【二十五】キャンプ(前編)
八月七日土曜日、真夏の太陽がもう高くまで上がり、雲一つない空は今日の真夏日を約束している。
ああ、今日も暑くなりそうだ。連日の暑さに空を見上げて少しうんざりしながら、それでも今から行く河畔のキャンプ場に心は飛んだ。
西森さん家族がワンボックスの車で迎えに来てくれて、初めて会う西森さんのご主人に、思わず深々と頭を下げた。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
「おはようございます。こちらこそよろしくお願いします。いつも子供達や妻がお世話になっています」
少し照れたような笑顔で、丁寧に挨拶をしてくれる長身で体格の良いご主人は、日に焼けた肌のせいか、いかにもアウトドア大好きという雰囲気があった。
今回行くキャンプ場の名前を聞いて、私は驚くと共に、因縁めいたものを感じてしまった。
彼と行ったキャンプ場。
あまりの偶然に、キャンプの記憶を更新しようなどと思ったからだろうかと、そんな風に思った自分が恨めしくなった。
西森家の車に乗せてもらって、七色峡キャンプ場へ向かう。車窓の景色は見覚えのあるもので、私の心は無意識に時間を遡る。
あの日の彼、運転する横顔。車に流れるあの頃流行っていた音楽。時折こちらを見る彼の優しい眼差し。
車は渓谷沿いをどんどん山の奥へと進んで行く。私の記憶も過去へと進んで行く。
彼が話した子供の頃のキャンプの話。笑いながらテントを張り、一緒に食事の用意をし、食べたバーベキュー。線香花火の儚い光と見上げた夜空の星のきらめき。
蘇る思い出に溺れそうになって我に返ると、心の中で苦笑した。K市にいる時にはこんなにリアルに思い出さなかった。そして、私は今更ながら気付いた。彼と過ごしたこの街へ帰って来たからだ。思い出の場所がそこここにあり、その上、彼に再会したことで、記憶の鍵が壊れてしまったようだ。
彼との思い出の場所の全てで、新しい記憶に更新したら、もうこんなに苦しい想いをしなくていいのだろうか?
少しずつ、別の思い出に置き換えていけば、いつか忘れてしまえるのだろうか。
「美緒ちゃん、どうしたの? 車に酔った?」
さっきから黙りこくって、車窓の風景ばかり見ていたからか、それとも私が分かりやすい表情をしていたのだろうか。西森さんは助手席から振り返って、心配気に声をかけてくれた。
「ううん。大丈夫。四年前に来た時と変わらないなって、見ていただけだから」
ダメだ、ダメだ。これから始まるのに、こんなことで落ち込んでいたら。
「そうだね、この辺は変わらないね。それにしても、お天気もいいし、天気予報も二日とも晴れマークだったし、良かったね」
「ホント! キャンプ日和だよね。でも、紫外線強そうだね」
「そうそう、日焼け止め塗って来た? ずっと外にいるから、焼けるよ」
西森さんはそう言って、楽しそうに笑った。その笑い声に、楽しい気分になって来た。
うん。大丈夫。
新しい思い出で、全てを塗り替えてしまおう。
西森さんと一緒なら、楽しい二日間になりそうだ。
キャンプ場に着くと、さすがにアウトドアに強い西森家の人々は、テキパキとテント二つとタープを設営し、キャンプの準備を進めていく。子供達も慣れているのか、できるお手伝いをしている。私は言われるまま手伝うのが精一杯で、全てのセッティングが終わると、ホッと気が抜けた。
「美緒ちゃん、お疲れ。私ちょっと管理棟まで行って来るから、休んでいて」
私の疲れ具合を見て、西森さんは労いの言葉と共に、笑いながら出かけて行った。元気のあり余る子供達は、西森さんのご主人がキャンプ場の散策に連れ出してくれた。
私は、タープの下の影で、折り畳み式のアームチェアーに腰掛け、真夏の日差しを反射させてキラキラ輝く川の水面を、ぼんやりと見つめていた。
私の名を呼ぶ声に、声のするほうを見ると、西森さんが嬉しそうな顔をして走ってくるところだった。何をそんなに急いでいるのだろうと、首をかしげて彼女の到着を待つと、「美緒ちゃん、美緒ちゃん」とますます嬉しそうに、タープの影の中に走りこんで来た。
「ねぇ、ねぇ、さっきトイレに寄ったらね、良い人に会ったんだよ。誰だと思う?」
西森さんの瞳は、当てて、当ててと訴えながら、キラキラ光っているようで、ちょっと引いてしまった。
トイレで会った良い人?
私はやっぱり首をかしげて、分かりませんというメッセージを視線に込めた。
私のそんな反応にもガッカリすること無く、彼女は言いたくてウズウズしていたのか、焦るように口を開いた。
「あのね、愛先生に会ったんだよ」
えっ?
愛先生?
それって、まさか。
私の中に嫌な予感がジワリと広がりだす。
「ふふふ、あのね、愛先生だけじゃないんだって。虹が丘小学校の先生七人で来ているんだって」
「先生七人で?」
ドキドキ、まさか……。
「そう。お盆過ぎに六年生のキャンプがあるんだけど、それの下見兼予行練習だって。六年の担任二人に有志五人がくっついてきたんだって言っていた。あのね、その中に、守谷先生もいるんだよ。後で、挨拶しに行こうね」
嬉しそうに話し続ける西森さんは、私の反応など気にしないのか、誰先生がいるのかを説明してくれる。知らない先生達の名前が頭の中を通り過ぎる。分かっているのは、彼の名と愛先生。
やっぱり。
自分の予感が的中してしまったことに、大いに困惑してしまった。
挨拶に行く? どんな顔して会えばいいの?
この思い出のキャンプ場で。
新しい思い出で過去を塗り替えるはずが、余計に辛い思い出になりそうで、怖かった。
「それにしても、やっぱり、守谷先生と愛先生って付き合っているのかな? 不倫疑惑より、愛先生のほうがずっといいものね」
守谷ファンの西森さんが認める愛先生って、どんな先生なのだろう?
嬉しそうに話す西森さんに、やっと作った笑顔を貼り付け「驚いたね」と一言返した。
どうにかこの話題が終わると、西森さんは子供たちやご主人がいないのに気づいたのか、「あれ? パパと子供たちは?」と尋ねてきた。やっと気づいたかと思いながら、「散策に行ったよ」と答える。
「それじゃあ、そろそろお昼の用意でもしますか……」と言う西森さんの言葉に、私は重い腰を上げた。
キャンプでお世話になるので、お弁当は私がと申し出た。西森さんは「そんなに気を使わなくていいよ」と言ってくれたけれど、このぐらいはさせてと早起きして頑張った。メニューは、から揚げにエビフライ、ブロッコリーにプチトマト、卵焼きにウインナーなど、子供達の好きそうなおかずとおにぎり。
西森さんは、素麺をゆでるのだと用意を始め、お湯を沸かしている間に、キャンプ用の食器類をテーブルに並べる。私もテーブルにお弁当を出すと、西森さんは目を丸くして「がんばったね」と言ってくれた。そして、そうしている内に、子供達も帰って来て、賑やかな昼食が始まった。
「ママ、あのね、川の水、すごく冷たかったよ。それからね、あっちの方にアスレチックがあったよ」
拓都が嬉しそうに報告してくれる。西森家の兄智也君も弟の翔也君もニコニコ顔で、午後から川で遊ぼうとか、夜は花火するんだよねとか、興奮気味に話している。
良かった。拓都が楽しいなら、それでいい。
それでも、昼食の用意のバタバタですっかり忘れていたらしい西森さんが、急に思い出したのか、声を張り上げた。
「そうだ! 言うのを忘れていたけど、守谷先生や金子先生や愛先生達もキャンプに来ているんだよ。後で挨拶に行こうね」
私も同じように忘れていたけど。といっても、心の片隅に押しやっていただけだけど。どうして、思い出すかな? もうずっと忘れていて欲しかった。これから起こることを想像するだけで、私の心は疲弊していく。
「えっ?! ママ、ホント?! 守谷先生も来ているの?」と、これは翔也君。お兄ちゃんの智也君も「金子先生が来ているの?」と嬉しそうに声をあげた。金子先生は、智也君の担任の先生らしい。拓都も同じように、驚いた声をあげ、嬉しそうにニコニコして私の顔を見上げた。
「へぇ、先生もキャンプに来ているのか。どこにいるの?」
西森さんのご主人は、すぐにテンションの上がる西森さんと違い、どこかのんびりとして落ち着いている。
「あのね、バンガローの方だって。パパ、場所分かる?」
「ああ、管理棟の向こう側にバンガローが幾つか建っていたよ」
「あっ、そうだっけ? 随分ここに来てなかったから、他のキャンプ場とごっちゃになって分からなくなっちゃった」
エヘヘと笑う西森さんを、「おまえは覚える気が無いんだろ?」と笑うご主人に「頼りにしてまーす」と返している西森さんとご主人を見て、お似合いの夫婦だなと、私は少し羨望の混ざった眼差しで見ていた。
昼食の後片付けを済ますと、早速に先生達に挨拶に行こうと子供達が言いだした。私は留守番をしているからと言おうと思ったら、先にご主人に「留守番しているから、行っておいで」と言われてしまった。
私は笑顔でいられるだろうか?
私が辛い顔をしたら、西森さんに気付かれてしまう。
彼女には拓都との関係については告白したけれど、担任である彼のことは言っていない。言うつもりもない。だから、この二日間をできるだけ彼に会わずに過ごしたい。
でも、この状態で私も残るとは言えない。結局行くしかないのだと、腹をくくるしかなかった。
彼と愛先生が付き合っているかもと知ってしまった今となっては、二人が一緒にいるのを冷静に見ることができるだろうか。
私は運命に試されているの?
何のために?
もしかして、彼を傷つけてまでした決意の強さを試されているのだろうか?
それならば、立ち向かうしかない。後悔しないためにも。




