入れようと待っていてくださったなんて。そう思うと、慧を傷つけた過去が申し訳なくなる。そして、ご実家の人々の思いやりに報いるべく、出かける用意を急いだ。
そして私は、用意をしながら密かに、ある決意をしていたのだった。
「ママ、どこへ行くの?」
車に乗り込んですぐ、後部座席に一緒に座った拓都が、少し心細そうに尋ねてきた。
「今からね、守谷先生のお父さんとお母さんがいるお家へ行くのよ」
「え? 守谷先生の?」
「そうだぞー。拓都の従兄弟になる葵と奏もいるぞ」
運転席の彼は、やはり上機嫌にお兄さんの子供達の名前を出した。
それにしても従兄弟だなんて、気が早すぎやしないだろうか。
「従兄弟?」
「あのね、守谷先生のお兄さんの子供でね、葵ちゃんっていう女の子と奏君っていう男の子がいるの。拓都の方がお兄ちゃんだけどね」
「僕がお兄ちゃん?」
「そうだよ。拓都より小さな子だけど、いっしょに遊べるといいね」
拓都に分かるようにと思いながら説明をする。知らない大人ばかりのところへ行くのだと思うと緊張してしまう拓都に、遊べる相手がいるのだと告げる。少しは興味が出たのか、拓都は私の言葉にコクンと頷いた後、問いかけてきた。
「ママは今から行く所へ行ったことがあるの?」
「そうね、四年ぐらい前かな」
拓都の質問に答えながら、過去を振り返る。あの頃は素直に未来を信じられた。今は、何が起こるかわからないのが未来だと思っている。それでも、二人の未来を見つめた時、確かな拠り所は、二人のお互いへの想いだけなのだと学んだ。
「拓都、俺と美緒は七年前に大学で出会ったんだよ。その時に一歳の拓都とも出会っているんだよ」
いきなり彼が、私達の歴史の発端を話し出し、驚いた。拓都にそんなところまで話すのかと、照れ臭さもあって戸惑ってしまった。
「ホント?」
「そう、拓都のお父さんとお母さんにも会っているんだ。その頃から俺と美緒はお互いに好きだったんだよ。でも、いろいろあって、拓都が小学校へ入学するまで離れ離れだったんだ。でも、こうしてもう一度出会って、今度こそずっと一緒にいられる家族になろうって決めたんだよ。拓都、仲間に入れてくれて、ありがとう」
神妙な顔をして聞いていた拓都が、恥ずかしそうに俯きながらコクンと頷いた。
ああ、恥ずかしさよりも、感動してしまった。どうして慧はいつも、こんなに私の胸を震わせるのだろう。
私は溜まり始めた涙を気づかれないように、そっと俯いてハンカチで目元を押さえた。
*****
「慧君、おかえりなさい。わー、美緒ちゃん、拓都君、いらっしゃい。来てくれるの、ずっと待っていたのよ」
守谷家の玄関を入ると、慧の兄嫁の詩乃さんが迎えてくれた。私は今までのことを知られているのだと思うと気後れしてしまったけれど、詩乃さんの心からの笑顔の歓迎に、何とか挨拶を返すことが出来た。拓都も緊張をしているようだけれど、元気よく挨拶をしている。私はホッとして、そっと息を吐き出した。
「親父達、いる?」
「みんな揃っているわよ。もう首を長くして待っていたんだから」
待っていてくださったんだ。
詩乃さんの言葉に、私はまたまた気後れする。申し訳ない気持ちが胸をふさぐ。
「美緒、何も心配すること無いから。美緒の事情はみんな分かっているよ。美緒がそんな顔をしていると、拓都が心配するだろ」
慧が私の表情を見て、そっとささやいた。
あっ、そんなに表情に出ていたんだ。情けないな。拓都もいるのに。しっかりしなきゃ。
拓都はいきなり知らないところへ連れて来られて、もっと心細いだろうに……。
私は、繋いでいた拓都の手をぎゅっと握った。それに反応して私の方を見上げて来た拓都に、大丈夫と言う代わりにニッコリと笑って見せた。
詩乃さんの案内で、開放的な広いリビングに入って行くと、皆が笑顔で迎えてくれた。三人がけのソファーがテーブルを挟んで向かい合わせにあり、お誕生日席の位置に一人がけのソファーがあった。その一人がけのソファーに慧のお父さんが座り、三人がけのソファーに慧のお母さんとお兄さんとその子供達が座っていた。向かいのソファーに慧と私と拓都が座るように勧めると、詩乃さんはお茶を出すために部屋から出て行った。
私達は座る前に皆に挨拶をして、拓都は初めてだからお互いに紹介しあった。
詩乃さんが出してくれた紅茶を飲んで雑談した後、慧のお兄さんの子供達が遊ぼうと拓都を誘ってくれた。拓都は自分より年下の子供と遊ぶのが初めてだったので、少し気後れしていたけれど、上の女の子の葵ちゃんがとても積極的に誘うので、押されるように付いて行った。その様子を見て、皆が笑う。私は守谷家の人々の温かさに、又胸が震えた。
私は今こそ決意を行動に移す時だと、自分に言い聞かせた。
子供たちが出て行ってドアが閉まると、一呼吸おいたところで、私はおもむろに立ち上がった。そして、テーブルを避けて、皆の方を向いて床に正座をした。
そう、慧が拓都に向かってしたように、今度は私がご家族に向かってお願いする番なのだ。
皆唖然とした顔をしているし、慧も我に返ると「美緒、なにを……」と言って立ち上がろうとしているようだが、今は無視だ。
「皆さん。こんな風に温かく迎えてくださって、本当にありがとうございます。四年前、こちらの一方的な都合で別れを告げ、慧さんを傷つけたことは、慧さんにも皆さんにも恨まれても仕方ないと思ってきました。慧さんと再会してからも、私は彼に対する罪悪感から本当のことが言えず、彼をずいぶん苦しめたと思います。現在私は、亡くなった姉夫婦の子供である拓都の母親として過ごしています。こんな私ですが、これからの人生を慧さんと歩いていきたいと思っています。どうか、慧さんと結婚させてください」
私は言い切ると共に頭を下げた。私が話し出してすぐに彼の母親は止めようとしたが、彼の父親がそれを制した。その様子を見て彼自身も様子を伺っていたようだったが、私が頭を下げると隣に来て一緒に頭を下げてくれた。
「美緒さん、頭を上げてください。私達家族は皆、美緒さんと拓都君を歓迎しています。今まで大変だったね。慧が美緒さんの大変なことに気付かずにいたから、一人で苦労させてしまったね。本当に私達も申し訳なく思っているんだよ」
慧の父親が、私と拓都の歓迎と謝罪の言葉を言った。そんなことを言われると思わなかったので、私はとても驚いてしまった。
「とんでもないです。私が慧さんに何も言わずに突き放して傷つけたんです。慧さんは悪くないんです」
「親父、そんなこと言ったら、美緒が余計に負い目を感じるだろ。もうそのことは解決しているんだから、もう言わないでやってほしいんだよ」
「慧、お父さんを責めないで。私のために言ってくださったのに」
慧が私のために言ってくれたことは嬉しかったが、お父さんの優しさまで否定して欲しくなかった。
「いや、いいんだよ、美緒さん。私の気が回らないせいなんだから、すまなかったね。でも、慧も一人前なことを言うようになったなぁ」
「そうよねぇ、慧も結婚を考えるような歳だものねぇ。それに、過去がどうあれ、今こうして二人が一緒にいてくれるのなら、私達は何も言うことが無いのよ」
慧のお父さんとお母さんが、私達を見て嬉しそうに微笑む。息子の成長を喜ぶ親の気持ちに、グッと胸が詰まる。
このご両親に育てられた慧と出会えて良かったと、心の底から思った。
「それにしても、やっぱり婿にいく時は、女性の方から息子さんをくださいって来るものなんだな」
私達の様子を見ていた慧の兄が、ポツリと言った。
ええっ? 婿?
それはどういう意味?
私は驚いてしまって、隣に座る慧に答えを求めるように見つめた。
「いや、それは違うよ。美緒はそんなつもりで言った訳じゃないから」
慧は兄に対して反論するが、私の視線に気づいたのか、言葉が続かない。
「なんだおまえ、美緒さんに言ってないのか?」
私の驚いた様子を見て何かを悟った父親が、慧に問いかける。
「拓都のことがあったから、言えなかったんだ。ごめん美緒。早く美緒と拓都を守りたくて結婚って言い出したけど、それに付随するいろいろなことを考えてなかったんだ。それで親父に、篠崎家の跡取りである拓都をどうするつもりだって言われて。それなら俺が篠崎家に入れば問題ないと思って、親父達にはそう言っていたんだけど、美緒の方には拓都にOK貰うまでは、何も言えなくて。でも、いいだろ? 俺が篠崎になってあの家に一緒に住んでも」
えっ?
そんなこと、考えていたの?
私が驚いたまま絶句していると、彼の母親が溜息を吐いた。
「慧も肝心なところで詰めが甘いわね。もうこれは我が家の男達の伝統かしらね」
そう言って苦笑する母親に、詩乃さんも「伝統だと思います」と言ってクスクス笑っている。
「まあ、そういうことで、我が家の方は長男が継いでくれているからね、心配は要らないよ。だから、どうだろうね? ちょっと頼りない息子だけど」
彼の父親が、母親たちの苦情を挽回するかのごとく、話をまとめる。それは、もったいない程の申し出だった。
「ありがとうございます。もったいないお話です。でも、慧は姓が変わってもいいの?」
私は彼の両親に向かって頭を下げた後、彼の方を向いて問いかけた。
「そんなこと、美緒と結婚できるなら、たいしたことないよ。ちょうど学校も変わるから、始めから篠崎姓なら、違和感無いだろ。だから、今月中に籍だけでも入れたいんだ。結婚式は落ち着いてからでもいいから」
今月中に籍を入れる?
目が点になるって、こんな時に言うのだろうか?
再びの爆弾発言に、私は驚いて目を見開いたまま固まってしまった。
「慧、おまえ、一人暴走し過ぎだぞ。美緒さんともっと話し合わなきゃ」
さっきまで傍で様子を見ていた彼の兄が、咎めるように言った。
「美緒、ごめん。拓都に話すまでは美緒を追い詰めたくなくて、結婚の話は拓都が受け入れてくれてからと思っていたんだ。それでも一応、自分の中ではある程度計画立てていたんだけど、拓都にOK貰った途端、美緒と話さなくちゃいけないって思っていたこと、全部吹っ飛んでしまって。舞い上がっていたみたいで、申し訳ない」
彼は、しゅんとしてそんなことを言うけど、そんなに舞い上がって余裕の無いように見えなかったのに。
でも、私は彼が舞い上がる程喜んでくれていたのかと思うと、嬉しさが込み上げて来た。
すると、詩乃さんがクスクス笑い出した。
「慧君、ずっと想い続けた美緒ちゃんと結婚できるからって、舞い上がり過ぎだよ。美緒ちゃんの意見も聞かなきゃ」
「そうだな。美緒はどうしたい? 俺が篠崎姓になるのはいいのか?」
皆が注視する中で、彼が私に優しく問いかけるけれど、私は恥ずかしくてならなかった。
彼が私と拓都のために考えてくれたことは、全て私が望んでいたことだ。何も言わなくてもこちらの事情を全て受け入れてくれている彼の思いやりが、有難過ぎて気持ちが高ぶり、目頭が熱くなった。
「あなたは、本当にそれでいいの? 私の方の事情をすべて受け入れて、我慢していることは無いの?」
もう私の目は決壊寸前で、鞄の中からハンカチを取り出し、握りしめた。
「我慢なんてする訳ないだろ? 俺がそうしたいんだよ」
「ありがとう。嬉しい」
もう、彼の方を見られなかった。決壊した涙が、次々と流れだし、用意したハンカチがそれを吸い込んでいく。彼が私の肩を抱き寄せた。肩に掛けられたその手の温かさが、じんわりと身体中に広がりだす。
「慧、美緒さん、おめでとう」
ご両親、お兄さん夫婦の祝福の言葉が、また新たな涙を誘いだした。
その後彼は、舞い上がっていた割には抜け目無く、用意していた婚姻届を取り出し、皆の前で署名することになった。そして、彼の両親に証人欄にサインをしてもらい、三月三十一日の仕事の後、提出しにいくことになった。
あまりに早い展開に、頭が付いて行かない。それでも皆がニコニコしているから、これで良かったんだと思う。
拓都もすっかり、お兄さんの子供達に懐かれ、弟か妹のできる予行練習になったようだ。二人が拓都のことを「拓都お兄ちゃん」と呼ぶのが嬉しかったらしい。
その夜は、お祝いだからと予約してあった中華料理のお店に全員で出かけた。個室の丸テーブルの上には幾種類もの料理が並び、皆で乾杯することになった。
「慧と美緒さんの結婚と慧と拓都君の親子縁組を祝って、乾杯」
お父さんの音頭で乾杯をする。私と拓都を受け入れてくれた皆の笑顔が嬉しかった。
「拓都、もう俺のことは守谷先生って呼んだらダメだぞ。パパだからな。それに篠崎になるんだし。それから、俺の両親は拓都のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんだからな、それと、俺の兄さんとお義姉さんは、伯父さん伯母さんで、今日一緒に遊んだ葵と奏は拓都の従兄弟だぞ」
彼は、酔って上機嫌で拓都に話している。口調も先生の時とは砕けている。拓都はそんな彼に少し驚いているようだったけれど、皆の笑顔につられるように笑っている。それでも拓都もどこか嬉しそうで、そんな拓都の笑顔を見つめながら、私はゆっくりと幸せを噛み締めた。
彼と再会した一年後にこんな幸せが待っているなんて、あの頃の私に教えてあげたいぐらいだ。
泣かなくてもいいと、あなたの運命は彼に繋がっているのだからと。
そして、私と彼の前には未来に続く虹が架かっているのだからと。




