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いつか見た虹の向こう側【改稿版】  作者: 宙埜ハルカ
第二章:婚約編
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【一】夢のような現実

 今朝のことは、現実だったのだろうか?

 クリスマスにサンタがくれた夢だったのだろうか?

 自分の頭の中にある記憶は、陶酔しきった脳では、夢か現か判断しかねている。けれど……。

 私は、人差し指でそっと唇に触れた。すると一気にリアルな感触と共に記憶が蘇った。


 今朝のこと。

 私達は、いろいろな話をした。積もる話は、とてもじゃないけれど時間が足りなくて、けれど、拓都を待たせている。そのことが気になって、心残りのまま私は、「そろそろ……」と腰を上げた。

 立ち上がって彼に背を向け、襖に手をかけようとした時、名を呼ばれた。

 振り返ると同時に手首をつかんで引っ張られ、よろけた私は次の瞬間彼の腕の中にいた。驚いて見上げると、彼の顔が近づいてきて、思わず目を閉じ、同時に唇に柔らかいものが触れる。

 それが何か分かった瞬間、唇で生まれた熱が頭の天辺にかけ上り、蒸気となってボンと突きぬけたような気がした。そして一気に顔全体が熱くなる。

 四年ぶりの口づけは、心拍数を跳ね上げ、呼吸困難に陥らせた。

「美緒、顔、真っ赤になっている。そんな顔、拓都に見せられないな」

 クスッと笑う彼を、恨めしげに睨むと、余裕有り気の彼の目元も赤くなっていた。

 慧だってという言葉を飲み込むと「知らない」と言い捨てて、彼の腕の中から抜け出すと、部屋を飛び出し洗面所へ駆け込んだ。鏡の中の蕩けるようにのぼせ上がった赤い顔の自分を見て、小さく溜息を吐く。

 ホント、こんな顔、拓都に見せられない。今の私は母親の顔じゃない。

 そのことに酷く罪悪感を覚えながら、冷たい水で思い切り顔を洗う。もう一度、鏡の中の自分を覗いた時初めて、自分がスッピンだったことに気づいたのだった。


 母親の顔と女の顔。世のお母さん方は、どんなふうに使い分けていらっしゃるのか。

 慧と別れてから、自分の想いに蓋をして、拓都の母親として過ごしてきた数年。気持ちが溢れて泣くことはあっても、けして拓都の前では見せはしなかった。

 再会してから、どんどん気持ちが膨れ上がって、母親としての自分よりも、女としての気持ちの方が凌駕してしまうことがあった。それでも拓都の前ではまだ何とか母親の顔を保っていられたのに。

 今日の私は、拓都といても、ふと気付くと今朝の慧とのことを頭の中でリピートさせている。拓都に何度も「ママ」と呼ばれて、やっと我に返るという情けない状態なのだ。

 それに引き換え、慧は家族になりたいと言った後、真剣な眼差しで私に言った。

「美緒、拓都にはまだ何も話さないで欲しいんだ。拓都はまだ一年生だから、公私の区別を付けるなんてできないし、拓都には俺のことを意識しないで普通に一年生を過ごしてほしいんだ。だから、俺が担任を外れるまで、一年生が終わるまで拓都には黙っていてほしい」

 彼はいろんなこと、きちんと考えているのだと、改めて思った言葉だった。だから、私も一年生が終わるまでは、せめて拓都の前では母親の顔を保たなくてはいけない。にもかかわらず、この体たらくぶり。

「そういうことだから、三学期が終わるまで、プライベートで美緒や拓都と会うことはできないと思う。せっかく美緒にOKしてもらったのに残念だけど。でも会えなかった三年間のことを思ったら、お互いの気持ちが分かっていて会えない三ヶ月なんて、あっという間だよな。できるだけメールも電話もするから、美緒もメールや電話をしてほしい」

 拓都にまだ何も話さないということは、担任と保護者としてでしか会えないということだ。

 それでも慧の言うように、別れた後の三年間を思えば、彼の気持ちも分かった今、三ヶ月なんてたいしたことは無いはず。

 はぁー、ダメだね。今日だけは許してほしい。こんなに嬉しい日に、母親の顔で居続けられない私を。


 私は溜息をつくと、壁の時計を見上げた。今はまだ夜の八時半を過ぎたところ。昼間、公園でキャッチボールやアスレチックで体を動かしたせいか、拓都は八時頃に眠ってしまった。

 『今夜電話する』と慧は言ったけれど、まだこんな時間にはかかって来ない。おそらく拓都が寝たと思われる時間になってからだろう。

 そういえば、美鈴に電話しなければ。

 慧は美鈴に全てを聞いたと言っていた。

 『美緒の恋は応援しない』と言った彼女が、私と慧の間にあった大きな壁を壊してくれた。彼女がいなかったらきっと、私達はお互いにお互いの心が見えず、いつまでも担任と保護者のままだったのだろう。

 やはり真っ先に報告と感謝を伝えたい。それは、慧と再会したことを黙っていた罪滅ぼしの意味も有るのだろうと思う。けれどそんなことより、今は素直に彼女の友情に感謝したいと思った。

 美鈴に電話をしようと思った時、携帯がメールの着信を告げた。それは慧からの写メールだった。

 『この虹は、消えること無く二人を繋いでいるよ。これからもずっと』

 彼が待ち受けにしているという、あの日私が送った虹の写真が添付されていた。そのメールを読んだ途端、胸の奥から込上げる物があり、一気に涙腺が緩んだ。

 なによ、まだ私を泣かせるつもり!

 心の中で慧に悪態をつきながら、それが私の送ったメールへの返事なのだと気付いた。

 慧は何度私を嬉しがらせるのだろう。

 お互いに形のあるクリスマスプレゼントは交換し合わなかったけれど、それ以上の物を、いいえ、何にも比べることなどできないものを、彼は惜しみなく私に与えてくれた。

 私は彼に同じだけの物を返せているのだろうか?

 『午後十時に電話するから、それまでに拓都を寝かせておいて』

 彼のメールには続きがあった。私はすぐに『拓都はもう寝たよ』と返信した。するとまた携帯が鳴った。今度は電話だった。

「美緒、今電話していてもいい?」

「うん。メール、ありがとう」

「ああ、昨夜、メールの返事、すぐに返さなくてごめんな。どうしても直接言いたかったから」

「うん。わかっている」

 再会してから彼と電話で話したのは数回のことで、それもやはり担任と保護者の壁が常にあった。でも今は、二人の間にあった壁のことなどすっかり頭の中から消え去っている。

「美緒、今日は何していたんだ?」

「拓都とおにぎり持って芝生公園へ行って、キャッチボールやアスレチックして来たの」

「いいなぁ。俺も拓都とキャッチボールしたいよ。拓都をいろんな所へ連れて行ってやりたいんだ。山登りやキャンプやスキーとか」

「フフフ、慧は根っからアウトドアなんだね。きっと拓都も喜ぶと思う」

 私は想像する。

 キャッチボールをする二人、三人で行くハイキングやキャンプやスキー。

「なぁ、拓都は俺を受け入れてくれるかな?」

「大丈夫。拓都は守谷先生が大好きだもの」

「でも、先生としては好きでも、父親として、家族として、受け入れてくれるかなってことだよ」

 私はいつも彼の言葉で現実を思い知らされる。

 彼の申し出が嬉しくて、ただ夢中で頷いた私と違い、彼は拓都のことも担任と保護者と言う立場のことも、真剣に考えていてくれる。

 私は目の前のことしか考えられなくて、情けない。

「拓都は本当の父親の記憶が殆ど無いの。だから、拓都にとって身近な大人の男の人って、慧なのよ。入学した頃は、毎日うるさい位、守谷先生の話を聞かされたわ。それに今だって、私には見せない日記の作文を、慧だけには見せているでしょう? それは先生だからというより、女の私からでは与えきれなかった物を、慧に求めているような気がするの。拓都の心の中では、ある意味、慧は父親に近い存在なんだと思う」

 私は四月から今までの拓都を思い返して、自分がずっと感じていたことを話した。

「美緒は拓都がする俺の話を、うるさいって思っていたんだ」

 突っ込むとこそこ?

「それは、そのくらい沢山話していたっていうこと」

「ははは、わかっているよ。でも、拓都がそんな風に俺のことを感じてくれているのなら、嬉しいけどな。実は今、実家にいるんだ」

「えっ? あれから実家へ帰ったの?」

 慧の実家は、高速を使えばここから車で三時間くらいの距離だ。

「ああ、美緒のこと、ずっと心配かけていた兄さんや義姉さんに伝えたかったし、両親にも話したんだよ。美緒と結婚したいって」

 ええっ!

 今朝の話をもう話したの?

 あまりの展開の早さに、唖然とする。

 でも、独身とは言え、拓都がいる今の私は、受け入れてもらえるのだろうか?

「もう、ご両親にまで話したの? それで、反対されなかった?」

 慧のご両親とは一度だけ会わせてもらったことがあった。とても気さくな人達だった。

「息子の決めたことに反対するような人達じゃないよ。ただ、釘は刺されたけどな。拓都のこと、自分の子供として、自分の本当の子供と分け隔てなく育てていく覚悟はあるのかって、そうじゃないと賛成しかねるとまで言われたよ」

 私は慧の言葉を聞いて胸が詰まった。子供のいる様な女性なんかと反対されても仕方ないところなのに、息子の決意を真正面から受け止め、あえて苦言を呈してくれる。

「そ、それで、慧は何と答えたの?」

「そんなのとっくに覚悟できているに決まっているだろ。だから、親父達も喜んでくれて、今度は拓都のことを思ったら、早く結婚した方が良いって」

 私が鼻水をすすったのが聞こえたのか、慧の言葉が止まった。

 もう、今日は何度泣かせれば気が済むのか。こんなに幸せでいいのだろうか?

 あまりに不幸な運命にもてあそばれ過ぎたせいか、すんなり幸せを受け入れるのが怖くなる。

「美緒?」

 彼の心配気な声が、耳元で響く。私は傍にあったティッシュで涙と鼻を拭くと、「ごめんね」と小さく謝った。

「ごめん。なんだか今日は泣いてばかりで。もう、慧のせいなんだからね」

 私は急に恥ずかしくなって、最後は八つ当たりのように言った。

「馬鹿だな。あんまり泣くと、目が溶けるぞ。それに拓都も心配するだろ」

「拓都の前では泣かないようにしているから」

「あんがい拓都は目ざといから、美緒の目が赤かったりすると気付くぞ。大好きなママだしな」

 そうかも知れない。今まで二人きりで生きてきたのだから、拓都は私の様子をよく見ている。仕事に疲れて元気が出ない時なんかも、「ママ、大丈夫?」と訊いてくる。それは年に一回ぐらい疲れがたまって風邪をひいてしまい、寝込むことがあるからだ。そんな時拓都は、自分寝込んだ時にしてもらっていることをしてくれる。冷蔵庫からアイス枕を出してきて、熱さましのシートを額にピタッと張ってくれる。

「そうだね。もう寝たから、大丈夫だよ。でも、もうあんまり泣かせないで、今日はいろいろあり過ぎて、信じられなくて、気持ちがついていけない感じなの」

 そう、昨日までとあまりに違う今日の自分に境遇に、どこか現実感がなくて、不安の方が大きい。

「俺も同じだよ。こんなこと、夢みたいなんだ。だから余計に現実にしようと思って焦っているのかもな。美緒に相談もせずに先走ったこと、悪かったって思っている。でも、誰かに言わずにいられなかったんだ。美緒、本当に良いんだよな?」

 もう、何度確かめれば気が済むのと聞きたくなるほど、今朝だって、あの後何度も訊いた慧。あの時も、夢みたいだと何度もつぶやきながら、まるで私が幻のように消えてしまうのを怯えるかのごとく、強く抱きしめた慧。そんなあなたを見て、私はとても酷いことをしたのだと思い知らされる。

「慧、慧こそ、いいの? 私なんかで。あなたに酷いことをして、苦しめてきたのに」

「美緒、そのことはもう言わない約束だろ。とにかく、ウチの家族はみんな賛成して応援してくれているから、美緒は何も心配しなくていいよ」

 頬をまた新たな涙が流れ、もう何も言えなくなってしまった。電話越しなのに、ウンウンと何度も頷き、鼻声で小さく「ありがとう」と言うと、慧の嬉しそうな笑い声が聞こえた。




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