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いつか見た虹の向こう側【改稿版】  作者: 宙埜ハルカ
第二章:婚約編
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【十一】揺れる心

 拓都のインフルエンザは、土曜日には熱も下がり、月曜日にもう一度高尾小児科で診てもらうと、明日から登校しても良いと許可が下りた。

 あんなにぐったりとしていた拓都も、現金なもので熱が下がった途端、元気が有り余って退屈していた程だった。

 千裕さんの情報通り、担任である慧からは、あの日から毎日拓都の様子を尋ねる電話があった。その上、土曜日には、「欲しいものがあったら買って行くから、家に寄るよ」とまで言ってくれたのに、うつるといけないからと断ってしまった。

 気にしていないつもりだった。

 でも、彼の声を聞くと、浮かび上がった車内の映像が脳裏にチラつくのだ。

 どうして、人を待たせているからって、言ってくれなかったんだろう?

 取り立てて言うほどのことでもないからなのか、それとも、言いたくなかったのか?

 ああ、こんなこと思うこと自体、ダメだよね。

 こんな自分を知られたくなくて、今は会いたくなかった。

 由香里さんに言えば、そんな思いを抱えているぐらいなら、本人に訊いてみたらって言うだろうけど、寒いから外まで見送らなくてもいいって言ってくれた彼の手前、何も訊けない。

 もしかして、見られたくなくて、外へ出るなっていったの?

 こんなことまで考えてしまう今の私は、最低だ。

 しかし、考えてみたら、私だって職場でのことを何でもかんでも慧に言う訳じゃない。たまに行くランチに同僚の独身男性がメンバーにいても、いちいち話はしない。もしも、ランチに行ったお店の話題を話したとしても、男性も一緒に行ったなんて、わざわざ話すことはしないだろう。それには、変に誤解されたくないという気持ちもあるから。

 そう考えると、たまたま彼の職場が、身近な場所で知っている先生がいても、職場での話題を何もかも話してほしいとまでは思っていない。それに今回のことも、どこかで私の誤解を避けようという気持ちが働いて、言わなかっただけなのかもしれない。

 そんな風に考えると、まさしく彼が危惧したであろう誤解というのをしてしまった訳だ。

 バカみたい。

 寒いから外まで見送らなくてもいいと気遣ってくれた彼の気持ちを、小さな好奇心で無駄にして、その上嫉妬心に心を乱されるなんて。

 そのせいで、彼が拓都をお見舞いに来てくれるという心遣いを断り、彼が電話をしてくれるたびに心ざわつかせる日々を送ったなんて。

 拓都のインフルエンザのために仕事を休んでいた期間、いつもよりずっと思い悩む時間が多かったせいで、どんどんよからぬ方へと進んで行った思考も、拓都の全快によって、いつもの日常が戻ってくると、正常に動き出したのか、こんな風に一人反省したのだった。


「美緒、やっと元気が出たみたいだな?」

 拓都が全快して登校した日の夜、電話をかけてきた慧がこう言った。どうやら声のトーンが違うらしい。自分ではいつもと変わらずに話していたつもりだったのに、彼にはバレバレだったようだけど、その理由が違っている。

 心の中で信じきれなくてごめんなさいと謝りながら、「やっぱりいつもの日常が一番いいね」と答えた。

「そうそう、今週の金曜日の夜、三学期の広報の会議なの。午後七時からなんだけど、慧はまだ学校にいる時間?」

 たわいもない会話をした後、私は金曜日の予定を思い出した。

 毎日、拓都を迎えに小学校へ行っているけれど、校舎の中へ入る訳じゃないので、彼に会えたことが無い。せっかくの校舎の中へ入るチャンスだから、一目でも見られたら……。

 心がざわついていた時は、彼に会いたくないなんて思ったくせに、モヤモヤした思いを自己完結させた途端、声だけじゃ無くて、やっぱり顔も見たいと欲張ってしまう。

 彼の元気な姿をちらりと見るだけでいいの。

「いつも、夜の七時ごろはまだ学校にいるけど、何か用事あった?」

 彼の反応は当然のことで、一目見たいからなんて恥ずかしくて言えない。

「別に何もないんだけど、私が行く頃に居るのかなって思っただけで……」

 焦ったように言い訳すると、彼はクスッと笑った。

「わかった。それで、美緒はその日、何時頃学校へ来るんだ?」

 笑いをふくんだ声で彼に問いかけられ、自分の浅ましい心を見透かされたようで、私の心は途端に苛立つ。

「五分から十分前には着くように行くつもりだけど」

 一目見たいと思っていたくせに、素直じゃない私は天の邪鬼全開の低いトーンで答える。

「じゃあ、十分前には着くようにおいでよ」

 彼の笑いを抑えたような声が、癪に障る。

「忙しいから、約束はできない」

 自分でも可愛くないなと思いながらも、天の邪鬼を止められない。

「みーお、一目でもいいから会いたいんだ」

 うっと、思わず言葉を飲み込んだ。

 これだから慧には敵わない。

 私の天の邪鬼を面白がってからかうか、こんな風に先回りして、私が何も言えなくしてしまう。

 分かっているのに素直になれない私は、学習力が無いのか、私も彼にからかわれるのを喜んでいるのか。

「で、でも、他のメンバーも集まって来るし、西森さんだって……」

「担任からクラス役員さんに渡すものがあるんだけど、ダメかな?」

 結局自分の望み通りの展開なのに、何となく慧の策略にはまっている気がするのは、なぜ?

「もう、慧には参るなぁ。それで、十分前に行って、職員室へ寄ればいいのですか? 守谷先生」

「いや、俺が時間を見計らって玄関の方へ行くよ」

「はい、了解しました。でも、本当に渡すものなんてあるの? なんだか慧に上手く言い包められているみたい」

 彼は誤魔化すように、ハハハと笑った。でも、今度は天の邪鬼が退散してしまったようで、私は嬉しさを隠しきれずに、フフフと笑いがこぼれてしまったのだった。


   *****


 約束の金曜日、一月二十八日は、広報の三学期最初の会議の日だった。

 広報の会議は夜なので、時間までに拓都を迎えに行って、夕食を食べさせて、お隣に拓都をお願いして、それから学校へ向かわなければいけないので、時間との競争だ。職場を予定通りに出られればいいけれど、どんなことで遅れるか分からない。だから、こんな日は、朝から夕食の用意のできるところまでしておくことにしている。そして、こんな時の便利なメニューは、カレーライスだった。

 朝の内に圧力なべで、ルーを入れる手前まで煮込んでおき、帰ってから、カレールーを入れて仕上げる。そうすれば、簡単なサラダとスープを付け合わせれば完了という時間短縮ができるからだ。

 その日も、慌ただしく夕食を済ますと、お隣へ拓都を送って行き、学校へと急いだ。今日は何としても、会議開始の十分前までには学校に着いていなければいけない。

 私が学校の駐車場に着いたのは、午後六時四十二分。焦り過ぎたようだ。

 少し車の中で校舎へ向かうタイミングを計りながら、車を降りて玄関へ向かって歩き出した。

 他の人は何時頃に来るだろう?

 いつも委員長と副委員長は先に来ている。千裕さんも私より早い。いつも私がギリギリだからだろうけれど。

 私が車の中で時間調節していた間、誰もやって来なかった。そして、灯りの点いた玄関に辿りつき、靴を脱いでスリッパに履き替える。

「篠崎さん」

 顔を上げると、優しく微笑む担任が立っていた。

「こ、こんばんは」

 驚いて、一瞬息をのんで、それからやっと挨拶の言葉を言った。

 分かっていたのに、やっぱり慧と対面するのは、まだドキドキする。

「こんばんは、お疲れ様です。時間通り、来てくれてよかったよ」

 担任口調で挨拶を返し、後半は声を潜めて話す彼。

 なんとなく、人目を忍ぶような感じで、変に焦る。

「うん。まだ誰も来てないのかな?」

 彼は真っ直ぐに私を見つめているのに、私は恥ずかしくて彼の方へ視線を向けられない。 

「ずいぶん前に、広報の委員長だと思うけど、図書室の鍵を借りに来ていたから、もう来ているんじゃないのかな?」

「そっか、委員長達はいつも早く来ているみたい。もうすぐ他のメンバーもやって来るから、こんなところで話をしていてもいいの?」

 私はやっと彼の方を見上げて、問いかけた。

 ああ、一週間ぶりか、彼の顔を見るのは。

「いいだろ? PTAの仕事でやって来た役員さんに担任が声をかけるぐらい。ああ、そうだ。忘れないうちに、これを渡しておくよ。来月にあるクラス役員の会議のお知らせが入っているから。本当は今日拓都と翔也に渡すつもりだったんだけど、忘れたことにしたよ」

 笑顔でそう言いながら、彼は手に持っていた二つの封筒を私に差し出した。

「守谷先生でも、忘れることがあるんですね?」

 私は封筒を受け取りながら、クスッと笑った。彼も笑いながら肩をすくめて見せた。

 その時、玄関のガラスドアが開いて、冷たい風が吹き込んだと同時に明るい声が響いた。

「こんばんは。あっ、守谷先生、こんばんは。美緒ちゃんも、もう来ていたんだ」

 振り返った私の目は、嬉しそうな千裕さんの顔を捉えた。その途端、身体の中を妙な緊張が走った。

「こんばんは、西森さん。さっき、篠崎さんにも話していたのですが、今日拓都と翔也に役員会議のお知らせを渡すつもりが、忘れてしまって。ちょうど篠崎さんを見かけたので、渡せて良かったです」

 彼は何の動揺も見せず、担任の顔をして声をかけている。

 私のこの緊張を半分分けてあげたい。

「千裕さん、こんばんは。これが、そのお知らせなの」

 ちょうどスリッパをはいて上にあがって来た千裕さんに、封筒の一つを差し出した。

 彼と千裕さんがいるだけで何だか冷や汗が出そうだ。

 来月のクラス役員の会議の時、どうなってしまうのだろう?

「二人揃っているからちょうど良かったです。そのお知らせにも書いたのですが、三学期の学年行事は発表会と親子レクリエーションなんです。でも、会議の時間をそれほど取れないから、親子レクリエーションの内容をそれぞれのクラス単位で会議までに考えておくことになりました。体育館の中で出来る、体を動かすようなレクリエーションを考えておいてください。それで、申し訳ないですけど、会議の日、三十分早く来てもらって、教室の方で一年三組としての提案を話し合いたいと思います。どうですか?」

 彼はすっかり担任モードで話している。私も保護者モードにならなくては。

「わかりました。私は時間の方は大丈夫だけど、美緒ちゃんはどう? いつもより早く早退できる?」

「うん、大丈夫だと思う」

「では、詳しい日時は、そのお知らせに書いてありますので、よろしくお願いします。じゃあ、これで」

 そう言うと、彼は踵を返して職員室の方へ歩いて行った。後ろ姿を目で追っていると、千裕さんに声をかけられ、我に返った。

「美緒ちゃん、行こうか?」

「うん、そうだね」

「そうそう、さっき、玄関のドアを開ける前に、ガラス越しに二人が話しているのが見えてね。とても楽しそうに笑っていたけど、美緒ちゃんもやっと守谷先生に慣れてきたんだねぇ」

 図書館へ向かって歩きながら、千裕さんがのほほんと、何の意図も無く突っ込む。

 声は聞こえてないだろうけれど、見られていたんだ。

 別にやましい態度は取っていなかったとは思うけれど、何となく後ろめたさを感じてしまう。

「慣れるって?」

「だって美緒ちゃん、最初の頃、守谷先生の前では、すごく緊張していたでしょう?」

 ああ、そうだった。今思うと、あり得ない程の緊張だった。何だか遠い昔のようだけれど。

「そうだったね」

「美人は三日で飽きるって言うけど、イケメンに慣れるのは十ヶ月もかかるんだね」

 そう言って、千裕さんが笑うから、私もやっと緊張を解いて「かかり過ぎだね」と笑って返した。


 図書室の引き戸を開けて「こんばんは」と入って行くと、委員長と副委員長が振り返って挨拶を返してきた。

「今、インフルエンザが流行っているから、今日の会議も三人お休みなのよ。人数少ないけど、三学期の新聞は殆ど例年通りだから、決めることは少ないの。だから、今日やってしまおうと思って。よろしくね」

 委員長が申し訳なさそうにそう話している時に、もう一人やって来て、これで五人。今日はこのメンバーですることになった。

 皆が六人がけの大机を囲むように座って始めようとしていた時、図書室の戸が開き、また一人入って来た。

「ごめん、三学期もやっぱり夜の部の方の仲間に入れてね」

 そう言いながら、机へ近づいてきたのは、二学期も夜の部に来ていた本部役員の人だった。

「いいわよ。今日はお休みの人が多いから、助かる」

 委員長がそう言うと、皆も笑顔で会釈して歓迎した。


 夜の部の担当はPTA新聞の一面と四面で、三学期の新聞は卒業特集となるらしい。一面は校長やPTA会長、そして六年生の担当教諭の卒業生へのはなむけの言葉。四面は一学期の時に決めていた企画記事で、今回は学校のバリアフリーについてだった。

 企画記事のバリアフリーについてどんな記事を載せるか相談し、学校の玄関と児童の昇降口の段差をスロープにしたことと、車いす対応のトイレが出来たことを載せることになった。

 一面に載せるはなむけの言葉の依頼文の作成と四面の企画記事の担当を決め、私と千裕さんと最後に来た本部役員さんが依頼文を作成することになった。

 六人だけなので、和気あいあいとお喋りしながら、作業を進めていると委員長が本部役員さんに「そういえば」と思い出したように話しかけた。

「愛先生の骨折って、守谷先生達とスキーに行った時なんだって?」

 えっ? 愛先生が骨折? スキーの時に?

 私は思わず手を止めて、顔を上げた。同じように千裕さんも委員長の方を見ている。

「そうらしいよ。年末からお正月にかけて先生七人でスキーに行ったんだって。その時に転倒して腕を折ったらしいのよ」

「それで腕を吊っていたのか」

「そうそう、左腕だからまだましだろうけど、仕事には不便だろうね」

「それにね、愛先生、骨折しているから運転できないでしょう? だから、守谷先生が毎日送り迎えしているらしいのよね」

 愛先生が骨折していることを知っている人達が口々に言葉を挟むと、又本部役員さんが爆弾を落とした。

 え、送り迎え?

 そんなこと、一言も……。

 そして一気に私の脳裏に、あの夜の浮かび上がった車内の映像が蘇った。

 あれは、愛先生だったの?

 寄る所があるって、愛先生を送って行くため?

 じゃあ、今日も?

 私と笑顔で会った後、愛先生を送って行くの?

 ただの同僚というだけで、そこまでするのだろうか?

 もしかすると、他の先生達と交代で送り迎えしているかも知れないじゃないの?

 たとえ、彼が送り迎えしていたとしても、何か訳があるのかもしれない。

 もしかすると、以前付き合っていて、別れても情のある人だから、送り迎えしてあげているのかもしれない。私と再会した後、困っていた私を助けてくれたように。

 いろいろな思いが頭の中を駆け巡って、どう考えればいいのか分からなくなってしまった。

 でも、私は、あなたを信じたい。

 信じたいよ、慧。






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