【四十四】クリスマスの朝
十二月二十五日土曜日午前六時。電波時計は正確に時間を刻み、いつもの起床時間にアラームを鳴らす。
クリスマスの朝は、いつもの朝と同じように始まった。カーテンの隙間から見える外はまだ暗くて、冷たい朝の空気に、布団から出るのをためらわせる。アラームを止めるために布団から出した手が、枕元の携帯を掴んで目の前にかざした。
やっぱり何も来ていない。
私は小さく息を吐くと、携帯を放り出して、又布団の中に手をひっこめた。
今日は土曜日だから、もう少し寝ていよう。
そう自分に言い訳をすると、温かい布団の中で目を閉じた。昨夜はなかなか眠れなくて、結局三時ごろまで寝付けなかった。このままでは睡眠不足になってしまうと思うのに、一度目覚めた頭には、一向に眠気がやって来てくれなかった。
私、もしかして、バカなことしちゃったのかな。でも、これ以上誤解されたくなかった。
午前六時半。
結局二度寝はできず、仕方なく起きることにした。外はそろそろ明るくなり始めている。
のろのろと起き出し、厚手の毛糸のカーディガンをパジャマの上から羽織ると、リビングのファンヒーターのスイッチを押した。長年使ってきたファンヒーターがこの冬出してきたら動かなかったので、思い切ってボーナスで新しいファンヒーターを買った。今までのファンヒーターはスイッチを押してから点火するまで五分ほどかかっていたのに、新しいものは数秒で点火する。
いつもならスイッチを押して、そのまま台所へ行きお湯を沸かすのに、今日はそんな気分にもなれず、ファンヒーターの前で膝を抱えて座り込んだ。数秒で温風が吹き出したファンヒーターが、まるで慰めるように私を優しく温めている。なのに、無意識に自室から持ってきた携帯は、まるで死んだように手の中で冷たくなっていた。
これが彼の答えなのかな?
午前七時を過ぎた頃、毎年のクリスマスの朝のように、ドタドタと嬉しさを表す足音がリビングに近づいてきた。「ママ」と呼びながらリビングに飛び込んできたのは、嬉しそうな顔でプレゼントを抱えた拓都だった。
「おはよう、拓都」
私はニッコリと笑って挨拶をした。
「ママ、おはよう。あのね、サンタさん来てくれたよ。これ見て、見て」
拓都の手の中には、無造作に破って開かれた包装紙の上に乗せられているグローブとボール。
私はチラリと拓都の表情を窺う。
サンタさんにリクエストしたプレゼントと違っているけれど、拓都はガッカリしていないのだろうか?
「わぁ、拓都、良かったね」
私は心の中で白々しいと自分に突っ込みながら、私の言葉に嬉しそうに笑った拓都の表情に安堵していた。
拓都が自分の手にグローブを嵌めているのを一瞥すると、私はリビングの収納から同じような包みを出して、拓都の所へ持って来た。
「拓都、ほら、ママもサンタさんに貰ったんだよ」
すでに開けられていた包みを開いて、中のグローブを見せる。拓都は大きく目を見開いて、グローブと私を交互に見ると破顔した。
「ママもいい子にしていたから、サンタさん来てくれたの?」
ますます嬉しそうに私を見上げる。
拓都はこれで良かったの?
自分が望んだプレゼントじゃないのに。
それでも、拓都の笑顔は何の屈託もなくて、私はこれで良かったのだと、自分自身を納得させた。
「今回は特別だって。拓都とキャッチボールができるようにって、ママにもグローブをプレゼントしてくれたんだよ。ママ、一生懸命練習するから、一緒にキャッチボールしようね?」
私も同じように笑顔を向けながら言うと、拓都は元気よく「うん」と返事した。
それからいつもより遅い朝食を食べながら、後で公園へ行ってキャッチボールをしようねと約束した。そして、洗濯、掃除と家事に取り掛かっている時、玄関のチャイムが鳴った。
僕が出るねと玄関へ走って行った拓都がドアを開ける音がして、続いて「守谷先生」と言っている声が聞こえた。
えっ? 守谷先生って、まさか、どうして?
私は次第に早くなる鼓動を感じながら玄関に向かうと、そこには昨夜必死の思いでメールを送った相手が、穏やかに微笑んで立っていた。
それは一瞬、余りにもその人からのメールを待ち望んだ私の願望が見せた幻かと思った。
「おはようございます。朝早くからすみません。拓都に話があって」
彼が会釈しながら、自分が訪れた用件を言いかけた時、それを聞いていた拓都が「僕? 先生、僕に話があるの?」と目をキラキラさせて見上げた。
「おはようございます。拓都、先生に御挨拶をしたの?」
私は訳が分からないまま挨拶を返し、嬉しそうにしている拓都に何となくイライラしながら、注意をした。その言葉に促された拓都は「守谷先生、おはようございます」といつも学校でしている朝のあいさつのように、頭を下げている。
それにしても、拓都に話があるって? なんだろう?
それより、昨日送ったメールには気づいていないのだろうか?
気付いていたら、何かしらのリアクションがあってもいいと思うのだけど。
「ああ、サンタさんに頼まれたことがあるんだよ。ちょっと拓都と二人で話をさせてもらえませんか?」
彼は拓都を見下ろして答えると、私の方を見て尋ねた。
サンタさんに頼まれた?
存在していないサンタさんが彼に何か頼む訳は無い。それは拓都用の返事だとは分かっていたけれど、私は訳がわからず、顔をしかめた。
「サンタさん? 先生サンタさんとお友達なの? あのね、僕の家にも昨夜サンタさんが来てくれたんだよ」
拓都がニコニコと担任に話をしているのを遮断するように「とにかく上がってください」と私はスリッパを出した。
リビングに彼を通すと、私はコーヒーを入れるためにリビングと続いている台所へ行った。背後で拓都がサンタさんに貰ったグローブとボールを見せているらしい声が聞こえる。「ママもグローブを貰ったから、後で公園へ行ってキャッチボールするんだよ」と得意げに話している。
「それじゃあ、私は座敷の方に居ますので、拓都をよろしくお願いします。拓都、お話が終わったら、ママを呼びに来てね」
私は彼の前にコーヒーを出しながらそう言い、最後の方は拓都に向けて言った。
私は座敷へ入ると後ろ手に襖を閉め、その場に座り込んだ。
拓都になんの話があると言うのだろう?
サンタさんに頼まれたと言っていたけれど。もしかして、拓都がサンタさんにリクエストしたプレゼントのことだろうか?
でも、そのことをどうして彼が知っているの?
そのことを知っている由香里さんも千裕さんも、何も言っていなかった。
じゃあ、もしかしたら、拓都が宿題の日記で書いたのだろうか?
拓都は私には日記を見せてくれないのに、いろいろなことを書いているらしいから、あり得る話だ。それで、担任として、クリスマスの今日、話をしに来てくれたのかもしれない。
クリスマスプレゼントにパパが欲しいなんて、ちょっと問題有りだものね。
私は溜息を吐いた。
彼が訪ねて来たと分かった時は、昨日のメールのことで来てくれたのだろうかと、どこか期待してしまったけれど、玄関に立った彼は担任の顔をしていた。
私は立ち上がると、仏壇の前まで行き正座した。両親と姉夫婦の写真を見ながら、独り言のように話しかけた。
「お父さん、お母さん、お姉ちゃん、お義兄さん。私、どうしたらいいのかな? やっぱり彼に拓都は姉の子だと言うべきだよね? そして、別れの本当の理由と嘘を吐いたことを謝るべきだよね?」
何の返事も返って来ない笑顔の写真を見つめながら、又小さく息を吐く。
拓都と話をするためだけに来たのだろうか?
私には用事は無いのだろうか?
やっぱりまだメールに気付いていないのかな?
あれから三十分ほど経った頃、リビングのドアが開いて足音がこちらに近づいてくるのが聞こえた。話が終わったかと嘆息すると、私は立ち上がった。
「ママ、お話終わったよ」
座敷の襖を開けて、そう言いながら拓都が入って来た。拓都と目が合う。いつもならニッコリ笑う拓都が、なんだか恥ずかしそうな、少し辛そうな顔をした。
「そう、先生は?」
拓都の表情が気になりながらも、彼のことも気になった。
「うん、向うにいるよ。あのね、ママ」
拓都の真剣な表情に、私はしゃがんで拓都と目線を合わせた。
「先生はもう帰るって言っていた?」
「ううん、待っているからって。……あのね、ママ」
待っている?
彼のことも気になったが、目の前でモジモジしながら、何か言いたげな拓都が気になって「なあに?」と拓都に微笑んだ。
「ママ、ごめんなさい」
「えっ? 何がごめんなさいなの?」
「ママもサンタさんから聞いたんでしょ? 僕が出した手紙のこと」
手紙って、プレゼントのリクエストの手紙のことだろうか?
サンタさんから聞いたって。
「手紙って、拓都がサンタさんに出したプレゼントのお願いの手紙のこと?」
「うん。僕、サンタさんにパパをくださいって書いたんだ。それを見たサンタさんが困って、パパはプレゼントできないって話してほしいって、先生に頼んだんだって。ママもサンタさんから聞いているんでしょう? 先生がそう言っていたけど」
「先生の話って、そのことだったの?」
私は困惑した。どうなっているのだろうか? 想像通りプレゼントの話だったけれど、どうしてサンタさんに頼まれたなんて。
「うん。先生からどうしてパパはプレゼントできないかを教えてもらって、ママが悲しんでいるから謝ってきなさいって。ママ、ごめんなさい」
拓都はそう言うと、私の首に手をまわして抱きついてきた。私は思わず拓都を抱きしめる。
「拓都、大丈夫だから、ママ、悲しんでないからね。だから、拓都は何も悪くないんだよ。気にしなくていいから」
いったい彼は拓都に何を言ったのか?
泣きそうになっている拓都を抱きしめながら、私は彼を恨めしく思った。
「あのね、先生がね、パパはキャッチボールしてくれるだけじゃ無くて、特別な人なんだって」
「特別な人?」
私は腕から拓都を解放すると、もう一度拓都と目を合わせて訊いた。
「うん。パパはね、ママの大好きな人じゃないとダメなんだって。それでね、その人も僕とママのことが大好きで守ってくれる人なんだって。だから、サンタさんにはプレゼントできないんだって」
拓都はさっきまでの思いつめたような表情から、どこか得意気に担任から聞いたことを話す。
そんな話をしてくれたんだ。
ママの大好きな人、か。
「そっか。ごめんね、拓都」
私の謝罪の言葉にキョトンとした拓都を、もう一度抱きしめた。
ごめんね。
空から見守ってくれているであろう、拓都の本当の両親であるお姉ちゃんとお義兄さんのことを思うと、申し訳なくなる。
本当のパパとママなのに、我が子を抱きしめることさえできず、パパが欲しいなんて無邪気に言わせているなんて、本当に情けない。
私自身が拓都に対して、こういう話題を避けていたせいなのかも知れない。
「ママ、泣かないで。やっぱり悲しかったの?」
拓都にそう言われて、初めて涙がこぼれていたのに気づいた。
ああ、いけない。これ以上拓都に心配かけては。
「ううん、違うの。自分が情けなかっただけ。拓都にごめんねなんて言わせて。ママの方が、ごめんね。さあ、行こうか。先生を待たせちゃいけないから」
私は涙をぬぐうとニッコリと笑って、拓都の背を押した。
さあ、気分を入れ替えて、彼の前では笑わなくちゃ。
リビングのドアを開けると、ソファーに座って窓の方を向いていた彼が、こちらを向いて一瞬心配そうな顔をしたが、すぐに穏やかに微笑んだ。
「せんせー、ママに謝ったよ」
拓都は嬉しそうにそう言いながら、担任である彼の元へ駆け寄っていった。
「そうか、拓都、頑張ったな」
彼の方もニコニコと拓都の頭を撫でている。
心の中では、拓都に謝らせなくてもとか、拓都は何も分からない子供なのだからとか、いろいろな思いが込み上げてくるのに、彼の拓都を見る優しい笑顔に、私は何も言えなかった。




