【二十七】友の引越し
バカだよ、慧は。
本当に、バカだよ。
私なんか、恨まれて当然なのに。
どうして私なんかの幸せを気にするのよ。
本当にバカなんだから。
私は、あのキャンプの早朝の出来事を思い出して、大きな溜息を吐いた。
あの直後は、彼が先生になれたことにお祝いを言えたことで私の心は満たされていた。だけど、あの時の彼を思い出すと、辛くなる。あんな仕打ちをした元カノを、恨むどころか幸せを気にしてくれていたなんて。
私は彼を安心させてあげられただろうか?
彼の肩の荷を下ろさせてあげられただろうか?
彼の方が幸せにならなきゃいけないのに。それとも、もう今が幸せだから、私の幸せを心配してくれていたのだろうか?
そうかもしれない。自分が幸せだから、私にも幸せになってほしいと思ってくれたのかもしれない。
彼女に向ける彼の優しい眼差しを思い出す。二人が仲良く話をしている姿が目に焼き付いている。彼は、彼女と幸せなのだ。
彼の幸せを願っているというのに、心にチクリと痛みが走る。
ああ、私って、まだまだだな。
でも、こんな私の幸せを心配してくれた彼の為にも、これからは笑顔で彼に接しよう。彼女との幸せを、心から願えるように、私の中の彼を思い出に変えていこう。
大丈夫、できるよね、美緒。
*****
「ねぇ、私、由香里さんがこの街へ来てくれることに浮かれて忘れていたけど、結婚式はするの?」
お盆が過ぎた頃、由香里さんから住む場所が決まり、二学期から虹ヶ丘小学校へ通えるようになったと連絡があった。その時に、引っ越しはお任せパックで済ますから、落ち着いたら遊びにおいでと誘ってくれた。それで夏休みも終わりの八月三十一日、由香里さんの新居となったマンションに拓都を連れて、お祝いがてらに遊びに来たのだった。今日は休日出勤の代休で、平日のためご主人には会えないけれど、由香里さんとゆっくり話ができると、喜んでやって来た。
「ふふふ、いつ訊かれるかと思っていたけど、結婚式はしないわよ。あのね、もう籍は入れたの。私はもう川北由香里なのですよ」
由香里さんは、悪戯を告白する様に、笑いながら教えてくれた。
「えー! そうなんだ! おめでとう。ご主人は川北さんっていうんだね。でも、ご主人の方も結婚式をしなくても、ご両親とか良かったの?」
よく考えたら、もう入籍しているのは当たり前で、子供たちの転校も明日に迫っているのだ。
「もう、彼のご両親は亡くなっているのよ。九州の方にお兄さんがいてね、お盆に挨拶をして来たの。実はね、彼もバツイチなのよ。だから、結婚式はもういいの。代わりに、家族でホテルのディナーを食べて来たのよ」
由香里さんは、上機嫌で話す。いつも私の悩みの聞き役ばかりしてもらっていたから、今日は私が聞き役に回ろう。心の片隅で、私の話題にならないことを祈りながら。
「それで、仕事はどうするの?」
彼女は、保険の外交の仕事をしていた。結婚した川北さんはその保険会社で上司だったらしい。彼女は契約社員だったので、結婚のために一旦仕事は辞めた。しかし、彼女はこの仕事が好きだと言っていたから、また続けるのだろうか?
「そうなのよね。彼と同じ職場はなんだか居づらいから、彼と同じ支社じゃ無くて、営業所の方で働かせてもらえないかと思っているのよ」
「そうか……、やっぱり仕事は続けるんだね。あの仕事は由香里さんには天職だものね」
「美緒だってそうでしょう? 高校生の時からずっと今の仕事に着くために頑張って来たんでしょう? だったら、天職よ」
そんな風に考えたことがなかった。ただいつも一生懸命勉強して、働いて来ただけだ。
彼もきっと、小学校の先生が天職なのだろうな。
ふと彼のことを思い出したことに気付き、ドギマギしてしまった。どうしてすぐに彼と結び付けるかな。
「美緒? どうしたの?」
自分の考えにうろたえてしまったのを、目ざとい由香里さんに気付かれてしまったようだ。
「ううん。なんでもないよ。ただ、今の仕事が本当に天職かなって、思っただけ」
「そう? それならいいけど。あっ、そうそう、昨日にね、虹ヶ丘小学校へ行って来たんだよ」
「あ、そうか。転校の挨拶に行ったんだね? それでクラスは何組になったの?」
「ふふふ、守谷先生とお話したわよ」
由香里さんは意味ありげに笑いながら言った。
「え! じゃあ、一年三組なの?」
「そういうこと。美緒が忘れられない訳が分かったわ。あそこまで男前だとはね。想像以上だったよ」
「ねぇ、まさか、彼に何か言わなかったでしょうね?」
「何かって? 篠崎さんとはK市にいた時からの友達ですってことは言ったわよ」
「それだけ? 本当に?」
彼女の意味ありげな表情が気になって、私はしつこく確認した。
「何? 他に何かいうことあった? 美緒が今でも先生のことを想っていますって?」
由香里さんは、悪戯っぽい眼をして私の顔を覗き込んだ。
「ま、まさか、そんなこと、言ってないよね?」
私は、それが事実だったらと思うと怖くて、恐る恐る尋ねた。
「言う訳ないでしょ。想いは自分の口で言わなきゃ、ねっ」
由香里さんは、嬉しそうにニヤリと笑ってみせる。
「そういえば、お兄ちゃんの、礼君のクラスは?」
私はまた由香里さんに痛いところを突かれそうな気がして、話を変えた。礼君は、西森さんところの智也君と同じ四年生だ。もしかしたら同じクラスかも?
「礼はね、四年四組だよ。担任は大原先生っていう、女の先生」
あー、愛先生。
由香里さんが大原先生と言った途端、私の顔は強張ったかもしれない。私の顔を見て訝しげな表情をした。
「担任、愛先生なんだ」
何という偶然なのだろう。愛先生と彼が担任だなんて。
「え? 大原先生って愛先生って呼ばれているの? でも、担任が愛先生だと何かあるの? そういえば、守谷先生も今の美緒みたいな顔をしたなぁ」
「えっ? どういうこと?」
「あのね、初めは大原先生との対面だったの。下駄箱を教えてもらって、四年四組の教室まで案内してもらって、話を聞いたのよ。大原先生って、おとなしそうで真面目な感じの先生だった。それで話していると、笑った時かな? 美緒に雰囲気が似ているなって思ったのよ。よく見ると顔立ちも似ている感じがするし。でも、大原先生は、きっと見たままの雰囲気の先生だろうと思うの。美緒はその見かけと、親しくなるにつれて、ギャップが出てくるものね」
私がここで嫌な顔をして「ギャップってなによ?」って言ったら、由香里さんはクスクス笑い出した。そして、話を続けた。
「まあ、まだこちらのお母さん達の間では猫を被っているかも知れないけど、とにかく、大原先生はなんとなく美緒に似ているなって思いながら話していたのよ。それでね、大原先生の説明の後、今度は守谷先生が同じように下駄箱を教えてくれて、一年三組まで案内してくれて、説明をしてくれたの。その時、篠崎さんとK市にいた頃から友達ですって話をしたついでに、大原先生って篠崎さんにちょっと似ていますよね? って言ったら、さっきの美緒みたいな表情をしたわけ」
そう説明した由香里さんは、さあ白状しなさいと脅すような眼差しで見つめて来た。
ああ、由香里さんのその眼差しに逆らえる訳がない。
「あ、あのね、大原先生は、彼の恋人だと思うの。たぶん、そう」
私がそう言うと、由香里さんはやっぱりという様な表情をした。
彼女は勘がいいから、誤魔化しきれないのよ。
「ふうん。守谷先生は、美緒を忘れられなくて、美緒によく似た同僚と付き合っている訳だ」
「違うよ! もう三年以上経っているのに、いつまでも私のことなんて想っているはず無い。私と愛先生が似ているかどうかわからないけど、彼の好きになるタイプだったというだけじゃないの?」
私は由香里さんの言葉に驚いた。そんな訳無い。私のことなんて、あんなひどい仕打ちされた時点で、恨んで嫌になったはずだ。たとえそうじゃ無くても、三年の歳月は、私とのことを過去にしてしまうには充分過ぎる時間だろう。それでも、私が幸せかどうか、気にしてくれていたのだ。
「守谷先生が、大原先生と付き合い始めた理由なんて、どうでもいいけど、美緒は二人が付き合っているっていう噂を信じて、もう諦めてしまうのね?」
「噂も何も……。二人が仲良く一緒にいるところを目にしたもの。彼が彼女のことを優しい眼差しで見つめているのを見てしまったもの。疑いようがないよ」
「へー、そんな現場をいつ見たの?」
あっ、拙いことを言ってしまった。
私は由香里さんにキャンプでの話はしていなかった。していないというか、できなかった。
勘の良い彼女だから、まだ中途半端でしかない私の決意を見抜いて、私の心の綻びを突かれたら、また弱くなってグラつきそうだ。
今まで散々、愚痴や弱音や悩みを聞いてもらって来たから、今回のキャンプで私が選んだ決意を、いつかは由香里さんに聞いてもらおうとは思っていた。
けれど、自分自身が自信を持って、自分の決意を由香里さんに語れるようになるまでは、もう少し黙っていようと思っていたのだった。
でも、やっぱり由香里さんに隠し通すことは出来ないみたい。
私は観念して、由香里さんにキャンプでの出来事を淡々と話した。できるだけ感情が入らない様に。
「そんなことがあったんだ。美緒、頑張ったんだね」
えっ? こんな自己満足な中途半端な決意しかできない私を褒めてくれるの?
私の話を黙って聞いてくれた由香里さんは、聞き終わると暖かい眼差しで、優しい言葉をかけてくれた。いつもなら、突っ込みどころ満載の私の行動や決意なのに。
「私、これで良かったのかな? 彼を安心させてあげられたかな?」
私は心配になって思わず縋るように訊いた。
「大丈夫。彼も美緒が幸せだと聞いて安心したよ。それにしても、彼の気持ち、わかるなぁ。私もね、こうして自分が幸せになると、あの酷い元旦那も幸せになってほしいって思うもの。でも反対に、今の旦那と付き合うまでは、元旦那が誰かと幸せだなんて聞いたとしたら、きっと腹立って恨んでいたと思う」
由香里さんは、そう言って笑った。
そうだよね。やっぱり自分が幸せじゃなきゃ、別れた相手の幸せまで願えないよね。自分が考えたことが正しかったと思いながら、胸に走る痛みを知らんふりした。そして、由香里さんに合わせて、私も笑って見せた。
「美緒、美緒は恋愛事に不器用なくせによく頑張ったと思うよ。でもね、私には強がらなくてもいいのよ。私にだけは弱音を言っていいの。どこかで本音を吐き出せなきゃ、美緒自身が参っちゃうよ。あんまり無理すると、本当に病気になっちゃうよ。美緒はただでさえ仕事も子育ても頑張っているのだから」
由香里さんは真剣な表情で、それでいて優しい眼差しで、私を諭すように言ってくれた。いつも彼女はそうだ。厳しいことを言ったかと思うと、私のありのままを受け止めてくれる優しさのある人。
私は由香里さんの言葉に、流れ出した涙を止めることができなかった。何も言葉にできなくて、ただウンウンとうなずくだけだった。




