【三十三】お誕生日メール
彼に最後に誕生日を祝ってもらったのって、いつだっただろう?
四年前?
確か、二十三歳の誕生日だった。
彼の優しい眼差しに、一瞬のうちに記憶が頭の中を駆け巡った。
「守谷先生、ダメですよ。そんな女性を惑わす様な笑顔で言ったら。ほら、ウブな美緒ちゃんが固まっているじゃないですか」
記憶の彼方にトリップしていた私の意識を呼び戻したのは、西森さんのそんな言葉だった。
「あ、すみません。ありがとうございます」
私は我に返ると、すぐさまお礼を言ったが、笑顔を貼り付ける余裕はまだなかった。するといきなり隣から、ハハハハと耐えきれないと言わんばかりの笑い声が聞こえ、ギョッとなってそちらを見た。
「ごめん、ごめん。千裕ちゃんったら、女性を惑わす様な笑顔なんて言うんだもの。それに、ウブな美緒って……」
由香里さんは、言いながらも笑いが止まらない様で、それを聞いた西森さんまでが笑っている。
「もう、西森さん、からかわないでください」
笑っている彼女達のツッコミを、同じように笑ってかわす担任。
それにしても、由香里さんは知っている癖に、わざと担任を巻き込んで、私の反応を面白がっているとしか言えない。西森さんにしてもそうだ。二人して、私をからかって、楽しんでいるんだから。
なんとなく悔しい気持ちになって、こんなことなら由香里さんに何もかも話すのでは無かったとか、そんなことまでグルグルと考えている私を追い詰める様な、三人の笑い声。
「美緒、誕生日なんだから、笑わなきゃダメだよ」
由香里さんの能天気な言葉に、誰のせいよと心の中で悪態を吐く。
「そうだよ。誕生日に眉間にしわを寄せていたら、せっかくの可愛い顔が台無しだよ。ねぇ、先生」
西森さんまでもが楽しげに忠告するその言葉に、キレそうになった。
どうして、そこで担任に振るのだ!
「皆さん、お喋りもいいですが、手も動かしてくださいね。子供達もいますので」
担任はもう冷静に戻ったのか、そう忠告すると別のグループの方へ移動して行った。
私は去りゆく彼の後姿を見ながら、せっかくおめでとうって言ってくれたのに、彼女達のせいで、嬉しさも半減してしまったと、心の中の行き場のない怒りを持て余していた。
「それにしても美緒ちゃん、いいなぁ。私も守谷先生におめでとうって言って欲しかったなぁ」
西森さんの言葉に、由香里さんはクスクス笑っているけど、私は溜息しか出なかった。
千裕さん、あなたのその能天気が羨ましいよ。
キャラクターの折り紙の本を覗き込んで夢中になっていた子供達に、そろそろ仕上げをしようかと声をかけ、それぞれが母親の傍に戻って来た。
「拓都、拓都が折った折り紙、画用紙にどんなふうに貼りたい? ママね、このお花の折り紙を周りに貼ろうと思うんだけど」
私はそう言いながら、自分の折った花の折り紙を画用紙の上に並べた。
そういえばと、並べた花の折り紙を見ながら思い出したのは、初めて彼と話をした時のこと。桜の花の折り方を教えてほしいと、彼が声をかけてきて驚いたっけ。私の目の前で背中を丸めて折り紙を折る彼の長い指から生まれる綺麗な桜の花。
「あのねママ、このモンスター達がお花畑で遊んでいるみたいに貼りたい」
自分の折った花の折り紙を見ながら、また思い出にトリップしていた私は、拓都の声に我に返り自己嫌悪に陥った。
親子ふれあい学習会なのに、彼のことで頭の中を一杯にしているって、母親失格だ。
拓都が夢中になって折っていたのは、人気アニメに出てくるいろいろなモンスターだった。そのモンスター達を、画用紙の上の私が並べた花の折り紙の中に置いた。
なんだかとてもカラフルで賑やかな画用紙になった。それを見て、私は思わず笑みが漏れた。まだきちんと折れなくて、どこか歪んだ折り紙だけど、拓都らしくて微笑ましい。
私はいつの間にか自己嫌悪から立ち直り、拓都とのやり取りに癒されていた。
「それでは、そろそろ時間になりますので、片づけをしてください。まだ作品が出来上がっていない方は、お家で続きをして、お子さんに持たせてください」
担任がそう言いながら、一年三組の親子の間を歩いて行く。子供達が先生に出来上がった作品を見せる度に、目じりを下げて笑って声をかけている。そして子供達の頭をクシャッと撫でるのだ。
「美緒、見過ぎ」
担任と子供達のやり取りをぼんやりと見ていた私の肩をポンと叩いて、由香里さんが苦笑して言った。
私は我に返ると慌てて由香里さんの方を見ると、彼女はもう一度苦笑すると小さな声で「美緒、そんなに見つめていると、千裕ちゃんにバレるよ」と囁く。私はギョッとして「うそ! そんなに見ていた?」と訊き返すと、彼女は「まあ、他のお母さん達も結構視線飛ばしているけどね」とクスクス笑った。
ああ、さっき反省したばかりなのに、彼がいる空間にいると思うと視線も気持ちも持って行かれてしまう。それはきっと、さっき彼が誕生日のお祝いを言ってくれたせいだ。思いもよらない彼からの言葉に、自分が思う以上に私の心は嬉しくて舞い上がっているんだ。これじゃあ、本当に母親失格だ。
私が大きく溜息を吐くと、由香里さんはどうしたのという表情で私を見た。
「だめだよね。親子ふれあい学習会なのに、邪心いっぱいで、母親失格だよ。今までは学校でならきちんと保護者の仮面をかぶれていたのになぁ。さっきのおめでとうは反則だよ。由香里さんのせいだからね」
私は独り言のように自己嫌悪の心情を吐露しながら、最後に由香里さんを睨んだ。
「でも、嬉しかったでしょ?」
由香里さんは私の顔を見て、ケロッとそんな突っ込みをする。ニヤリと笑った顔で。
もう、反論したいけれど、私の気持ちを全て知っている由香里さんには何も言えない。
たしかに、私の心は嬉しくて喜んでいるのだから。
「それにね、美緒はしっかりお母さんしているよ。私なんて自分で産んだ子供なのに、美緒に申し訳ないぐらい、手を抜いているよ。美緒、なにも二四時間完璧な母親でいる必要は無いんだよ。自分の気持ちを抑え込んで、全てを子供に注ぎ込まなくてもいいの。美緒は十分良いお母さんだよ」
さっきとは違って、真面目な顔で私を諭してくれる由香里さん。私は彼女と出会ってから、ずっとこんな風に励まされ、心を軽くしてもらって来た。だから、子供を産んだこともない独身の私でも、拓都の母親として頑張って来られたのだと思う。
「何話しているの?」
私達の作品も一緒にまとめて提出しに行ってくれていた西森さんが戻って来て、やけに真面目な顔で話していた私達が気になったのか、そんなことを訊いて来た。
「ウブな美緒がね、女性として母親としてどうあるべきか、悩んでいるって訳」
由香里さんは、少しふざけて言ったけれど、的を射ていた。それを訊いた西森さんは少し考え込んで、それから私を見てふんわりと笑った。
「美緒ちゃんは何に対しても真面目に考え過ぎるのよ。子供を思う気持ちがあれば少々手を抜いても大丈夫だし、女性としても美緒ちゃんのことだから、子供がいるから恋愛できないとか思っているでしょ?」
この二人の母親は、どうして同じことを言うのかな。
西森さんの問いかけに唖然としていると、由香里さんが隣で「そうそう」と相槌を打つ。
「私は、拓都の母親であることが、一番大事なの」
私はまた二人にからかわれている様な気になって、むきになって言い返した。
「ほら、そんなところが真面目過ぎるのよ。美緒ちゃんは母親という立場にこだわり過ぎているのよ。拓都君のことを一番大事に思っている、その気持ちだけで充分なのよ。それにね、母親が幸せじゃないと子供は幸せになれないの。全てを子供に注がれたら、その内子供の方が重荷になっちゃうよ」
西森さんは、優しく言ってくれたけれど、私の心はどこかまだ素直に聞けなくて、そんなこと分かっているって、心の中で言い返している。
私が何も言えずに俯いていると、二人は溜息を吐いて、「私としては、美緒ちゃんに女性としても幸せになってほしいだけなんだけどな」と西森さんが言うと、「美緒はウブなくせに頑固だからね」と由香里さんが苦笑していた。
その時、子供達がクラスメイトの折り紙を見回って戻ってきたので、話はここで中断してしまった。
何よ、二人して。由香里さんも私の気持ち分かっている癖に、そんなに責めなくても。
結局、自分の子供を産んだ二人の母親としての余裕には敵わないのだと、余計に惨めになっただけだった。そして、母親としても、女性としても、中途半端な今の自分が、一番嫌だった。
*****
学校からの帰りに拓都とケーキ屋さんへ寄って、予約しておいたケーキを受け取りに行く。誕生日のケーキなので、年の数だけローソクを付けてもらうのだけど、最近は少しだけ太めの十年分のローソクがあって、そのローソク二本と普通サイズのローソク七本を付けてもらった。
二人だけなので直径十二センチメートルの四号サイズのイチゴのホールケーキ。このケーキにローソクを立てて、食べる前にケーキと一緒に記念写真を撮ろう。
そんなことを思いながら準備をしていると、思い出したことがある。
今日は私の誕生日で、明日は彼の誕生日なのだ。
おめでとうと彼は言ってくれた。私は彼におめでとうって言わなくてもいいの?
いいえ、私が彼におめでとうって言いたいんだ。
でも、元カノからおめでとうなんて言われても、うっとうしいだけだろうか?
今の彼女にしたら、迷惑なことだろうか?
彼があの時、私におめでとうなんて言わなければ、こんなこと思いもしなかったのに……。
あれは、言わされただけだと思うのに……。
私はお皿の上のケーキにローソクを挿しながら、ふとひらめいた。このケーキにローソクを二十五本分挿したところで写真にとって、おめでとうの写メールを送ろうと。
とりあえず、太いローソク二本と普通のローソク五本を挿したところで、ケーキだけの写真を一枚。残りのローソクも挿そうとしていた拓都を制して、ケーキだけの写真を取る私を不思議そうに見つめる拓都。
「ママ、どうしてローソク全部挿さないのに写真撮るの?」
「明日はね、ママのお友達の二十五歳の誕生日なの。だから、二十五本のローソクを立てたケーキの写真を送っておめでとうって言うのよ」
「へぇ、そうなんだ。でもぼくは、本物のケーキのほうがいいなぁ」
「その人は遠くにいるから、ケーキは送れないの。だから、メールでおめでとうと送るのよ」
すぐ近くにいるけれど、心は遠い過去にあるから。もう、虹の橋も届かない程遠い。
でも、まだ迷っている。本当におめでとうって言って、迷惑じゃない?
その後、二十七本分のローソクを挿したケーキとセルフタイマーで記念写真を取り、ローソクの火を消して、ハッピーバースディの歌を歌って、二人でお誕生日のイベントをした。ニコニコの拓都とケーキを食べた。ケーキはとても美味しかった。でも、何か物足り無い感じがした。
拓都が寝た後、迷う想いの背を押して欲しくて、由香里さんに電話をした。
「へぇ、守谷先生は明日が誕生日なんだ。それで、おめでとうメール? 美緒にしては積極的じゃない?」
由香里さんに、明日の彼の誕生日におめでとうってメールを送っても良いだろうかと訊いてみた。すると反対に聞き返されて、戸惑ってしまう。
積極的ということになるのだろうか?
「やっぱり、元カノから個人的なメールなんて、うっとうしいかな?」
「ん……どうだろ? でも、守谷先生と電話で話した時でも、昔みたいに話せるんでしょ? それに、今日おめでとうって言ってくれたおかえしなんだから、気楽にメール送ってみたら? 美緒は何でも深刻に考え過ぎるのよ。千裕ちゃんも言っていたでしょ」
「千裕さんは、彼とのこと知らないから」
「イヤ、今日の美緒を見て気付いたかもよ? 美緒は自分では分からなかっただろうけど、守谷先生がおめでとうって言った途端、美緒真っ赤になって固まってしまったんだから。私、どうしようかと思ったわよ。千裕ちゃんが、先生に女性を惑わすような笑顔とか言って茶化さなかったら、美緒だってなかなか元に戻れなくて、気まずい思いをしたかもしれないよ。千裕ちゃんに感謝しなきゃね」
「えっ!! 真っ赤になっていたの? うそっ!」
嫌だ、私。気持ちもろバレな態度とっていたの? 西森さんがあの時言ったのも、私をからかってと思ったけど、私を救うためだったの? あの後由香里さんが大笑いしたのも、場の雰囲気を和ますため?
私、二人を酷い人たちだと思ったのに。
二人の友情に助けられていたなんて思いもせずに恨んでいたなんて。
自分の狭量さに、またまた自己嫌悪してしまった。
「ごめん。ごめんね、由香里さん。私、あの時、二人して私をからかっているんだと思って、恨んでいた」
「いいの、いいの。でも、あの後、千裕ちゃんがね、美緒ちゃんってもしかして、守谷先生のこと好きなのかなって言っていたわよ。だから、美緒はイケメンに弱いだけって言っておいた。それに、美緒は初恋の人が忘れられないのって言っておいたから」
「そんなことまで言っちゃったの?」
「そうでも言わないと、ますます千裕ちゃんに疑われるよ? 本当のこと話すつもりがないなら、その辺上手く対応しなきゃ」
西森さんに担任とのことを話すなんて、やっぱり、言い辛い。彼女はファンな訳だし。愛先生とのこと、応援しているみたいだし。それに、話したところで、学生の頃の恋愛の様に協力してなんていう話じゃないし。話すことで、西森さんが変に気を使ったりしたら嫌だし。
役員会議は、まだ三学期もあって、担任と私達学級役員の三人で話をすることはまだあるから、こんなこと聞かされても、彼女だって困ってしまうだろう。本当に気を付けなきゃ。
「そうだよね、いつもありがとう、由香里さん」
「いいの、いいの。それより、守谷先生にお誕生日メールするんでしょ? 良いと思うよ。少しぐらい自分の気持ちに正直な行動をしてみたって」
いいだろうか?
彼女のいる人にそんなメールをしても。
それに……。
「でも、今日の私の反応を見て、彼も何か気付いたかな? それなのにメールなんかしたら、迷惑じゃないかな?」
「そんなに堅く考えなくてもいいよ。お祝いの言葉を貰ったから返すだけ、それだけだから。それで美緒の気持ちも満足できるなら、いいことじゃない? おめでとうって言われて、嫌な気がする人はいないって」
「そ、そうだよね」
由香里さんの言葉に後押しされて、おめでとうメールを送ろうと決心した。
母親であることより、今は恋する乙女になっている自分を自覚している。
でも、今だけ、今だけは許してほしい。
大きくなり過ぎた想いを、少しだけ吐き出させてほしい。
おめでとうメールだけで満足するから。
誰ともなしに許しを請い、祈る。この想いがいつか上手く昇華できますように、と。
そして次の日、私はいつメールを送ろうか悩んだ。夜だと、もしかしたら彼女とお祝いをしているかもしれない。そんなところにメールを送ったら、やっぱりまずいだろうな。
いろいろ悩んで、朝、出かける前にメールを送信した。あの二十五本分のローソクを立てたケーキの写真と誕生日おめでとうという言葉と、『幸せな二十五歳でありますように』とメッセージを付けて。
彼から返事が来たのは夜だった。
メールに驚いたことと、あのケーキの写真がとても嬉しかったこと、本当は写メールを送りたいが、あのケーキの写真に負けない写真が撮れないので今回はパスだと書かれていた。そして、『美緒に又おめでとうが言えて、良かった』と『君の幸せをいつも祈っている』とメッセージがあった。
私は許されているのだろうか?
あんなに酷いことをしたのに。
彼は今幸せだから、全てを許す余裕があるのかもしれない。
これ以上の幸せを望むまい。
これ以上欲張りになってはいけない。
彼の思い遣り溢れるメールに、期待してしまいそうな自分の恋心に、私は必死で言い聞かせた。




