【三十五】重荷を降ろせる場所
日曜日に行われた文化祭の翌日の月曜日は、振替休日だった。学童もお休みだったので、どうしようかと思っていたら、パートの仕事は休みを貰っているからと、由香里さんが拓都を預かってくれることになった。
仕事を終えて拓都を迎えに行くと、「カレーライスをたくさん作ったから、食べて行かない?」と由香里さんが夕食に誘ってくれた。「旦那は帰りが遅いから、気を使わなくていいわよ」と言葉を添えて。
お言葉に甘えて夕食をご馳走になる。由香里さんがこんな風に誘ってくれるのは、きっと何か気付いたからに違いない。
彼女はいつもそうだった。私の様子がおかしいと、さりげなく食事やお茶に誘ってくれて、私が抱え込んでいる重荷を降ろさせてくれる。
やっぱり今回も何か気付かれてしまったのだろうか? 今朝、拓都を送って来た時、いつものようにふるまったつもりなのに。
由香里さんと出会ってから、最初は子育ての話ばかりをしていた。案外早く、拓都が姉の子供であることは話したけれど、彼のことだけはなかなか話せなかった。言葉にしたら、封印している想いが溢れ出してきそうで、怖かったから。
でも、ある時、あまりに私の様子がいつもと違ったのか、今日の様に由香里さんは私を夕食に誘ってくれた。
私は周期的に、彼のことを思い出して、それが止まらなくなって、どっと落ち込むことがあった。
彼を裏切ったという事実が、私の心を傷つけ追い込む。
学生の彼を巻き込まなくて良かったと、私の不幸な人生に彼を引きこまなくて良かったと、ずっと自分に言い聞かせていたけれど、彼を想う心が、あの時彼に真実を告げれば、今でも一緒にいられたはずだと、反対に私を責めてくる。
これで良かったんだという肯定の気持ちと、それを後悔する気持ちがスパイラルの様に、私の心をどん底へと降下させる。
そうなると自分でもなかなか浮上できなくて、周りのみんなには何とか笑顔を貼り付けて対応していたけれど、由香里さんの前ではフッと素の自分が出てしまったのだろう。
由香里さんは私に言ってくれた。『一人で重荷を背負ってないで、私のところに少し降ろして行きなさい。受け止めてあげるから』と。
私は由香里さんの優しさに、今まで封印していた想いを全て解放して、話し出した。一度話し出した想いは、堰を切ったように溢れだし、私は彼女に全てを話していた。彼女は時々相槌を打ちながら、何も言わずに聞いてくれた。そして私が話し終えると『辛かったね』と一言ポツリを言ってくれた。
それから由香里さんは、ずっと私の心の受け皿になってくれている。
「美緒、又何か抱え込んでいるでしょ? また落ち込んだ時の顔をしているよ」
由香里さんは夕食後、子供達がテレビを見る為に離れて行ってから、私を真っ直ぐに見てそう言った。
落ち込んだ時の顔ってと思ったけれど、私の心を見抜く彼女に勝てないことは分かっている。
他のことならこんなにも落ち込みはしないし、落ち込んだとしても復活する力はあるつもりだ。でも、彼のことになると、とたんに弱くなってしまう私がいる。由香里さんに聞いてもらうことで、何とか平静を保っているのだと思う。
「そんなこと無いよ」
私がそう答えながらも、昨日のことを話そうか、どうしようかと逡巡していた時、鞄の中の携帯がメールの着信を告げた。条件反射の様に鞄から携帯を取り出して開くと、送信者の名前を見て指が止まった。
「どうしたの? もしかして、守谷先生から?」
由香里さんはするどい。しかたなく頷くと、彼女はにやりと笑って「また、写メール?」と訊いて来た。私は小さく息を吐くと、メールを開いた。
それは、見覚えのある滝の写真だった。
私がしばらくそのメールに見入っていると、痺れを切らしたようにまた由香里さんが口を開いた。
「どうしたの? 写メールじゃ無かったの?」
「ううん。写メールだった」
そう答えると、私は携帯を閉じた。
「ふうん。なかなかいい感じじゃない?」
由香里さんは私を見て、ニヤニヤと笑った。
何がいい感じなのよ!
心の中で悪態を付きながら、由香里さんを睨むと、からかったせいで睨んでいると思ったのか、「美緒、素直に喜ばなくちゃ。もしかすると、守谷先生も」と言いかけたところで、私は首を左右に振って「違う。何もいい感じなんかじゃない!」と、由香里さんの言葉をさえぎった。
「どうしたの? やっぱりなんか変だよ? 守谷先生と何かあったの? 写メールのやり取りするようになったんでしょう?」
「彼の送ってくる写メールなんて、何の意味もないの!」
私は思わずそう言い返していた。その言葉を聞いた由香里さんは一瞬驚いた顔をした後、怪訝な顔で私を見た。
「ねぇ、美緒。美緒はいったい、どうしたいわけ?」
「どうしたいって……」
私はその質問の意味を計りかねて、由香里さんの問いかけに戸惑ってしまった。
「そうでしょう? 守谷先生のことが好きなくせに、彼女がいるから自分の想いは伝えられないって言っていたのに、急に誕生日のお祝いメールを送るから、美緒もやっとその気になって一歩進んだのかと思ったのよ。だけど、何? 送って来た写メールが、愛先生も一緒に行った山の写真だったから気に入らないの? それとも、やっぱり彼女がいるかもしれない人に写メールなんて送ってしまったことを後悔しているの?」
由香里さんの言葉に驚いたけれど、その通りだと思った。
後悔、なのかな、やっぱり。
今更ながら、彼の優しさや誕生日のお祝いの言葉、以前の様に「美緒」と呼ぶ彼の甘い声に、昔に戻ったような気になって浮かれ、何かを期待して、何かを勘違いして、彼に写メールを送ってしまった自分が恨めしい。
彼は今の彼女と幸せだからこそ、元カノの私の心配までして幸せを願ってくれているというのに、イタイ勘違い野郎の私は、二人に横恋慕のように写メールまで送って。
「そうだね。後悔している。愛先生と幸せな彼に、裏切った私が写メールを送るなんて。なんて恥知らずで図々しい奴なんだろうって思うよ。彼があまりに優しいから、ちょっと勘違いしてしまった。昔に戻ったような気になっていたんだと思う。それに、愛先生がいること、見ないフリしていた。私、横恋慕しているようなもんだものね」
私は由香里さんの手前、苦笑いしながら言った。そんな私を、由香里さんは驚いた様な顔をして見ている。
「ちょっと、美緒。どういうこと? 横恋慕なんて。それに、まだ守谷先生と愛先生が付き合っていると決まった訳じゃないし」
「ううん。二人は付き合っているよ。キャンプの時もとてもいい雰囲気だったし、愛先生も彼のことを見つめる目が違っていた。それに、千裕さんが言っていたけど、彼は愛先生とのことを否定しなかったって」
「そんなの、愛先生が一方的に思っているだけかもしれないじゃない。それとも、前は付き合っていても、今は別れたかもしれないじゃない?」
「彼が裏切った私にこんなに優しいのは、自分が幸せだからよ。あんなに酷いことしたのに、私のことを心配してくれるのも、自分が幸せで心に余裕があるからでしょう? 由香里さんだって言っていたじゃない? 今は自分が幸せだから、DVの元ご主人でも幸せになってほしいって思うって……」
由香里さんは自分の言ったことを思い出したのか、少しバツの悪い表情をした。それでもすぐに、私を心配気な目で見つめてまた口を開いた。
「ねぇ、美緒。どうしたの? 美緒が言っていることは分かっていたことばかりでしょう? 昨日、文化祭であの写真を見たから? 彼が送ってくれた写メールが、愛先生も一緒に行った場所の写真だったから? でも、他の人も一緒だったんでしょう? それなのに、今更なぜ? それとも他に何かあったの?」
やっぱり由香里さんは勘がいい。昨日愛先生と話した内容はたわいもないことなのに、なぜか引っかかっている自分を持て余していたのだ。
「あのね、昨日ね、バザーの後片付けが済んで帰ろうとしていた時に愛先生に声をかけられたの……」
昨日の愛先生との会話とあの時感じた嫌な想像について由香里さんに話す。由香里さんは最後まで聞き終わると、私を見て少し呆れたように笑った。
「考えすぎじゃない?」
由香里さんの笑いにムッとなったけれど、由香里さんに話したことで、気分は少しずつ浮上しているような気がする。
「そうだといいけど」
似ているという話は分かるけれど、名前の話はわざと付け足したような、それを確認したかったのかと思わせるような気がしたのだ。それに、そんな間違って呼ぶシチュエーションってプライベートで二人の時なんじゃないかと、そこまで飛躍して想像してしまったのだ。
「まあ、守谷先生が美緒に似ている愛先生に間違えて『みお』と呼ぶのはありかもしれないね。再会したから余計にね」
そう言って由香里さんは又クスクスと笑い出した。
笑いことじゃないんだけどな。でも、こんな風に笑ってやり過ごしてしまえれば、楽なのかもしれないね。
「それよりも私は、女性として守谷先生を許せないよ。もしも本当に愛先生と付き合っているなら、元カノに昔の様に馴れ馴れしく呼びかけたり、写メールを何度も送ってきたりして勘違いさせることこそ、腹が立つの!」
由香里さんは言っている内にだんだんと怒りのボルテージが上がって来たのか、怒気を込めて言った。
それは違う、と思ったけれど、今の由香里さんに何を言っても、聞き入れはしないだろう。
彼が勘違いさせたのでは無くて、私が勝手に勘違いしているだけ。
全ては彼が優しいから。私と二人きりになると、昔の雰囲気に戻ってしまうのだと思う。でもそれは、懐かしさゆえのこと。何年かぶりかに会った友達とだって、最初はよそよそしくても、話している内に昔に戻った様に話していることってあるもの。
それにしても、私の為にこんなに怒ってくれる友達に、改めて感謝の気持ちが込み上げた。いつも私のことを心配して、真剣に考えてくれる年上の親友。彼女と出会えたことは、私にとって人生の宝物かもしれない。
「由香里さん、ありがとう。私の為にそんなに怒ってくれるのは嬉しいけど、血圧上げないでね。大丈夫だから、私は本当に大丈夫だから。私には拓都もいるし」
私は、まだ怒り冷めやらぬ由香里さんに、苦笑いしながら感謝の言葉を言った。そんな私に拍子抜けしたのか、彼女の怒りのボルテージは一気に下がり、今度は情けない顔をして「美緒、ごめん。一人興奮して」と反対に謝って来たので、「私の方こそ、ごめんね」と謝ると、お互いに顔を見合わせて、笑いだした。
「ああ、そういえば。あのね、ウチの陸がね、拓都君にパパ自慢をしていたの。今日、二人の会話を聞いていたら、陸ったら得意になってパパ自慢をしているのよ。あの調子だといつもしているかも知れない。それでね、拓都君が『ウチにもパパが来ないかな』なんて言っているから、びっくりしちゃって。ごめん、美緒。陸には後で言い聞かせるから。本当にごめんね」
「ううん、大丈夫だよ。この前皆で森林公園へ行った時にキャッチボールが楽しかったのか、同じようなことを言っていたのよ。キャッチボールをしてくれるパパが欲しかったみたい。だから私がキャッチボールをしてあげるって言ったら、満足していたのよ。でも、今度は何をしてくれるパパが羨ましかったのかな?」
「あのね、ゲームなの。あの人結構、ゲームが得意みたいでね。子供達がなかなかできないところでも、楽々クリアするから、もう子供達、尊敬のまなざしよ。今日、拓都君とゲームをしながら、一生懸命にパパはゲームがすごく上手いんだって、自分のことの様に自慢していたのよ。でも、拓都君がパパを欲しいみたいに言うから、責任感じちゃって。ごめんね、本当に」
うなだれる由香里さんに私は、「気にしないで、私もゲームの練習をするから」と笑った。
ゲームと言って思い出すのは、初めてテレビゲームなる物をした時のこと。
アウトドア好きの彼の部屋に、テレビゲームが置いてあるのを見て、『やっぱり男の子なんだな』って思った。でも、別の理由が合ったようで、『学童の子供達と仲良くなるのに必須アイテムなんだよ、ゲームは』と教えてくれた。
今時の子供達と親しくなろうと思ったら、流行りのゲームぐらい知らないと子供達と会話が成り立たないらしい。
やってみると結構面白いよと彼は笑いながら『やってみる?』と訊くので、少し興味のあった私は頷き、早速にゲームをすることになった。
それは、キャラクター達がゴーカートに乗って競争するゲームだったけれど、ハッキリ言って見るのとやるのは大違いだった。
『美緒って意外と不器用なんだな』
彼のこの言葉が私の負けん気に火を付けた。それから彼の部屋を訪れる度、私は練習した。そんな私に彼は呆れていたけれど、ついに彼を負かした時には『美緒には参ったよ』と言わせ、私はやっと満足したのだった。
あの時の様に、今度は拓都の為にゲームの特訓でもするかな。
私はそんなことを思いながら、懐かしいテレビゲームの記憶に、フフッと笑いが漏れた。
「なあに? 思い出し笑いなんかして。ねっ、それより、美緒は本当に結婚を考えてないの?」
「拓都も私も受け入れてくれて、キャッチボールとテレビゲームのできる人だったら、考えようかな?」
私が笑ってそう答えると、由香里さんはふざけていると思ったのか「もう、真面目に聞いているんだからね」と拗ねたように言った。
私自身の結婚というより、拓都の父親となってくれる人がいるのならって、この間から少し考えてしまう。そんな私の頭の中では、彼と拓都と私が仲良くテレビゲームをしている姿を想像していた。




