【十二】バレンタインの記憶
「うそー!!」
夜の図書室で、担任の噂話に声を上げたのは、千裕さんだった。
目の端に千裕さんの驚く顔が映った気がしたが、私の脳は、目と耳の機能を止めてしまったように、何も頭の中に入って来なくなった。
ただ、慧のことがグルグルと頭の中を駆け巡り、思考は同じことを繰り返すばかりだ。
だから、にわかに自分以外の人達が、彼の話題で盛り上がっているのも、どこか遠くでテレビがついているような感じがするだけだった。
「これは確かな情報筋からの話だから本当だと思うよ」
「確かな情報筋って」
「ウフフ、秘密」
「でもでも、私、守谷先生に怒られたんだよ!」
「えー! 西森さん怒らせるようなことしたの?」
「いや、怒らせたつもりないんだけどね。あのね、二学期の個人懇談の時、雑談しながら、ちょっと愛先生のことで突っ込んでみたのよ。そうしたら守谷先生、愛先生とは関係ないので、変な噂を立てたら愛先生に迷惑をかけるから止めてくださいって、ちょっと怒った声で言われちゃって」
「それは西森ちゃん、守谷先生のプライベートを暴こうとしたからでしょう? 怒られても仕方ないよ。いくら守谷先生でも、芸能人じゃないんだから」
「だって、不倫とかじゃないんだから、別に暴くとかそんなつもりはないけど、愛先生と付き合っているのなら応援したいなって思っただけだよ」
「何だか西森ちゃんらしいねぇ」
「でもでも、やっぱり守谷先生と愛先生ってお付き合いしているのかな?」
「最近、守谷先生は保健室に新しく来た養護の先生と仲がいいって噂だけど?」
「ええっ? あのハデ美人の先生? 本郷先生だっけ?」
「本郷先生は、守谷先生の大学の時の先輩だって話だよ。それで仲良く見えるんじゃないの?」
「そうだったんだ」
「じゃあ、やっぱり、本命は愛先生?」
ぼんやりしていると、千裕さんに「美緒ちゃん」と肩をたたかれて呼びかけられ、やっと我に返った。
「えっ? なに?」
聞いていなかったことがバレバレな反応の私を、怪訝な顔をして千裕さんは見つめた。
「美緒ちゃん、どうかした? 大丈夫?」
「えっ、いや、あの、ちょっと仕事でし忘れたことを思い出して、どうしようかなって考えていたから……」
咄嗟の言い訳だったけれど、千裕さんは信じてくれたようだった。
「もう、美緒ちゃんは真面目なんだから」
「篠崎さんって、いつもおとなしいけど、守谷先生の話題に興味ない?」
委員長がこちらを見てニッコリと笑った。
興味ないって、そんなこと……。
「いやいや、興味ないこと無いよねぇ? 美緒ちゃんなんか最初役員になりたての頃、守谷先生の前に出ると凄く緊張して、可哀想なぐらいだったよ」
千裕さんは、私の代りに余計なことまで披露してくれる。
「あっ、何だか分かる。あんなイケメンの前に出ると緊張するよね。遠くから見ている分にはいいんだけどねぇ」
副委員長が助け船のように口を挟んでくれたお陰で、皆口々に同意してくれ、私は心の中で嘆息した。
*****
翌日の土曜日、由香里さんと千裕さんが子供達を連れて、我が家へ遊びに来た。三人が揃うのはクリスマスパーティー以来だ。
昨日の今日で、何となくみんなと楽しくおしゃべりする気分になれなかったけれど、以前からの約束だったから、断ることもできなかった。
自分では一生懸命いつもと同じように振舞っているつもりでも、聡い由香里さんには気づかれてしまうかも知れない。
そんなことを思いながらも、昨日のことは頭の片隅に押しやって、皆でワイワイと昼食をする。その後、子供達はリビングでゲームや玩具で遊びはじめたので、私達はダイニングのテーブルで紅茶と別腹のスイーツやお菓子を並べて、いつものお喋りを始めた。
「ねぇ、ねぇ、由香里さん。昨日スゴイ情報を聞いたのよ。ねっ、美緒ちゃん」
ああ、ついに来たかと思いながら、言いたくてうずうずしている千裕さんの輝く目が、私の方を向いてニッコリと同意を求めた。
私は心の中で溜息をつき曖昧に頷くと、昨夜仕入れたばかりの情報を得意気に話す千裕さんを、甘受しながら見つめていた。
千裕さんは悪くない。本当のことを言っていない私の方が悪いのだから、私のこんな気持ちに気付かなくても、仕方のないこと。
そうは思っていても、本当は余り由香里さんには聞かせたくなかった。やっと由香里さんを安心させられたと思っていたのに、又心配をかけてしまう。
その時、千裕さんの話を聞いて驚いた由香里さんが、思わず私の方を見た。私は大丈夫だからと目で伝えながら、笑って見せた。
「それにしても、どうして守谷先生は、愛先生と関係ないなんて言ったんだろう?」
千裕さんが不満げに言うと、由香里さんは「本当に関係ないからじゃないの」と素っ気なく答える。
「でも、一緒にスキーに言った先生は他にもいるのに、どうして守谷先生が毎日送り迎えしているの? 二人の間に何かあると思ってもおかしくないでしょう?」
「たまたま、守谷先生の通勤途中に愛先生の家があったのかも知れないよ?」
由香里さんが、私のことを思って、反論してくれているのは嬉しかったけれど、千裕さんの方もむきになって言い返している。私は居た堪れなくなって、由香里さんに目配せした。
「まあまあ、由香里さんも千裕さんも、噂だからね? そんなことでもめないで?」
「でもねぇ、美緒ちゃん。やっぱり気になるじゃない? それに、守谷先生を応援したいのよ」
間に入って話を終わらせようと思ったけれど、千裕さんは担任の話題から引くつもりはない様だ。
「千裕ちゃん、あまり詮索すると、今度こそ本当に守谷先生に怒られちゃうかもよ」
由香里さんは苦笑しながらも釘を刺す。
「もう、由香里さんの意地悪」
千裕さんは情けない顔をしてそう言うと、同じように苦笑し、その話題はそこで終わったようで、私は心の中で安堵の息を吐いたのだった。
私達はその後もいろいろな話題で盛り上がり、楽しいひと時を過ごした。最初は気分が乗らなかった私も、やっぱりこの二人と話していると、気持ちも晴れて行った。
千裕さんは、担任の話題を出さなければ、もっといいんだけどなぁなんて、勝手なことを思いながらも、二人が友達でいてくれることに心の中でそっと感謝した。
そろそろお開きにしようかと思った頃、千裕さんがポツリと言った。
「ねぇ、もうすぐ二月だけど、美緒ちゃんはバレンタインデー、どうするの?」
バレンタインデー。すっかり遠のいたイベントだったので、忘れきっていた。
「考えてなかった」
私は正直に答えると、千裕さんは驚いた顔をした。
「美緒ちゃん、何言っているの! せっかくのチャンスだから、彼にぶつかってみなよ」
千裕さんは又眼を輝かせて、勢い込んで言う。どうにも彼女は人の恋愛事を応援したいらしい。
私が助けを求めるように由香里さんの方を見ると、彼女もまたニヤリと笑うと「そうそう、バレンタインデーは外せないよね」と千裕さんに同意するように言った。
バレンタインデーと言って思い出すのは、付き合い始めて初めてのバレンタインデー。
慧と付き合うまでも誰かにバレンタインデーのチョコを贈ったことも無く、バレンタインデーを意識したことも無かった。それに、バレンタインデーは女の子が好きな人にチョコレートと共に告白する日だと思っていたから、無意識に関係ないと思っていたのかもしれない。
バレンタインデーが近づいたある日、美鈴に「バレンタインデーはどうするの?」と訊かれ、恋人同士にとっては変わらない気持ちを伝えて、確かめあう日なのだと諭された。
美鈴に引っ張られるように連れて行かれた大学近くのデパートに、この時期だけ登場するチョコレート特設売り場で、女の子達がショーウィンドウに近づけない程ひしめいていたことに驚き、テンションの高い女の子達の雰囲気に怯んだ。そして、そこで女の子達のお喋りに登場する彼の名前を聞いた時、改めて現実を思い知らされた。
美鈴は「モテる彼を持つと大変だね」と苦笑しているけれど、私の心の中は複雑だった。
彼がモテることは分かっていた。けれど、私と一緒にいる時の彼はとても自然体で、彼の傍にいることの心地よさを感じ始めていた私は、その現実を忘れていた。否、考えないようにしていたのかもしれない。
その頃の私達は、付き合い始めてまだ二ヶ月弱で、恋愛経験値の無い私は、彼との距離感が分からず、自分の就職試験のための勉強を優先させていたけれど、彼はそんな私を受け入れていてくれた。
男女の付き合いがどういうものか、友人からの話でまったく知らない訳じゃない。それでも、それを自分のこととして考えるのは怖かった。だから、私達のその頃の関係は、少し親しくなった先輩後輩という感じだった。
そんな時に付きつけられた現実は、私を不安にさせた。
もしかしたら、私なんかよりもっと彼のことを思っている女性が、彼に告白するかもしれない。
私なんかよりもずっと彼好みの女性が、彼に告白するかもしれない。
そんなことばかりを考えていると、普段考えないようにしていたことまで、頭の中に浮かび始めてしまった。
もしかすると、付き合ってみたけれど、なんの色気も面白みも無い私に愛想を尽かして、手を出す気にもなれないのかもしれない。そんなどうしようも無い考えが、だんだんと彼への気持ちさえも自信を無くさせ、チョコレートを用意することさえできなくなってしまったのだった。
そして、バレンタインデー当日、その日は今年と同じ月曜日だった。もう既に春休みに入っていたけれど、私は公務員講座があったので、毎日大学へと通っていた。特に彼とは約束はしていなかったし、もう一週間以上会ってもいなかった。あのチョコレートを見に行ったのはその会わなかった間のことだった。電話では話したけれど、バレンタインの話題には一切触れなかった。
何となく彼に申し訳ないと思いながらも、早く今日という日がすぎてしまうことを祈り続けていた。
私がチョコレートをあげなくても、彼はきっと沢山貰うだろう。
そんな風に考えながらも、私の胸はじくじくと痛んだ。
公務員講座を終え、駅へと歩いている時、クラクションが鳴った。振り返ると、彼が車の中から手を振っている。一瞬、逃げ出したくなった。
何も今日という日に待ち伏せしなくても。まさか、チョコレートを貰おうと思って来たとか?
それでも、笑顔で手招きする彼に引き寄せられるように助手席に座った。「こんにちは」と挨拶をすると、彼も挨拶を返しながら、後部座席に置いてあったものを取ると私に差し出した。
それは、優しい香りのするフリージアとかすみ草の花束だった。
私は唖然として彼の顔を見上げると、彼は恥ずかしそうに笑った。
「本当はバラの花束にしようと思ったんだけど、美緒さんにはこちらの方が似合う気がして……」
どうして私に花束を差し出しているのか、彼の言葉からは分からず首をかしげると、彼はハッとしたように「バレンタインだから」と言った。
バレンタインに男性から花束?
私が「えっ?」と訊き返すと、「日本では女性からチョコレートが定番だけど、海外だと男性からもするらしいから」と、彼は答えた。私は急に居た堪れなくなった。
「わ、私はチョコレート用意してないの」
「そんな必要ないよ。それに俺、チョコレートそんなに好きじゃないから」
彼は慌てたように言い募った。
「で、でも、守谷君、チョコレート沢山貰ったでしょう?」
そう言うと、彼は驚いて一瞬こちらをチラリと見た。彼のそんな様子を見て、私はまずいことを言ってしまったと後悔した。
「もしかして、焼きもちやいてくれた?」
彼は前を向いたままそう言うと、又チラリとこちらの様子をうかがうように見た。
焼きもち? この感情は焼きもちなのだろうか?
いつの間にか車は、海辺の公園の駐車場に停まっていた。冬のこの時期、車はほとんど停まっていない。海の方を向けて止めた車から、海が見える。ちょうど夕陽が沈む時間帯だけれど、空はどんよりとした雲が垂れ込めていた。
まるで私の気分みたい。
さっき彼が買ってくれたホットココアの缶を両手で包み込むように持って飲みながら、その指先から伝わる暖かさが、彼の優しさのようで泣きたくなる。そして、さっき彼が言った言葉をもう一度頭の中で反芻した。
焼きもち、嫉妬、そういう感情は知っているつもりだけれど、私の中にあるもやもやとしたこの気持ちをそう呼ぶのだろうか?
バレンタインデーに必死な想いで彼に告白する女の子達。彼女達に嫉妬しているのだろうか?
ううん、そうじゃない。
私は自分が彼にそんな必死な想いで告白することが出来ないから、彼のくれる想いや優しさと同じだけのものを返していない自分が情けないのだ。
でも、こんなふうに彼と過ごす時間や空間を失くしたくないと思っている。彼が他の誰かと、と考えるだけで胸が苦しくなる。
「美緒さん、俺、誰からもチョコレートは貰っていないから。全部断ったんだ。付き合っている人がいるからって」
「守谷君ごめん。チョコレート用意できなくて」
「いいんだ。さっきも言っただろう? チョコレートは好きじゃないって」
「でも、他の物も用意してないから」
「美緒さん。わかっているから。俺が無理を言って、付き合うことを前倒しで許してもらって、こうして美緒さんの傍にいられるだけで、いいんだ。それに、美緒さんの気持ちがまだついてこられないことは分かっているから。これから少しずつ二人の気持ちが近づいて行けたらいいなって思っている」
「守谷君」
どうしてそんなに優しいの?
本当に私なんかでいいの?
心に浮かんが疑問は、彼の眼差しの真剣さの前に口にすることが出来ない。
「でも、一つだけ、お願いしてもいいかな? バレンタインだから」
彼の眼差しが優しく緩んで、私の顔を覗き込むように問いかけるから、私は操られるように頷いた。
「俺の名前、下の名前で呼んでくれないかな?」
えっ? 下の名前って?
「慧、君?」
「君を付けられると、年下って言われているみたいで嫌なんだけど。実際年下だけどさ」
彼は照れたように笑った。
君を付けないって、呼び捨てでっていうこと?
「呼び捨てなんて、レベルが高すぎるよ」
「レベルって、なんのレベルなんだ? そんなに気負わなくてもいいから、友達のことも呼び捨てで呼んでいるだろ? 俺も美緒って呼んでもいいかな? 名前を呼び捨てで呼び合うだけで、今までよりずっと近づけるような気がするんだ」
彼が美緒って言った時、心臓がドキリと跳ねた。
彼の言う通りかもしれない。「守谷君」と呼ぶよりも「慧」と呼ぶ方がずっと近く感じる。
そして彼が、優しい眼差しで「美緒」と呼ぶから、私も彼の名を呼ばなければと口にすれば、「け、慧」と、いきなり噛んでしまった。
それでも、名前を呼び合うだけのことなのに、どうしてこんなにドキドキするんだろう?
この最初のバレンタインが、私達をぐっと近づけた。でも、今の私達は、あの時よりも離れているんじゃないだろうか?




