【二十】一歩ずつ前へ
何もチョコレートだと決まった訳じゃない。
何か借りていた物を返しただけかもしれない。
慧は、結婚を約束した人がいると、愛先生に話したと言っていたし。
別に慧の言葉や気持ちを疑っている訳じゃないけれど、これって、独占欲なのかな?
恋をすると愚かになるっていうけど、自分が愚かで情けなくて、恥ずかしかった。
せっかくの四年ぶりのバレンタインを自分の愚かな想いで台無しにしたくない。私はモヤモヤする想いを心の片隅に押しやると、自分に気合を入れた。
「わー、拓都君、ママと一緒に作ってくれたのぉ? すごいねぇ。ありがとうね。ほら、翔也も智也もお礼言いなさいよ」
小学校の帰りに千裕さんの家へチョコレートを届けた。千裕さんは興奮した声をあげ、チョコレートだと聞いた子供達もニコニコしている。喜んでくれたと安堵していると、千裕さんが小声で「それで、例の方のチョコは渡したの?」と訊くので、私は少し戸惑った後、頷いた。途端に千裕さんが破顔する。
こんなにも喜んでくれる千裕さんに、明日はどんなふうに話そうかと、まだどこか戸惑いがあった。
「じゃあ、明日の学習発表会、よろしくね」
千裕さんはそう言って玄関前で見送ってくれた。
明日、いよいよだ。私は気合を入れ直して、とにかく突き進まなきゃ! と自分に発破をかけた。
次に由香里さんの所へ。
「今年は沙希ちゃんからのチョコレートが無いから、淋しいなって思っていたのよ。拓都君から貰えるなんて、思わなかったわ。ありがとうね」
由香里さんも子供達も驚いた後、とても喜んでくれて、拓都も嬉しそうに笑っている。
こんなことで、いつも心配してもらっているお礼にはならないけど、バレンタインはいい機会だった。
「今年はチョコレートを作るなんて、どういう風の吹き回しなんだろうねぇ」
由香里さんがニヤリと笑ってこちらを見るので、「ほんの気まぐれよ」と私も笑って返した。
由香里さんからもスキー旅行のお土産を貰って、「また明日学校でね」と別れた後の帰り道、運転をする私の方を嬉しそうに見る拓都の顔を目の端に捉えた。
「ママ、皆喜んでくれて、良かったね」
拓都の言葉に、私の心にじわじわと嬉しさが広がる。
「うん、そうだね」
ただのチョコレートだけれど、贈った方も贈られた方もほっこりと暖かい気持ちになれるのは、そこに気持ちがこもっているから。今まで貰うばかりだった拓都も、贈る側の喜びも少しは感じてくれたのなら良かった。
私はそれ以上胸が詰まって何も言えなかった。それでも心の中は暖かいままで、いろいろなことが脳裏を横切ったけれど、この暖かさが全てを溶かしていった。
大切なことを見失わなければ、何も恐れる必要など無いのだと、私は傍らの守るべき存在の温みを感じながら、まだ学校にいるだろう彼のことを想った。
慧も喜んでくれるといいな。
「ママのお仕事の所の人も喜んでくれた?」
拓都の問いかけにドキリとした。慧へのチョコレートを職場の人にあげるのだと、その場しのぎの言い訳をしてしまったから。あれは、本当は守谷先生にあげたのだと言ったら、拓都はどう思うのだろうか。
今はそんなこと言えるわけもなくて、心の中で小さく溜息を吐く。
「喜んでくれたよ」
そう、たぶん、喜んでくれる。拓都の手作りチョコも入っているんだもの。
「良かったね」
ニコニコ笑顔で私の方を見上げる拓都の顔をチラリと見た後、左手を伸ばして頭を撫ぜた。
家に戻り、遅くなってしまったので慌てて夕食の用意を始めた。時間が無いから簡単にできる親子どんぶりとお吸い物を同時進行で作っていく。その時、玄関のチャイムが鳴った。
滅多に尋ねて来る人の無い我が家。それもこんな時間に、誰だろう?
まさか、慧っていうことは無いよね。
「ママ、僕が出るね」
テレビを見ていた拓都が、玄関へ向かって駆け出した。私も切りの良いところで火を止めて、玄関へ向かった。
「ママ、お届けものだって」
お届けもの?
時々インターネットで衣類や本を注文することがあるけれど、今は何も注文していない。私は首をかしげながら玄関へ行くと、長方形の箱を持った宅配のお兄さんが立っていた。
私は送り状の送り主を見て驚いた。慌てて受け取りのサインをする。荷物を受け取るとすぐに送り状を剥がした。
拓都に気付かれないようにと思うと、余計にドキドキし、リビングまで戻って来て箱を開ける時も、覗き込む拓都のワクワクした瞳に、ますます焦りを感じた。
「わぁー、お花だ。ママ、綺麗だね」
箱の中は花束だった。バラを中心にスイトピーやかすみ草、他にも名前の知らない花が綺麗にアレンジされている。
慧、バレンタインの話なんて何もしなかったのに。
慧から貰った花束は最初のバレンタイン以来で、再び貰えるなんて思いもしなかった。
胸が詰まる。もう、涙が出そうだ。
今日小学校で愛先生から何かを受け取っていた慧を見て、心をざわつかせていた自分が恥ずかしい。
「ねっ、ママ、このお花、どうしたの?」
「えっ? あっ、ママの大好きなお友達から、貰ったのよ」
本当のことが言えないのは辛いけど、このぐらいなら大丈夫だよね。
「そっか、良かったね、ママ」
少し寂しそうに笑った拓都の笑顔が気になったけれど、私は早速に花束を花瓶に生けることにした。
水きりをしながら、さっきの拓都の表情を思い出し、ふとその訳に思い至った。
今日は他人にあげるばかりで、拓都は何も貰っていないから、かも。私にはこんな素敵な花束が届いたのに。今更、由香里さんから貰ったお土産を、拓都にと言ったところで意味が無い。
「拓都、来月の十四日はホワイトデーって言って、バレンタインデーの今日、チョコレートを貰った人はチョコレートを贈ってくれた人にお返しをすることになっているの。ほら、沙希ちゃんからチョコレートを貰った後、いつもママがクッキーを焼いてお返ししていたでしょう。だから来月が楽しみだね」
お返しがくる確証もないのに、こんなことを言ってしまう自分が情けなかったけれど、おそらく千裕さんも由香里さんも何らかは考えているだろうとは思う。ちょっと図々しいけど。
それでも、私からは職場の人からのお返しだと言って用意しようと決めていた。
拓都の表情が嬉しそうの緩み「楽しみ」と言ったので、内心ほっと息を吐いた。
少しは、今日何も貰えなかった淋しさを紛らわすことはできただろうか。
その後、いつもより遅くなったけれど夕食を済まし、お風呂へ入って、拓都は自室で眠りに着いた。相変わらず寝る前の読み聞かせは続いている。今は保育園の頃のような絵本では無くて、挿絵は少なくてお話は長い児童書を、毎日少しずつ読み聞かせている。拓都が寝てしまったのに気付かずに、自分が先を知りたくて少し先まで読んでしまうこともあり、翌日はまた戻って読み直す、というのを繰り返している。
それでも、拓都と同じ感動を味わいたくて、先に読んでしまいたいのを我慢しているのだ。
拓都も寝静まった午後十時過ぎ、今日は掛かってくるだろうと思っていた人からのコールが鳴る。どこかそれを待ち望んで身構えていたくせに、心臓は正直にドキリと飛び跳ねた。瞬時に頭の中を、彼の家へチョコレートを届けたことだとか、届いた花束だとかが過ぎった。
「美緒、チョコレートありがとう。ここへ寄ってくれたんだな。拓都の日記でチョコレートを作ったことは知っていたけど、連絡が無かったから、少しへこんでいたんだよ。まさかここへ寄っているなんて思わなかったから、嬉しかった」
「慧だって、バレンタインのこと、何も言わないから。花束、びっくりしちゃった。ありがとう。私も嬉しかった」
「お互いにサプライズが上手くいって良かったな」
そう言って彼はクスクスと笑いだした。
ようやく、拓都に答えた「喜んでくれたよ」の言葉が、現実のものとなって安堵した。
なにより、その喜びを彼の声で聞かされることが、泣きたい程嬉しいことだった。
「やっぱり拓都、日記に書いていたんだ。何だか拓都を通じてこちらの生活が筒抜けになっているみたい」
私はどんどんと目の奥に集まり出した嬉しさのしずくが決壊する前に、話題の方向を少し変えた。
「みたい、じゃなくて、殆ど報告書並みに詳しく書いてくれているよ。翔也と陸にあげる分とママはお仕事の所の人にあげる分を作ったって書いてあったけど、俺の分は書いて無かったよ」
もうー、分かっていてそんなこと言うんだから。
「慧の方こそ、花束の送り状、拓都に見られたら困ると思って、慌てたんだから。それに、誰から貰ったのって訊かれて、困っちゃったんだから」
私の文句を聞いて、彼はハハハと笑い出した。
「そうだな、担任がバレンタインに保護者に花束を贈るなんて、あり得ないもんな。それで、美緒は誰から貰ったって言ったんだ?」
そう突っ込まれてもおかしくないことを言ってしまったと今更ながら気づき、ドキリとした。
「あっ、友達からと……」
その前に大好きなと付けたことは黙っていよう。
「ふうん、仕方ないよな。拓都がまだ小学一年生で良かったな。五、六年生ぐらいだと、友達がバレンタインデーに花束なんて贈るのはおかしいって気付くだろうけど。美緒、ごめんな。本当のこと、言えなくさせてしまって」
さっきまで笑っていた彼が、急に声のトーンを落として謝罪の言葉を言ったのには、驚きよりも胸が詰まった。
慧は何も悪くない。私と拓都のために、黙っていようと決めたことなのだから。
「ううん。そんなこと、謝らないで。それに、後もう少しの間だし」
「そうだな。何だか今からドキドキするよ。拓都はどう思うだろう?」
「大丈夫。拓都は守谷先生のこと、大好きだから」
「担任として大好きでもな。まあ、先の心配をしても始まらないし、とりあえずは明日の心配をしようか」
明日?
あ、そうだ、明日は千裕さんに全てを話すって決めたのだった。
「あ、明日、なんとかなるよね」
「大丈夫さ。西森さんって、懐広そうだから」
彼がそう言ってくれるだけで、大丈夫なような気になるから不思議で、私も「そうだね」と答えるとフフッと笑った。
フッと会話が途切れ、お互いに相手が話し出すのを待つように沈黙が訪れた。傍にいれば何も話さなくても気にならないのに、電話だと沈黙が辛い。
もうそろそろ切った方が良いかなと思った時、彼が「あの……」と何かを言いあぐねているように声を出した。
「あ、あのさ、今日、大原先生に……」
「あっ」
愛先生の名前が出た途端に甦った今日の夕闇の中のシーン。思わず声を出してしまった。
「えっ?」
「あ、あの、私、今日拓都を迎えに行った時、見たの。体育館の渡り廊下の所にいた慧と愛先生」
彼の口から聞きたくないと、咄嗟に今日見たことを口早に話してしまってから、後悔した。
これじゃあ、焼きもちやいて詮索しているみたいじゃないかって、そのとおりだけど。
「見た? 見たって……。えっ?」
彼が驚くのも無理はない。何となく彼が焦っているのが分かる。
「遠目だったけど、ちょうど灯りの下で姿が見えたから。愛先生は、そのまま駐車場の方へ歩いて来たから分かったの」
私の言葉を聞いて、彼は大きく息を吐いた。
「そっか、見ていたのか。それなら丁度いい。実はあの時、大原先生に送り迎えとかのお礼にとチョコレートを貰ったんだ。なかなかお礼が出来ないからってバレンタインに便乗したって言っていたよ。本当ならバレンタインチョコは受け取らないんだけれど、お礼と言われると受け取らない訳にいかなくて」
落ち着いた声で話す彼の言葉を聞きながら、愛先生が渡したものがお礼のチョコレートだったということよりも、彼が私に隠さずに話してくれたことが嬉しいと思った。
「うん。わかっているから」
私は、あの時心をざわつかせたことを心の中で謝りながら、これ以上は何も言わなかった。
「やっぱり俺達、試されているな」
「えっ? 試されている?」
「本当はこのこと、美緒に言おうかどうか悩んだんだ。例えお礼のチョコだとしても、美緒が聞いたら嫌な気持ちになるかなって思ったから。でも、話して良かったよ。美緒が見ていたのに話さなかったら、余計に信頼を失くしただろうな」
「そんな。慧のことは、信じているよ。ただ、見た時はちょっとだけ嫌な気持ちになった。でもそんな自分が嫌だった」
彼が正直に話してくれたから、私もさっきまで黙っていようと思っていた気持ちを話した。
「そんなの、当り前さ。俺だって、美緒が男の人と二人きりのところを見たら、嫌な気になるよ。でも、正直に話してくれて、嬉しいよ」
「私も、慧が話してくれて嬉しかった」
私がそう言うと、彼は又笑いだした。
「俺達は試練を乗り越えたってことだな」
彼の言葉がなぜか可笑しくて、私も笑った。
これからも何度もこんなお試しはあるのだろう。
それでもこうして二人で前に、一歩一歩進んでいきたいと、心から願った。




