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いつか見た虹の向こう側【改稿版】  作者: 宙埜ハルカ
第二章:婚約編
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【八】ずっと一緒

 一月四日の仕事始めの日、学童は五日からなので、拓都を由香里さんに預かってもらった。仕事が終わって帰り道、由香里さんの好きな白子堂のみたらし団子をお土産に買い、拓都を迎えに行く。昼間、千裕さん親子も遊びに来ていたらしかったが、私が迎えに来た時にはもう帰った後だった。

「美緒、夕飯食べて行かない? 旦那は帰り遅いから、気を遣わなくてもいいから」

 保育園時代から、由香里さんは何か話がある時や私が落ち込んでいる時などに、こんな風に夕食に誘ってくれた。母か姉かというぐらいの甘えっぷりだと自嘲しながらも、私は「ありがとう」と頷いていた。


「やっぱり、千裕ちゃんには言わないつもりなの?」

 夕食の後、子供達がテレビを見ているのを横目で見ながら、私達はダイニングのテーブルで声をひそめながらお喋りを続けていた。今日の昼間、千裕さんとの間で私の話題が出たのだろう。由香里さんに知らない振りをさせているのは申し訳ないなと思いながらも、その問いかけに、私は神妙に頷いた。

「本当はね、相手が誰かは言わないで、彼と上手くいったことだけ言おうと思っていたの。でも、拓都に春まで言わない理由も、プライベートで会わない理由も思いつかないし、上手く誤魔化せないと思うのよ。だからと言って、相手が誰かを言うのは、まだ役員活動もあるし、何となく言い辛くて。やっぱり、三学期が終わるまで言わないでおこうと思っているの。ただ、三学期が終わったら、真っ先に言うつもりではいるのよ」

「そっか。それで、彼はなんと言っているの?」

「私の友達に言うか言わないかは、私の思うようにしたらいいって。一応、由香里さんに話したことは言ってあるんだけどね」

「私も美緒の思うようにしたらいいと思うけど……。あのね、以前千裕ちゃんが、美緒の想い人は守谷先生じゃないのかって言い出した時があってね、その時は私も相手のことは知らないけど、それは無いんじゃないかって否定したのよ。そうしたら千裕ちゃん、ホッとして良かったって言うの。なんでもね、今まで美緒の前で守谷先生と愛先生を応援するようなことばかり言ってきたから、もし相手が守谷先生だったら、傷つけてきたんじゃないかって、心配していたんだって。千裕ちゃんって良い人だよね。だから、本当のことを言う時は、千裕ちゃんが罪悪感を持たないように、上手く話してあげてよ」

 千裕さん、そんな風に思っていてくれたんだ。

 心配や応援をしてもらっているのに、彼と心が通じ合えたことを報告しないのは、何だか酷く友達甲斐のない人間に思えて、胸がきゅっと痛んだ。

 どうしよう。やっぱり言った方がいいかな? でも……。

 頭の中で千裕さんの笑顔がグルグル回る。

「やっぱり、千裕さんにも早く話した方がいいかな?」

「まあ、三ヶ月なんてすぐに経つし、そんなに深刻に考えなくても、他からバレることは無いと思うから。それに、拓都君に守谷先生を意識しないで三学期を過ごしてほしいと言うのと同じで、千裕ちゃんにも役員活動のある間は意識して欲しくないんでしょう? だったら、役員活動が終わった時点で話したらいいんじゃないの?」

「そ、そうだよね。役員の仕事が終わった時点で話せばいいよね」

 まだ担任と保護者という関係上、どんなに千裕さんを信頼していても、二人の関係を口にするのは憚れて、その上どこか気恥ずかしさもあった。千裕さんに本当のことを言う勇気が出ない私は、由香里さんの言葉にホッとした。そんな私の心情が分かったのか、由香里さんはいつもの頼りになる笑顔を私に向けた。

「美緒はなんでも考え過ぎるのよ。千裕ちゃんだって、後から話しても、美緒の言えない立場ぐらい分かってくれると思うし、そこまで深刻に考えなくてもいいと思うよ。千裕ちゃんも美緒が幸せなのが一番嬉しいんだから、言えるようになったら、彼と二人で一緒に報告して、千裕ちゃんを驚かせちゃえば?」

 由香里さんと話していると、どんどんと心が軽くなっていく。私は彼女の言葉にうんうんと頷きながら、友情のありがたさをしみじみと噛みしめた。

「由香里さん、ありがとう。なんだか気持ちが軽くなったみたい」

「そんなお礼を言われるようなことはしてないから。でも、美緒の憂いが少しでも軽くなったのなら、良かった。美緒にはやっぱり笑顔でいてほしいから。私も千裕ちゃんも美緒の笑顔に癒されているし、美緒の頑張りに元気をもらっているんだよ。それに、千裕ちゃんが今日言っていたけど、美緒が拓都君を本当に大切に育てているのを見ると、自分の子育てが恥ずかしくなるって。私もその気持ち分かるよ」

「えっ? 反対でしょ? 私の方こそいつも、本当の母親にはまだまだ追いつけないなって思っているのに」

「いいえ、私達は自分が産んだ子供だから甘えがあるのよ。手を抜いたり、適当に流したりすることはよくあるの。でも、美緒はいつもきちんと拓都君と向き合っているでしょう? そんな美緒を見ていると、反省させられるのよ」

 由香里さんは苦笑しながら言った。

 二人の母親の大先輩からそんな風に言われて、くすぐったい様な気もするけれど、本当はそんな風に子供の前で気を抜いて、自然体でいられる本物の母親こそ、羨ましかった。

 自分の子育てをいつもこれでいいのだろうかと自問しながら、どこか気を張っているような気がする。だから拓都も、私の前でいい子でいようと無理をしているんじゃないかと不安になる。

「でもね、由香里さん。母親が子供の前で、自然体でいてこそ子供もリラックスできるんじゃないかな。私は拓都にリラックスさせていないかもしれない」

「美緒、美緒もその内、拓都君の兄弟を産んで、自然体の母親になれるから、大丈夫だよ。子育てに正解なんて無いんだから、拓都君が毎日楽しそうなら、それで良し。いろいろ考え過ぎないの」

 由香里さんの言葉はどうしてこう、私の気持ちを楽にしてくれるんだろう?

 私は微笑んで、「そうだね」と頷いた。

「それより、彼とはその後どうなの? やっぱり会ってないの?」

「年末の三十日の夜にね、彼がスキーに行く前に寄ってくれたの。玄関先で話をしただけだったんだけどね。年が明けてからは会ってないけど」

「へぇ、不器用な二人にしては、ちゃんと会っているんだ。でも、玄関先で話をしただけって、淋しすぎるよね。そろそろデートでもしたいんじゃないの? 近いうちに拓都君預かるから、デートしておいでよ」

 デート。

 由香里さんの言葉を聞いて、不意にある情景が浮かんできた。


 庭で洗濯物を干す姉に、笑顔で話しかけている私。

 『私がたっ君を見ているから、二人でデートしておいでよ』


 それは、全ての不幸の始まりの切っ掛けの情景。

 体が震えだす。

 ダメだ。ダメだ。

 どうして忘れていたんだろう?


 『お姉ちゃんがずっと傍にいるから大丈夫だからね』


 あの時、私は拓都と約束したじゃないか。

 ずっと傍にいると。

 デートのために拓都を誰かに預けるなんて。もしも私に何かあったら、今度こそ本当に拓都は一人きりになってしまう。

「由香里さん、私、デートのために拓都を預けることは、どうしてもできない」

「えっ? どうして? 私の方は気にしなくていいのよ。それに陸も喜ぶし。もしかして、拓都君を除け者にしているなんて思っているの? 美緒、子供はね、ママが笑顔でいてくれることが一番いいの。ママが我慢して笑顔が少なくなることの方が辛いよ。拓都君だって、陸と楽しく遊んで、ママも笑顔でいてくれたら、こんなにいいことは無いんだから。そんなに深刻に考えなくてもいいのよ」

 違う。違うのよ。

 言葉に詰まった私は、激しく首を左右に振った。

 そんな私の様子に気付いた由香里さんは、心配気な顔をして「美緒、どうしたの?」とさっきまでと違うトーンで私の顔を覗き込んだ。

「お姉ちゃんが亡くなったのは、私が拓都を預かるからデートしておいでって勧めたからなの。二人は車で事故にあって……」

 由香里さんには以前に話したことがあったかもしれないけれど、今はそんなことは考えられず、私は胸に詰まっていた物をこぼした。

 由香里さんはハッとしたように目を見開き、そして一瞬見せた悲しげな眼差しが、次第に慈愛に満ちたものに変わって行った。

「美緒、美緒はさ、なんでも考え過ぎて気にするから、きちんと拓都君に認められて、なんの憂いも無く彼と会った方がいいかも知れないね。さっきも言ったけど、三ヶ月なんてあっという間だよ」

 由香里さんは私の目を見て話すとニッコリと笑った。由香里さんの言葉は、ゆっくりと私の心に染み込んで行った。


 *****


 慧から電話があったのは、前回の電話があってから五日後の土曜の夜だった。前回は仕事始めの前日の一月三日で、翌日から始まる仕事や、新年会等の付き合いでそんなに電話ができないかもしれないと話していた。だから、彼の声を聞けないのは寂しかったけれど、仕方ないとも理解していたし、時々彼と送り合う写メールが、二人の空白を埋めてくれるようで、もう以前のように不安になることは無かった。

「美緒、なかなか電話できなくて、ごめんな」

「ううん。私の方こそ、電話かけてもらうのを待っているだけで、ごめんね」

「俺の方が時間は不規則なんだから、俺からかけるのは当たり前だろ。気にしなくていいよ」

「うん。ありがとう」

 たわいも無い会話だけど、彼の声を聞くだけで彼と会えなくても、心が温かくなっていく。

「今、実家へ帰ってきているんだ。お正月帰れなかっただろ? だから」

「えっ? そうなの? 皆さん、お元気だった?」

「ああ。クリスマス帰ったばっかりだから、もう帰らなくてもいいかなって思っていたんだけど、兄さんのところの子供達が、お年玉はまだかってうるさいんだ。帰ったら帰ったで、どうして美緒と拓都を連れて来なかったんだって怒られるし」

「ええっ! 私と拓都?」

 どうやら慧の実家には、受け入れてもらっているようで、面映ゆい。

「担任と保護者の間は、拓都にも言わないし、美緒ともプライベートでは会わないつもりなんだって、この前の時に説明したのに、そんな堅いこと言うなって言われてさ。姉さんからも美緒と拓都に会いたかったのにって責められて。家族に言うの、早まったかなぁ」

 彼は文句を言いながらも楽しそうだ。

 一度会っただけだけれど、彼の家族は温かい人ばかりで、私と拓都を大きな気持ちで受け入れてくれたことは、感謝しきれないほどだ。

「嬉しい。私と拓都をそんな風に受け入れてもらえるなんて、思ってなかったから」

「そんなこと、当たり前だろ」

 慧には当たり前のことでも、私には違う。

 裏切った私の罪も、子持ちだというマイナス条件も、慧自身にさえ受け入れてもらえるなんて思いもしなかったのだから。

「でも嬉しい。慧、ありがとう」

 クリスマス以降、涙腺が弱くなってしまって、もう目頭が熱くなっている。

 慧はそんな私に気づいたのかどうか分からないけれど、この話はお終いとばかりに話題を変えた。 

「それよりさ、来週から新学期が始まるけど、拓都はもう冬休みの宿題はしたのか?」

 教師らしい言葉に、慧は担任だったとあらためて実感し、なぜだか焦った。

「テキストやプリントはもう終わっているんだけど、日記はやっぱり見せてもらえないから分からないの」

 いつの間にか宿題で書いている日記を見せてくれなくなった拓都に、成長の証だと思えど、淋しいものを感じていた。

「それは楽しみだな。拓都の日記を読めるのは担任の特権だな」

 自慢気に言う慧が、少し憎く感じる。

「ねぇ、最近も拓都は日記に、やっぱり私のことを書いているの?」

 以前、慧に拓都の宿題の日記は私が書かせているのかって、訊かれたことがあった。その頃はもう拓都は恥ずかしいからと日記を見せてくれなくなっていたので、唯一その日記を読める担任である慧に、いったいどんなことを書いているのか尋ねた。その時は私のことが書かれていると言うだけで、詳しい内容は教えてくれなかったのだ。

「うーん、そうだな。友達のことやゲームのことや食べ物のことやいろいろなことを書いてくれるようになったよ。でも時々ママも登場するけどな。公私混同しちゃダメだけど、日記を読んでいると拓都の考え方や感じ方が少しわかって、これから拓都の父親として参考になるよ」

「父親!?」

 その言葉に私の心臓は飛び跳ねた。結婚という言葉だけでもドキドキするのに、一足飛びに父親と言われると、それこそ現実味が無い。家族になるということはそういうことで、間違ってはいないのだけど。

「そうだろ? 美緒が拓都の母親なら、俺は父親だろ? でも、まだ拓都に認めてもらった訳じゃないから、父親候補ってところだけどな」

 拓都に認めてもらう。その言葉で言わなければいけないことを思い出した。

「あ、あのね、話は違うんだけど、前に由香里さん……川北さんが、私達が会う時は拓都を預かってくれるっていう話しがあったでしょう?」

「ああ、でも……いいのかな?」

 慧の声が少し低くなった。

「うん、やっぱり拓都に後ろめたいまま会うのは違うかなって思って、川北さんに断ったの。彼女も分かってくれて、拓都に認めてもらってからの方が悩まなくてもいいねって言ってくれたの。ごめんね、勝手に断って」

 姉のことは言えなかった。

 あの時のことは美鈴が彼に話しているかどうかは分からないけど、口にするのが怖かった。

 言葉にすると又不幸を呼び寄せる気がして、怖くなる。

 それに、拓都に対して後ろめたさを感じていたのは事実だから。

「気にすること無いよ。俺も同じように思っていたから。美緒には会いたいけど、拓都にきちんと認めてほしいからな。前にも言ったけど、俺達が離れていた三年間を思ったら三ヶ月なんてすぐだよ。それに、三ヶ月経ったら、それからはずっと一緒だから」

 ずっと一緒。

 彼の言葉が優しく体を包み込んでいく。

 彼と出会った二十歳の頃から、もう七年。長いようで過ぎてみるとあっという間だった。だから、三ヶ月なんて、駆け足で過ぎてゆくだろう。

「そうだね。楽しみに待っている」

 電話の向こうの彼は、今どんな顔をしているのだろう? 見ることも触ることも出来ないけれど、心はとても近く感じる。

 ずっと一緒。なんて素敵な言葉。


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